夏
夏の風物詩とも言える鳴き声が、私の鼓膜まで響き渡ってくる。うるさいと感じる人もいるかもしれないが、私は彼らの鳴き声は大好きだ。
一週間しか地上で生きることができないのに、懸命に私たちに夏の始まりを告げてくれる。それだけかと思われてしまうが、彼らにとってはそれが人生における一番の仕事なのだ。
人間のように迷ったり、間違った選択をせずにただ一つのことだけを全うして朽ちていくのは、意外と美しいのかもしれない。
人間の次は蝉になってみたいと思ってみたり...
春の温かい風の時は、この長く黒い髪の毛が綺麗に靡くようにゆらゆらと揺られていたが、今ではこの髪が暑すぎて邪魔で仕方がない。
髪を束ねないと首筋に熱気がこもってしまい、とてもではないけれど暑くて耐えられそうにない。
それでもこの髪を切ることはないのだが...中学の頃はバスケのために男子並みの短さだった髪の毛。その頃の私の目に映る髪の長い女の子たちは、私の敵でしかなかった。ただの妬みに過ぎないが。
だから何が何でも切るわけにはいかない。バスが来るまでの間に、髪を左手で束ねながら右手でヘアゴムを無造作に絡ませていく。
急いで束ねたせいか見栄えは悪いかもしれないが、暑さに耐えるよりはよっぽどマシ。
首筋を撫でるかのように、一滴の汗が背中へと緩やかに落ちていく。家から最寄りのバス停まで歩いてきたこともあって、すっかりワイシャツは汗でペタッと肌にくっついてしまっている。
肌感が気持ち悪過ぎて不快。一日このワイシャツで過ごさないといけないのかと思うだけで、学校に行くのが憂鬱になってきてしまう。
私の学校のワイシャツは真っ白な無地のものに校章が入っているだけのシンプルなもの。バス停にいる同じ学校の男子を見てみるが、みんな半袖。
当然、女子の中にも半袖のワイシャツの子もいるが、私はあえて長袖を着ている。さすがに袖の部分をくるくると二回ほど折り曲げてはいるが、それでも暑いのに変わりはない。
今時の女子高校生は、半袖よりも長袖の袖部分をくるくる巻いた方が可愛いらしいので、私も真似しているのだが正直半袖でもいい気もする。
バスが来るまで、自分の手を団扇がわりに顔を仰ぐが全く涼しくない。手持ち扇風機でも買おうかなと迷ってしまうくらい暑すぎる...
そんなことを考えているうちに私が乗るバスがスピードを落としながら私たちのいる元へと向かってきているのが見えた。
「はぁ、これでようやく涼しくなれる・・・」
夏場のバスは車内の冷房がしっかりついているので私からしたら、のんびり落ち着くことができる天国みたいな空間。
バスのステップに足をかけた途端に、一気に天国から地獄へと突き落とされる私の
座る場所なんてあるはずもなく、車内が立ち尽くす人で溢れかえっている。どこを覗いても缶詰状態になってしまっている。
乗りたくない...でも乗らないと遅刻が確定する。意を決して、足を踏み入れる。
車内がゆったりと横に小さく揺れる。乗ってすぐに乗らなければよかったと後悔をするが、もう手遅れなのは確か。ここまできてしまったら、最後まで我慢するしかない。
夏の満員バスの車内の匂いは...察しの通り汗の匂いが充満していた。高校生が多いから爽やかな汗の匂いとか思うかもしれないが、あくまでそれは理想。
現実は全くそんなことはない。ただただ不快な匂いが常に私の鼻を刺激するだけのもの。
隣の人とはもう腕がピッタリとくっついてしまっているため、パーソナルスペースとか、もはや関係なしに自分の領域にずかずかと見ず知らずの他人が入り込んでくる。
