第57話 経験上ね……
エマさんの車に乗り込んで、ほんの少し時間が経過した。エマさんは車のエンジンをかけて、そして……そのままタバコを吸い始めた。
後部座席から、私はエマさんに言う。
「……っ……」言葉が詰まる。喉に蓋ができたのではないかというほど喋りづらい。私はツバを飲み込んでから、「で、出ないんですか……?」
「……」エマさんはタバコの煙を吐き出して、「迷ってるわ」
「……?」
「今のあなたを……
「……で、でも……」
ロッカールームでは、私を病院に連れて行くと言っていた。
「ああ言わないと、あの場所を抜け出すことはできなかったでしょ。あなたはいわば……容疑者なのよ。窃盗のね」
「窃盗……」そういえば冤罪をかけられそうになってたんだったな。「そんなこと……どうでもいいですよ……」
「……?」
「もう捕まったら良いんじゃないでしょうか。私」歩いてくる間に、ちょっとだけ冷静になった。なってしまった。「……もう私には……何もない……」
「自暴自棄にならないで」
「自暴自棄? 違いますね。最初から私はこういう人間なんです」
未来に希望なんてない。成長性なんてない。最近調子が良いから勘違いしていた。普通の生活になんて、私は戻れない。最初からそんな道は、なかったのだ。
「……」エマさんはさらにタバコをふかす。彼女も少し、混乱しているようだった。「正直に言うわ。私は……あなたをはめようとしていた。あなたが窃盗をやったっていうのは冤罪。社長と私で計画したこと」
「そうでしょうね」
言われなくても、そんなことはわかっている。
「私ね……お金が欲しかったの。あなたに冤罪をかけて、成功したらお金をくれるって、あの社長に言われた」エマさんは拳を握りしめて、「子供の頃から貧乏だった。そのせいで姉も妹も死んだわ。苦しんで苦しんで……食べるものがなくて。寒くてひもじくて……お金さえあれば生きられた子たちだった」
だから私は誓ったの、とエマさんはハンドルを殴りつけて、
「絶対に這い上がってやる。どんな手段を使ってでも大金をつかんで……私達を見捨てた奴らを見返してやるって……だから、どんなことだってした。冤罪だって作ったし、多くの人を地獄に落としてきた。だから……こんなことを言う資格がないのはわかってる。でも、言わせて」
「ご自由にどうぞ」
「ありがとう。今のあなた……あのときの私と同じ顔をしてる。姉と妹が自殺したって聞いたときと、同じ」同じ……エマさんにも、そんな過去があったんだな。「経験上ね……直接顔を見たら……」
その言葉の続きは、エマさんの口から語られることはなかった。ただ、エマさんの膝に涙が数滴落ちたのだけは確認できた。
直接顔を見たら……エマさんが直接、自殺した姉と妹の顔を見たら。私が、直接
きっと私は、正気を保てないだろう。大切な何かが壊れてしまうだろう。だからエマさんは、私を
その配慮はありがたい。エマさんは間違いなく悪い人だが、完全なる極悪人というわけでもないらしい。悪い人なのは、たしかだけれど。
でも……それでも……
「私は……
「……わかった」それから、エマさんはタバコの火を消して、「じゃあ……出発するわ。シートベルトを締めて」
「え……あ、はい」
自分がシートベルトをしてないことに、今更気がついた。やはりまだ混乱は収まっていない。
当然だろう。まだ私は、信じられていないのだから。
だから、
そんなのは淡い期待だ。
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