第74話 先輩へ

青鬼あおき笑美えみ先輩へ』


 かわいらしい丸い文字で、そう書かれていた。縦書きで、一生懸命書いたことが伝わってくる文字だった。


『こんなことになってしまって、申し訳ありません。全然心がまとまってないけれど、青鬼あおき先輩にはなにかを残すべきだと思いました。もしも青鬼あおき先輩がこの遺書を読んでくれたのなら、私は思い残すことはありません』


 何度か書き直した跡がある。そして文字が滲んでいる箇所もあるのを見ると、泣きながら書いていたのかもしれない。


『私は入社して、途方に暮れていました。目標があって今の仕事を始めたのに、なにをしていいのかわかりませんでした。他の人に聞いても、相手にされませんでした。自分の力だけで頑張らなければならないのだと、思いました。だから頑張ろうと思いました』


 頑張ろうと……

 入社初日のさくらさんを思い出す。書類を持ってアタフタとしていて、なにをしたら良いのか、誰も教えてくれない。そんな状態のさくらさん。


『そんなときに、声をかけてくれたのが青鬼あおき先輩でした。青鬼あおき先輩は右も左もわからない私を、優しく導いてくれました』導けてたかな……不安だ。『わからないことは全部、先輩に教えてもらいました。一緒に食事をしても、仕事中でも。いつでも先輩は優しくてクールでかっこよくて、私の憧れでした』


 ……クールでかっこいい……なんとも過大評価だ。さくらさん……人を見る目はなかったらしい。


『飲み会のときも、私を助けてくれました。私がビールを飲まされそうになっていて、そんな私を先輩は助けてくれました』あれは助けたんじゃなくて……部長のことがムカついただけだ。『先輩はいつも私のことを助けてくれていたのに、私は先輩になにもできませんでした。もらってばかりで、いつも恩返しがしたいと思っていました』


 いらない。恩返しなんていらない。あなたさえ、いればいい。いればよかった。


『今回のことで、恩返しができると思っていました。でも、恩を仇で返すようなことになってしまってごめんなさい。青鬼あおき先輩は悪くないです。悪いのは、私の弱さです』


 弱さが悪いなんてことはないんだよ。あくまでも弱さは弱さでしかない。長所短所でしかない。悪いなんてことは、ないのだ。


『いじめ、といえばいいのか、嫌がらせと呼べばいいのか、私にはわかりません。でも、それが私に降りかかるようになりました』社長の指示でおこなわれた、さくらさんへの嫌がらせ。『わたしはどんくさいですし、面倒くさいですし、コミュニケーションも苦手です。だから、私がいじめられるのは仕方がないと思っていました。学生時代もそうでしたし、今さら気にすることはないと思っていました』


 学生時代……

 ……そういえば私はさくらさんの学生時代のことを、ほとんど知らない。バスケ部のベンチだったことは知っているけれど、それ以外はなにもしらない。

 いじめを受けていたことなんて、当然知らなかった。


『大人のいじめは、学校のとは違いました。耐えられると思っていたんですけど』その続きは、何度も書き直された跡があった。涙で滲んで読みづらかった、『弱い私には、耐えられません』


 ……


『だからごめんなさい。なにも相談せずにいくことをお許しください。自分勝手な私を許して下さい。せっかく恩返しができると思ったのに、なにもできない私をお許しください』

「謝るな……」

『私がいなくても、先輩は大丈夫だと思います。私の思うクールでカッコイイ先輩。私にとって青鬼あおき先輩は唯一無二の存在だったけれど、先輩からすれば私はただの、その他大勢の1人』

「それは違うよ……」

『こんなお別れで、ごめんなさい。恩返しができなくて、ごめんなさい。せめて先輩だけでも、幸せに生きてください』

「……恩返しって……」

『大好きな青鬼あおき先輩』


 その言葉を最後に、手紙は終わっていた。もとから滲んでいて読み取りづらかったけど、最後のほうはさらに読みづらかった。私の視界が滲んでしまって、読むのに時間がかかった。


「なに……なんだよ、恩返しって……」手紙を持つ手に力が入る。涙を拭く余裕もない。手が震えて、また酸素が足りなくなる。「さくらさんの言う、恩返しってなに……?」


 この手紙の中に、何度も登場した言葉。それがだ。


 いったいさくらさんは……私になにを返してくれようとした? なにもいらないのに。あなたさえいればよかったのに。さくらさんは……


 恩返しって、いったいなに?

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