あまりにも人が密集しているせいか、バスの冷房が全く感じられないのが辛すぎる...あと学校までどのくらいなんだろうか。
バスの揺れなのか、自分の立ちくらみなのかわからないが体だけではなく、頭の中までもが揺れている感覚。
おまけに私の周りは大人の男性ばかりで、少し恐怖感が湧き上がってきてしまう。
"プーッ"バスの扉が開き、夏の生ぬるい風が車内に流れ込んで、より一層車内がむさ苦しくなってしまう。
「おはようございます。今日はすごい人ですね」
私の頭上から優しげな声と共にバスの中の汗臭い匂いとは、全く異なった爽やかな柑橘系の匂いに釣られて顔を上げてしまう。
吊り革を掴みながら私を見ろ下ろしていたのは、叶多くんだった。あの春のバス停での一件以来、私たちはバスで会うたびに話をし、気付けば毎日話す仲となっていた。
「あ、おはよう。もう叶多くんの最寄りのバス停まで着いちゃってたんだね」
私と彼との身長差はざっと二十センチは離れているので、彼の顔を見るには私が上を見上げなければならない。それでも彼の顔ははっきりとは見えないのだが。
叶多くんの周りだけ別世界のような匂いや雰囲気が漂っているので、ついつい私まで特別なんだと錯覚してしまいそうになる。
そんなわけはないのに。今の私は至って普通のどこにでもいるような女子高校生に過ぎないのだ。
「ぼーっとしてたんですか?少し顔も赤い気がする・・・車内が暑すぎるからですかね」
"そうです、車内が暑いからです"叶多くんとの距離が近くてドキドキしているからなんて口が裂けても言えない。
"キィィィィィ!"当然のブレーキ音とほぼ同時に車内が激しく揺れる。立っていることができずに、彼の胸元へと飛び込んでしまう。
彼の胸元に私の両手を押し当てている状態。もう完全に彼の体に触れてしまっているのに、彼はすました顔をして窓の外の景色に意識を飛ばしている様子。
すぐさま車内に運転手さんの謝罪と急ブレーキの原因が、アナウンスで流れ始めた。どうやら原因は、お年寄りが止まっている車の影から急に出てきたことによるものだったみたい。
"何事もなくてよかった"とホッと肩を撫で下ろす。しかし、私の意識は瞬時に目の前の彼へと再び向けられてしまう。
さすがに、いくら車内が混雑しているからといって、彼の体に触れてしまっているのに何も話さないのはまずいと思い目だけを上に向けて彼の顔を覗き見る。
「あ、あのごめんね。もう少しだけこのままでもいいかな?」
申し訳なさを含みながら、優しい声色で彼の顎に話しかける。どうやら彼も暑さでやられているのだろう。さっきまでのすました顔から一転して動揺している様子が下からだが、若干見てとれた。
「いいですよ・・・」
さっきよりも塩対応になってしまった彼に、心の中で"本当にごめん!"と思いながらも実際は少しだけ嬉しいのは私だけの秘密。
揺れ動く車内に乗じて同じ方向へと流れていく人の塊、透明な『窓』という枠組みに切り取られて、一つの写真のように移り変わっていく景色。
各々の目的地はバラバラだが、みんな一分後、いや一秒後の未来へと進んでいるのは確かなこと。
離れたくてもあまりにも車内がぎゅうぎゅうすぎて離れることができず、二人の間に気まずい空気が流れる。互いに目を合わせることはなく、無言の時間。
沈黙を破ったのは、私たちのどちらでもなく、バスの機械的なアナウンスだった...
