移りゆく景色の中で、あなたに恋をした

秋風賢人

 温かい日差しの中、窓に映る景色はどこを見てもピンク一色に染まるほどの桜。


 最近咲いたばかりの桜を一目見ようと、この地に訪れに来る観光客も中にはいるくらい私の住んでいる場所は周り全てが桜に包まれている。


 そんな見慣れた景色をバスに揺られながら通学するのは、もうこれで三年目になるのだろうか。


 まだ幼稚園に入る前の頃に親の転勤の関係でこの街に引っ越してきた私。初めての引っ越しに最初は戸惑ってしまったが、今ではすっかりこの街に生まれた時から住んでいるかのような故郷感が湧いてくる。


 あっという間に高校生活も時は流れ、今年は受験生という慌ただしい一年を迎えてしまった。


 もちろん私は進学を希望。でもどの大学に行きたいかはまだ決まっていない。周りの友人たちは続々と志望校に合格するために受験勉強を始めているのにも関わらず、私はまだなにも始めていない。


 普通に考えたら、危機感がないと思われるかもしれない。それでも焦ることがない私はどうかしているのだろうか。


 実際、友人たちにも『受験勉強始めないの?』と言われることがあるが、いつも曖昧に返事をして会話を終わらせている。


 鞄の中から定期を取り出すと同時に、生徒手帳が床に落ちてしまう。『秋葉恋歌あきばれんか』と書かれた赤色の生徒手帳。


 開いてみると写真写りの悪い私が、引き攣った笑顔でこちらを見ている。誰かにその写真を見られたという訳ではないのに、なぜか羞恥心が湧き始め、車内を見回しながら急いで鞄の中にしまう。


 "プー"バスが停留所に到着し、ドアが開く。バスに乗り込んでくる様々な年代の方たち。中には同じ制服の高校生や違う学校の高校生もちらほら混じっている。


 その中に別の高校の制服を皺一つなく着ている彼がいた。いつもバスの中で英語の単語帳を片手に開きながらイヤホンをしている彼。


 彼も今年が受験なのだろうか、毎日このバスのこの停留所から乗り込んでくるので、ついつい気になって見てしまう。


 前に一度だけ、隣の席に座ったことがきっかけで私は彼を見るたびに目で追ってしまう。


 あの日...去年のまだ雪が降る日。私はいつも通りバスに乗ったのだが、その日は雪が積もっていたので乗客が普段よりも多かった。


 私の定位置の一番後ろの左隅の席は既に誰かが座っていて、入り口近くの二列シートしか座席が空いていなかったんだ。


 私の乗る停留所から学校の近くの停留所までは三十分近くかかるので、さすがに立っているのはきつい。


 だから、仕方なくその空いた席に座ったんだ。しばらく揺られながら、車窓から見える移りゆく景色に見惚れつつ。


 ただぼんやりと眺めているだけで、時間が流れていくように進んでいく。


 周りの乗客たちはほとんどが携帯を片手に、外の景色なんてお構いなしにひたすら光る画面と向き合っている。


 今の私たちはもう、携帯電話を手放すことができなくなってしまっている。とても便利で生活に欠かせないものだが、悪く言ってしまえば完全に依存。


 だから、私は時々携帯やネット環境のない無人島に行ってデジタルデトックスしてみたいとも思ってしまう。


 どれだけ私たちの生活に電子機器が影響をもたらしているのか、自分の体感で経験したい。なかなか実践するのは今の生活では厳しいが...


 ストレスがあるわけではない。ただ、何かに依存するのが私は怖い。携帯をどこかに失ってしまってパニックになる人もこの世界中には溢れかえっているだろう。


 そうはなりたくない。多分、学校に携帯を忘れて帰る私はまだそこまで依存しきってはいないはず。


 そんな現実味が溢れることを頭の中で巡らせていると、バスが停留所に着き扉が開く。降りる人はゼロ。乗ってきた人は五人。


 既に車内はほとんどの席が埋まっている状態。必然的に誰かと隣になってしまうのは確定している。


 そう、この時に私の隣に座ったのが彼だった...


