第75話 自分だけが

 いつの間にか、雨が降っていた。ザーザーと音が聞こえて、私の髪を、頭を、全身を濡らした。それでも、私は屋内に移動する気にはなれなかった。ただただ、雨に打たれていた。


 さくらさんのいう私への『恩返し』がなにを指しているのか……それがわからなかった。


「教えてよ……ねぇ……!」誰に話しかけているのかもわからないが、私は喚く。「恩返しってなに……? さくらさんは……私に何を……」


 考えても、わからない。私一人ではわからない。


ゆきさん……」私はゆきさんに手紙を差し出して、「ゆきさんなら……わかるでしょ? さくらさんの恩返しって何……?」

「……」ゆきさんは手紙をしっかりと見つめたが、それを受け取ることはなかった。「私に、その手紙を読む権利はないよ」

「……え……?」なんで……いや、ゆきさんがダメなら……「みなとさん……」

「僕もゆきさんと同意見です」みなとさんは首を振って、「その手紙は、あなたが読むだけに留めるべきだ。そして、あなただけが内容を知って、あなたが理解すべきだと、僕は思います」

「理解って……」私は子供のように首を振って、「わかんないよ……なんで、さくらさん……」

 

 私に恩返し……今回のことで恩返し? それはおそらく物とかじゃなくて……きっと精神的なもの。そんな恩返し。


「……僕から言えることは……1つです」ずぶ濡れのみなとさんが、そういった。「話を聞いてる限りですが……あなたとさくらさんは、似ている」

「……私と……さくらさんが……?」

「はい。優しくて周りのことを気にしてしまって……でも時々思い込んで暴走してしまって……自分だけが耐えれば事態が好転すると思っている……そんな風に、見えます」

「……自分だけが耐えれば……」


 ……私だけが耐えれば……たしかに私はそう思っていた。社長から嫌がらせを受けるのが私だけなら、大丈夫だと思っていた。それで他の人に危害が加わらないのなら……私が耐えてさくらさんが……


「……あ……」そうか……わかった。さくらさんの恩返し。その行為が……わかってしまった。「そっか……そうなんだ……さくらさん……」


 だとしたら、なんて思い込みだ。そんなことはありえない。そんなことで事態は好転しない。そんなことで私は喜ばない。まるで昔の私みたいに、独り善がりで自分勝手で自己完結している。


さくらさん……」私は手紙に語りかける。そこにさくらさんの心があるような気がしたから。「あなたは……知ってたの? 私の代わりに、さくらさんへの嫌がらせがはじまったこと……」


 さくらさんが嫌がらせを受け始めた理由は、間接的に私を傷つけるためだ。そのためだけに、さくらさんは狙われた。

 

 そしてその間、私への直接的な嫌がらせはなくなっていた。さくらさんが標的になっていたから、私に手を回す時間がなかったのだろう。


 そのことを、さくらさんが知っていたとしたら?


 自分だけが耐えれば……


「自分がいじめられているうちは……私に被害が出ないと思った……?」


 さくら牡丹ぼたんが標的にされている間に、青鬼あおき笑美えみは標的にされない。


 そんな理由で……? 私が嫌がらせを受けないように? それだけのために、耐えていたの? 自分の心が壊れてしまうまでに……私のためだけに?


 自分だけが耐えれば、事態が好転すると思っていた……自分が耐えれば、青鬼あおき笑美えみという先輩が苦しまずに済むと思っていた。本気で、彼女はそう思っていた。


「バカ……そんなこと……」さくらさんの恩返しは、大失敗だ。それは、今の私の心がそう告げている。「恩返しなんかなくても……」


 私は、さくらさんのことが大好きだった。その他大勢なんて、思っていない。さくらさんが特別で、さくらさんが好きで、さくらさんが良かった。かわいくて優しくて思いこんでしまって趣味になると話が止まらなくて……そんな不器用なさくらさんが良かった。


――大好きな青鬼あおき先輩――


 最期の言葉が、さくらさんの声で聞こえた気がした。


「直接……言ってよ……」


 察しが悪いから、私にはわからなかった。さくらさんの想いも、苦しみも、なにもわかっていなかった。お互いがお互いのことに踏み込まなかったから、わからなかった。


 ……さくらさん……

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