「次、星海高校前に止まります・・・」
その後も何やらアナウンスは流れていたが、私の耳に届くことはなかった。もう彼の高校に着いてしまったのかというショックで。
ようやく満員の車内から解放されるかと思ったが、どうやらその願いは虚しく開いたドアから流れ出る車内の熱気と共に何処かへと飛んでいってしまった。
彼の高校前に着いたというのに、誰も降りないのだ。そういえば、違う高校の制服を着た高校生はよく見かけるが、彼の高校の生徒を見かけることは滅多にない。
なぜだろうと思っていると、バスがアクセルを踏んで次のバス停へと向かうためにタイヤを回し始める。
"ん?...私は今誰の胸元に寄り掛かっているのだ。間違いなく彼なはず"どうして彼は自分の高校前のバス停で降りなかったのだろう。
「あ、あれ?学校通り過ぎちゃったよ?」
私の前に立ちはだかる大きな壁に向かって声をかける。あまりよくは見えなかったが、彼の眉がピクッと動いた気がした。
「このままの恋歌さんを放っておくことはできないですよ。だから、恋歌さんが降りるまで乗っていきます」
「え、遅刻しちゃうんじゃ・・・」
「遅刻しますね。でも、いいんです。恋歌さん辛そうだから、僕が柱にでもなりますよ」
自分のことを"柱"と呼んだのが面白かったのか、下から見えてくる彼の笑顔は私には眩しすぎるくらい輝きに満ちていた。反射的に俯いてしまう私の気持ちは、彼にはまだ届いてはいないのだろうな...
「次は日月二丁目・・・」
このアナウンスを聞くたびに思ってしまう。頼むから『日月高校前のバス停を作ってくれと』私が在学中に叶うことはまずないだろうけど。
バスの中には私以外にも同じ高校の生徒が乗ってはいるが、みんな車内がぎゅうぎゅうすぎてボタンを押すことができなかったり、話に夢中になってバスのアナウンスに気づいていない生徒も少し周りを見渡しただけでも確認できた。
このままではみんなが遅刻してしまうと思い、狭い空間で首を回してボタンの在処を懸命に探す。でもどこを見てもあるにはあるが、どこも今の私の立ち位置からでは届きそうにもないところにばかりある。
少し手を伸ばせば届く位置だったら、頑張れたのに頑張ることすらできない絶望的すぎる位置。どうしようかと思い、彼の顔をふと見ると彼の首の後ろにちょうど良くボタンが設置してあるのが見えた。
刻一刻とバスは私たちが降りるバス停へとスピードを緩めることなく向かっている。このまま押さないでいたら、そのまま通過してしまうことだって...それだけは絶対にダメだ。
でも、どうしたら。彼に頼んで押してもらう?それが一番いいのだが、彼も後ろを振り向いてボタンを押せるほど、車内に余裕はない。
こうなったら、もうこれしかない...彼の胸に置いている手をそっと彼の首に回して人差し指で押そうと試みる。
後少しで届きそうな距離なのに届かず、指がプルプルと震え出す。
「ごめんね」
「えっ?」
彼に抱きつくように私の全身を彼の体に預ける。そうしたことで、私の指とボタンとの距離が縮まりなんとかボタンを押すことができた。
その代わり、私の体と彼の体が完全に密着してしまい、汗で肌にくっついていたシャツが彼にまでついてしまう。
密着している体から心臓が鼓動している音が鮮明に聞こえてくるが、果たしてこの鼓動はどちらの心臓から発せられている音かわからない。
だって、私の鼓動は絶対に速くなっているから。もしかしたら、彼にはそのことがバレてしまっているのではと思うと、恥ずかしくてたまらない。
それでも顔に出すわけはいかないので、あくまで表情は普段と変わらぬまま。表面では平静を装っているが、内心はバクバクすぎて今にも破裂しそうなくらい。
バスが私の目的地へと到着したらしく、ぞろぞろと私と同じ制服を着た生徒たちがバスから降りていく。その流れに乗るかのよう私も恥ずかしさを紛らわすために急いで、列へと並び外へと飛び出る。
車内の密集していたむさ苦しい暑さに比べ、外の暑さはカラッとした、また別の暑さを含んだ夏の日差しだった。
ギラギラと私の瞳に訴えかけてくるその眩しすぎる日差しが、一瞬にして見えなくなり、私の前に大きな壁が聳え立つ。
彼の影に入ったことで、私の肌で感じる外の気温がさきほどと比べると、全然違うのが感じられるほど。
「ふぅ〜、暑かったですね・・・外も暑いけど、さっきのはヤバかったです。恋歌さんは大丈夫ですか?」
