第2話 え、よわ……

 別に絶対に叶えたい夢があったわけじゃない。譲れない想いがあったわけじゃない。ただ漠然と小学校、中学校、高校と卒業した。なんとなく大学に行って、なんとなく就職した。


 特技があるわけじゃない。容姿が良いわけでもない。会話が得意なわけじゃない。ちょっと手芸が得意なだけ……それ以外がとても苦手な人間。

 

 そんな奴が、苦しむのは当然だ。今まで私は人生に対して極端な努力をしていなかった。苦労して良い大学に行こうとしたわけでもない。そりゃ受験勉強は自分なりに頑張っていたけれど、入学したのは一流大学とは程遠い。


 私ができないやつだから、苦しんで生きている。ただそれだけ。悪いのは私。もっと私が頑張れば……もっと努力すれば、事態は好転する……のだろうか?


 結局買い出しを済ませて、買い出しに行っていたことを上司に怒られた。買い出しなんてしてないで仕事をしろと怒られた。

 その後いつもの量よりも多い仕事をこなす。上司が怒ってると仕事が多く回ってくる。これ幸いと、同僚たちや先輩たちも私に仕事を押し付けていく。


 仕事を終えて、帰路につく。


 もう夜の10時だ。周りが暗い。とはいえ世の中にはもっと遅くまで残業している人だっているのだ。これくらいで音を上げていてはいけない。


 とはいえ……疲れた。こんなのがもう1年近く続いている。しかも最近は2ヶ月間休み無しだ。休日出勤で呼び出されるから、まともに休んだ記憶もない。


 へたり込むように、私は公園のベンチに腰掛ける。私の会社からの帰り道には大きな公園がある。迂回してもいいのだけれど、中を通ったほうがショートカットになる。


 公園にはボールの音が聞こえる。こんな時間に中学生くらいの男の子たちがドッジボールをしているようだった。もう夜の10時だというのに……あんなに元気そうでいいな。


 ちょっとだけ休憩して、家に帰ろう。そう思って鞄の中の飲み物を取り出そうとしたときだ。


「……っ……!」突然頭に衝撃。何事かと思って周りを見回すと、「ボール……?」


 私の近くにボールが転がった。どうやら少年たちがドッジボールをしていて、そのボールが私の頭に直撃したらしい。


「おばさーん!」間髪入れずに、少年たちが遠くから叫ぶ。「ボール取って!」


 声が大きいなぁ……今の私にはその声量は怖い。ビクッとしてしまった。


 そして……まずボールをぶつけたんだから謝って欲しい。私がおばさんに見えるのは甘んじて受け入れるとして、謝罪くらいしてほしい。

 頭が痛い。場合によっては脳震盪とかで倒れてもおかしくはない。ちょっとフラフラする。いや……フラフラするのは寝不足が原因か?


 まぁいい……ボールくらい取ってあげよう。ここで少年たちに怒っても、私の気は晴れないだろうから。


 のっそりと立ち上がって、私はボールを手に取る。ボールなんて投げたのはいつ以来だろうか。高校……いや、中学くらい? とにかくとても昔のことだ。


 思いっきり投げ返すが、ボールは少年の少し手前で動きを止めた。地面を転がって、結局少年には届かなかった。


「え、よわ……」少年が悪気なくつぶやく。本当について出てしまった言葉なのだろう。「まぁいいや……」


 少年はボールを持って、仲間たちのところに戻っていった。だからお礼くらい言ってよ。お礼が欲しくてやったわけじゃないけど……なんだかモヤモヤする。


 ……明日から公園は迂回しよう。今の私の精神状態で、子供たちを見るのはまぶしすぎる。もっと人の少ない道を通ろう。


 今日のところはさっさと帰ろう……そう思ってそそくさと公園を抜けようとする。


 その途中で、


「……」なにやら泣いている少女を見つけてしまった。公園の出口付近……その片隅の木の根っこでうずくまって泣いている小学校低学年くらいの少女。「っ……! ……!」


 グスグスと、嗚咽だけが聞こえてきた。顔を覆って、肩を震わせて泣いていた。

 なんで公園の片隅……木の根っこで泣いているのだろう。どんな理由があるのだろう。考えてもわからない。


 ……やっぱり明日から公園は迂回して帰ろう。今回だって、助けてあげられない。今の私に子供の心を救ってあげることなんてできない。誰かに自分の心を救ってもらいたいくらいだ。


 申し訳ないけれど素通りさせてもらおう……そう思って歩き始める。そして、ふと少女がうずくまっている木を見上げた。見上げてしまった。


 木の上のほうに、赤いランドセルが引っかかっていた。


 ああ……なるほど。木の上にランドセルが引っかかって泣いていたのか。自分が投げた……わけじゃないのだろう。おそらく誰かに投げられて、ランドセルが取れなくなってしまった。だから泣いていた。


 ……この子もいじめられてるのか。相変わらず子供の世界というのは残酷だ。


 しかしあのランドセルの高さ……手を伸ばすくらいでは届きそうにない。取るなら木に登って、危険を覚悟で取りに行かなければならない。


 そんなことをする気力は、私にはない。

 帰ろう。女の子が泣いてるなんてよくあることだ。私が知ったことじゃない。それにどんくさい私に、木登りなんてできるとも思えない。挑戦したところで、無様に落っこちるだけだ。


 泣いてる女の子なんて知ったことじゃない。私のほうが泣きたい。この女の子はだれかがきっと助けてくれる。それは私じゃなくてもいい。


 ……


 ……


 ……


 ああ……もう……なんでこんなところで人生初の木登りに挑戦しなければならないんだろう……

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