首筋から汗がすぅーと背中に伝っていく。背中部分は汗で多分びっしょりなのは間違いないが、シャツが透けていないかが不安。
「う、うん。大丈夫だよ。それよりありがとね。ここまで来てくれ・・・」
彼の首元から汗が流れ落ちているのが見える。彼も無理をして私に付き合ってくれていたのかと思うと申し訳なく感じてしまう。
「どうしました?」
疑問そうに首を傾げている彼の首に、ポケットから取り出したハンカチを彼の首元に優しく当てて汗を拭き取る。
身長差があったので、背伸びをして精一杯だったが、なんとか届いたらしい。つま先立ちで体制を維持していたせいか、少しだけ足が痛む。
「え、ごめんなさい。ハンカチ汚しちゃいましたよね・・・」
「いいの!気にしないで。私が勝手にしただけだから。むしろここまでついてきてくれて感謝しかないよ。私一人だったら人混みに押し潰されてたかもしれないし」
私たちの隙間を夏特有の涼しくない生ぬるい風が吹き抜けていく。生ぬるすぎて背中からジワジワと汗が再び無地のシャツを侵食しているのが、なんとなく感じられた。
「そろそろ学校に向かった方がいいのではないですか?」
きっと彼も暑いに違いはないだろうけれど、顔からは一切そういった感情は出ていなかった。むしろ、冷静で落ち着いている様子。
そのいつでも冷静な様子に、私は惹かれてしまったのかもしれない。ただ、彼は私のことなんてなんとも思っていないようだが...
「そ、そうだね!ありがと、もう行くね!」
「あ、はい。またバスで会いましょう」
バスが進んでいく方とは反対の方向に歩いていく彼の後ろ姿。その背中は大きく、頼り甲斐が感じられる優しさに溢れている背中だった。
彼の背中を眺めつつ、私はバスの進行方向の道へと足を進める。そんな私の後ろ姿をこの時、見ていた人がいたとは知らずに...
もし、振り返っていたらまた違った未来もそこにはあったのかもしれない...一つの選択で人生は大きく歪み変化する。いい方向か悪い方向か、それは実際に体験してみないとわからないのだけれど。
だが、これはもう過去の話。今更振り返ったところで、数ある思い出の引き出しのひとつに過ぎないのだ。
「ちょっと、恋歌!あのイケメンな人誰なの!どこで知り合った人?」
「おいおい、男の俺から見てもかっこ良すぎる!」
朝から騒がしい連中に見られていたらしく、絡みが絶妙にだるい。こんな暑い日なのにも関わらず、私の幼馴染たちは暑さなんてお構いなしかのように私にだる絡みをしてくる。
美羽に関してはこの暑さなのに私の腕に引っ付いてくる。暑苦しすぎて耐えられないのに、隣の方はキラキラと目から星が出ているかのような期待に満ちた瞳で私を捉えている。
マジで、助けてくれ...と願っても反対にいるのは幸太なので、もうどうしようもない。私の気持ちなど知る由もない二人は、楽しそうに私が口を開くのを待っている様子。話したくないわけではない。今このタイミングではないだけ...だって汗が止まらないんだ。
「さっきの男の子は、星海高校の子なんだよ。たまたまバスに乗ってる時に仲良くなって、たまに話すんだ」
あまり詳しい内容まで今は話したくなかったので、だいぶ内容を端折って話してみたが、二人の様子はどうやらバラバラ。
美羽は『それで?』と次の私の言葉を要求している表情。それに比べ幸太はなぜか目を煌めかせている。
「おい!まじか!イケメンで頭もいいとか、エグすぎだろ!」
「あんたはやっぱりバカだよね。頭がいいのは高校の制服見ればわかるし、ほんと部活のしすぎで脳筋でもなったんじゃないの?それで、恋歌は彼と付き合ってるの?」
ぎゃあぎゃあ騒ぎ回っている誰かさんを無視しつつ、核心に迫ってくる美羽。やはり、こういうところは抜け目ないというか、男子と女子の着眼点の違いにも感じる。
「付き合ってはないよ・・・」
「ふーん、そういうことね。私にはわかったわよ」
「え。わかったの?」
「何がわかったんだ?俺にも教えてくれよ!」
「あんたは少し静かにしてて。当たり前よ。幼馴染を舐めるなだよ!」
そう言い残し、美羽は鼻歌まじりに私たちの先を歩いて行ってしまった。残された私と幸太は顔を見合わせて、思っていることは違うだろうけれど首を傾げあった。どうやら、私の片思いは彼女にはバレてしまったらしい。
さすが、私の大切な幼馴染。私が美羽の立場だったら気づくことはできたのだろうか...もしかしたら幸太の立場だったかも。いや、それはないな...だって...
鼻歌まじりで気分良さそうに前を歩く美羽の後ろをついていくうちに、学校が目の前に広がり始める。一つの入り口に大勢の生徒たちが吸い込まれるように流れ込んでいくのを見ると、三年も通っているのに見たこともない人もいるのだなとつくづく実感する。
夏の暑すぎる日差しを遮るかのように大きな日影を作りながら、我々生徒を快く待ち受けている真っ白い校舎。
今の私にとっての学校は勉強するというところよりも、日差しを遮るものとしての意識の方が強かった。
だって、一刻も早く日陰のある校舎に入りたかったから。
教室に入ると、クラスメイトたちが夏の暑さにやられ、水分をすっかりとられたかのように乾涸びていた。下敷きで微弱の風を仰いでいる者、教室に一つしかない扇風機を独占している者と様々だが、共通して言えることは皆、暑さに打ちひしがれていることのみ。
教室の窓は全開なのにも関わらず、流れ込んでくる風は生ぬるく、心地がいいとはお世辞でも言えないものばかり。
二ヶ月前だったら、花の匂いと共に優しく温かい包み込むような春風だったのにと寂しく思ってしまう。次、あの風を感じることができるのは来年のことだと考えると長いとさえ思ってしまう。
それに、来年はすでに私はこの高校を卒業しているのだ。この教室の窓から流れてくるあの春風を私はもう体験できない。果たして私はどんな道に進むのだろうか。まだ、見当もつかない。進路さえ決まっていないのだから当然なのだが...
私は一体どんな道に進みたいのだろうか...ふと彼の顔が頭の片隅によぎる。彼は一体どんな進路へと進むのか。
日本でも有数の名門大学に進学するのか、もしくは海外の超名門なのか。そのくらい彼の通っている高校の頭の良さはレベルが違うのだ。
もしかしたら、私たちとは根本的に頭の作りが違うのかとさえ思ってしまう。それほどまでに彼の高校の進学実績は凄まじいのだ。
学校のチャイムが校内に響き渡り、ホームルームの始まりを私たちに告げる。
「みんな、おはよう!えー、今日で夏休み前最後の登校だ。いいか、夏は受験の天王山とも言われている大事な時期だから、勉強を怠らないように。それと夏休み中に三者面談があることを忘れるなよ。ちなみに、面談は前に渡した手紙にある通り、秋葉からだからな〜」
不意に私の名前を呼ばれ、違った意味でドキッとしてしまう。三者面談...春に渡された『進路希望調査用紙』に私は適当に選んだ大学を三校選んで書いただけだった。夏になっても私の進路はまだ決まってはいなかった。
別に成績は悪いわけではない。上かと言われるとそれもまた違うが、標準より勉強は一応できる方ではある。
もう時期は夏だ。進路が決まっていれば、今頃は勉強に専念しているはずなのだが、目標がないので力が入るわけもない。
美羽と幸太はどうやらこの前の最後の大会で、好成績を叩き出したことで夏まで部活が延長となっていた。二人は『受験生なのに...』と言っていたが、実は大学からスポーツ推薦の誘いもちらほら来ているらしい。
本人たちはその推薦を受けるかどうか今は迷っているみたい。私とは違った意味で進路に迷っている二人。二人の示す進路の選択肢の幅は限られてきている。それなのに、私の進路は無数の街路樹のように散りばめられている。
この中から一つの選択肢を選ぶのに私はどのくらいの時間を要してしまうのか。そうのんびりとはしていられないのに...
「・・・ば。・・きば。秋葉!話聞いてるか?」
「は、はいっ!」
先生がいつの間にか私の座席の前にまで来ていたのだが、全く気が付かなかった。びっくりした勢いで立ち上がってしまい、先生とバッチリと目が合う。
「秋葉。疲れてるのか?何やらぼんやりしているようだな。気分が悪かったら保健室に行ってもいいからな?」
「大丈夫です。ごめんなさい・・・」
教室中は私の間抜けな姿が面白かったのか笑い声で溢れかえっていたが、私の耳にはノイズのような雑音にしか感じられなかった。
悪く言ってしまえば、完全に私の被害妄想だが、嘲笑されているようにも感じてしまう。そこまで私は進路という壁に悩まされているのか。
夏休み前、最後の授業だったが何一つ頭に入ってくることはなかった。授業中もひたすらノートに自分がこの先したいことを書き出してみたけれど、なかなかピンとくるものがない。
明日から夏休み。去年までの私ならこの瞬間がとてつもなく嬉しかったのが、今は全く嬉しくない。いっそのこと時間が止まってしまってほしいな。それは私に限ったことではないのかもしれないが。
黒々としたアスファルトの上を"カツカツ"とローファーの音を響かせながら、バス停へと向かうために、一人頭の中様々な思量を巡らせつつ歩く。
一人で悩んだって何も解決しないのに、この時の私は一人でなんとかしようとしていたんだ。それを変えてくれたのは...忘れられないあなたでした。
バス停でバスを待っている間に、この前本屋で買ったばかりの英単語の参考書を鞄から取り出して、眺めてみる。わからない単語も並んでいるが、基本は習ったことがある単語。もちろん全国の受験生は今もこの単語を覚えようと必死に勉強している。
この単語帳を買った決め手となったのは、もちろん彼が使っていたからなのだが...所謂ミラーリング効果を意識してみた。本人は全く気づいていない様子だけれども。
十分もしないうちに排気ガスを吐き出したバスが目の前に停車する。独特すぎるガスの匂いが鼻にツンと香る。嫌いじゃない。このガソリン臭い特有の匂い。
バスの扉が開き、ステップに足をかける。"ピッ"ICカードをかざすと静かなバスの中に無機質な電子音が車内に小さく響いてしまう。
残高が表示される。五百六十円。もうこんなに減っていることに全く気が付かなかった。なんとか家までは帰れるが、明日バスに乗るにはチャージする必要がある。少し手間だが、コンビニでチャージするしかなさそうだ。
車内の後方を見てみると、私の定位置が空いていた。特に何も考えることなく、その席へと足を進めゆっくりとスカートを手で押さえながら腰掛ける。
「発車します」
私が座ったをの確認したのか、すぐ後にバスのアナウンスが聞こえタイヤが回っていく。三ヶ月前までは学校の近くのこの場所もどこを見渡しても桜で埋め尽くされていたのに、今ではまるでその面影が一切ない。
車窓から見える街の景色は、春の温かく穏やかな眺めとは、異なっていた。それもそのはず、街の木々たちは緑一色に染まり、街行く人たちは皆半袖などの涼しげな格好をしている。
蝉が夏を彷彿させるかのように高らかに、私たちに夏を告げてくる。その下で元気にはしゃぎまわる子供たちの姿。
平和な街の一角が私の目に映し出される。こんな日常がこの先もずっと続いてほしいと思うのは、誰でも同じはず。
春が一年で人々に出会いをもたらすのに対し、夏は祭りなどの熱気立つイベントが比較的多い。一つ季節が変わるだけでもこんなにも街や人に変化が現れるのはなんとも面白い。
"プーッ"バスの扉が開き、彼の高校前にどうやらついたらしい。肝心の彼を窓越しに並んでいないか探してみたが、どこにも見当たらない。行きは時間が合うので、一緒のバスに乗ることが多いけれど、帰りは滅多に会うことがないのはこの数ヶ月で分かった。
"もし、会えたら今朝のお礼を言いたかったのに..."
「恋歌さん、今から帰るところですか?」
窓から声のした方に視線を向けると、そこには今朝見たばかりの彼がいた。
「え、あ。そうだよ!叶多くんも?」
「はい、僕も今から帰るところです」
彼はそのままいつもの私の前の定位置の席に座り出す。彼と話すようになってから、この座席が私たちのお決まりとなっていた。隣に座るのは、距離が近すぎて恥ずかしいのでこれが一番いい距離感。
「今日さ、家まで送っていくので僕がいつもバスに乗るバス停で降りませんか?」
突然振り向いて私の瞳をじっと見てくる彼に、引き込まれるように相槌を打ってしまう。あまりにも急な誘いだったので、声にもならなかった。
「よかったです。ゆっくりと話したかったので」
「ねぇ、叶多くん」
「はい、なんでしょう」
「今朝はその・・・ありがとね」
やっと彼に伝えることができたことで、少しだけ体が気楽になった気もする。一日中このことばかりを考えていたから。
「はい!どういたしまして」
彼は再び前を向き直して鞄から私が持っている英単語帳を取り出して勉強を始める。私たちはバスの中でほとんど会話をすることがない。でも、それが私は好きなんだ。適度な距離感で互いのしたいことを尊重しているような、気を遣わないこのフラットな関係が。
話せたらもちろん嬉しい。ただそれは彼のしたいことを遮ってまでしたいとは思わない。時にはそっとしておくことも恋愛には必要なのではないかな。これは、私の持論に過ぎないが。
鞄から彼と同じ英単語帳を取り出して、一ページにびっしり埋め尽くされている単語を一つずつ眺めていく。これだけで彼と今、同じ時間を共有しているようにも思える、小さな私の幸せ。
「おっと、どうやら着いたみたいですね。降りましょうか」
「あ、うん」
バスを降りると、外は真っ赤な夕日に照らされた住宅街が目の前に広がっていた。ジリジリと肌を刺すような暑さだが、目に映る景色は少しだけ幻想的。
家々の隙間から滲み出てくるオレンジ色の光が、私たちの足元を彩ってくれる。まるで、"こちらへ来なさい"と導いているかのよう。
ひっそりとした住宅街を歩く私たち。光のあたり加減のせいなのか、アスファルトに映る私たちの影が手を繋いでいるようにも見えてくる。もちろん現実の私たちは繋いでいないが...影だけが繋がっている。
どこかに繋がりがあることが今の私には嬉しいのかもしれない。だって、こんなにも心が弾んでいるんだから。
「あ、あのさ。どうして今日一緒に帰ろうって言ってくれたの?」
これが、一番気になっていた。よほどのことがない限り、私たちの関係はバスだけの関係。だからどうして誘ってくれたのかが気がかりだった。
「ん?それは、恋歌さんがなんか悩んでいるようだったから、少しでも話を聞いてあげられたらなーって思いまして。迷惑だったでしょうか」
"気づいてくれていた"そんなに私の顔にはっきりと出ていたのか。それに気づいて話を聞くために誘ってくれたなんて...彼の優しさに今は甘えてもいいのだろうか。
もしかしたら、迷惑になってしまうかもしれない。でも、今は...彼に頼ってみたいと心の奥底から湧き出てくる謎の感情。
「あのね、私。進路のことで悩んでいて・・・周りが決まっているのに私だけ決まっていないんじゃないかって思ってさ・・・大学に進学したいんだけど、どこの大学を目指せばいいか分からないの」
話してから少しだけ話さなければよかったという後悔に襲われるが、もう手遅れなのは彼の顔を見れば容易に分かった。
彼の目は揺らぐことなく私を映し出している。黒い瞳に私が映っているのが見えてしまうのではないかと思うほど。
表情は真剣そのもの。誰が見てもきっと口を揃えて言うだろう。
「あの、こんなこと言うのはおかしいかもしれないんですけど・・・もし進路が決まっていないのであれば、僕と同じ大学に行きませんか?」
私の高校生活最後の青春の一ページが、今終わりに向けて動き出そうとしていた。もうすぐ迎える秋の肌寒さに備えるかのように...
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