「あの、隣に座ってもいいですか?」


 私が聞いた彼の第一声。今でも一言一句間違えることなく覚えているほど。なかなか空いている席に座るためにバスの中で話しかけてくる人はいない。


 私が女性だったから怖がらないように話しかけてくれたのかもしれない。他人にも小さな気配りができる。それが彼の第一位印象だった。


「ど、どうぞ」


「すいません。ありがとうございます」


 笑顔を私に振りまきつつ、静かに腰を下ろす彼。この時はなにも彼に対して思うことはなかった。優しい人なんだろうな...程度のすぐに忘れ消え去ってしまうもの。


 それからも特に漫画みたいな展開があるわけもなく、ただただ過ぎていく時間を個人個人でやり過ごすだけだった。


 漫画だったらここで会話が始まるのかもしれないが、そんなのは理想にすぎない。だって、他人に声をかける勇気は私にはないに等しい。何かきっかけがなければ...


 彼が乗ってきた停留所から五つ目の停留所で彼はバスを降りて行った。立ち上がる時に私を見ながら軽く会釈をして。


 私も彼に合わせて座りながら、軽く頭を下げる。今止まっている停留所の後ろにはこの地域で一番頭のいい星海めいかい高校が聳えたっている。


 見るからに優等生そうで、おまけに顔まで整ってしまっている彼。身だしなみからして、この学校にふさわしいとまで言える。


 続々と校舎へと入り込んでいく優等生のような容姿の彼ら。その中にごく普通に混じるかのようになじみながら溶け込んでいく彼。


 同じ高校生なのにも関わらず、住む世界が違っているのではという錯覚に陥ってしまいそうになる。


 私の高校も偏差値的に言えば、平均よりは上だけれど彼の高校と比べると足元にも及ばない。悲しいが、現実は覆らない。


 ゆっくりと走り始めていくバスの車窓から、学校に歩いていく彼の後ろ姿。空からこぼれ落ちてくる白い雪に紛れながら、私の視界から消えていった。


 これが私と彼の出会い。彼は私のことなんて覚えてすらいないだろうが...


 思い返せば季節も移り変わって温かな春が訪れていたらしい。今日は比較的バスが空いていたので、いつもの定位置の一番後ろの左隅に座っている。


 彼はというと、乗り込んですぐにちょうど私の前の空いている二列シートに腰掛けた。座るや否や、鞄から数学の参考書を取り出して睨めっこしているのが、後ろから見てとれた。


 若干身を乗り出して見ているので、他の人がこの光景を見たら不審がることは間違いないが、生憎今日はバスに人がそこまで乗っていない。


 お年寄りや主婦の方ばかりで、みんなバスから降りやすい前の席に座っているため後ろはガラガラ...


 彼の首の隙間から見える参考書を見てみるが、私の頭では理解できないくらい凄まじい記号や文章がずらりと並んでいるのが見えてクラッと眩暈がしてしまう。


 私には何年経っても理解することができないのではないかと思うくらい。一体どんな頭の作りをしているのだろうか。


 前後に座ったまま時間の流れと共にバスも目的地へと走っていく。換気のため少しだけ空いている窓の隙間から春の温かな風と優しい匂いが流れ込んでくる。


 彼の真っ黒な綺麗な髪が風に靡いてほんのりシャンプーの匂いを漂わせる。手を伸ばせば触れることができる位置。でも、そんなことをしたら私は完全にヤバいやつになってしまう。


 結局、今日も話しかけることができずに彼はバスから降りて行ってしまった。名前すら知らない彼。一体どんな名前なのかな。


 彼が降りて行った十分後に私の高校の最寄りのバス停に着く。座席から立ち上がり、定期を使って足元に気をつけながら降りる。


「ありがとうございました」


 バスを運転していたおじさんに笑顔で挨拶をしてからゆっくりと地上に足をつけていく。黒く硬いアスファルトの上へと。


 バス停から私の通う高校までは徒歩で十分と彼の高校とは違って、全く便利ではない。それに学校の前には心臓破りの坂と言われているほどの急な坂があるほど...これを毎日登るのが、もうしんどい。


 歩いている私の横を自転車で登校している子たちが風をきるかのように走り去っていく。その後ろを歩いていた私は当然、彼らが巻き起こした風にスカートが捲れるのを手でグッと抑える。


「おはよう、恋歌れんか!」


「おっは!」


 高い声と低い声が連続して私の耳に届いてくる。顔を見なくても分かるのは小さい頃からずっと一緒にいるからなのかもしれない。


「おはよう!美羽みう幸太こうた


「うわ、すげぇ。声だけで俺たちって分かるんだな・・・」


 私は振り返ることなく彼らに返事をした。それに幸太は驚いているらしい。私からしたら何年も毎日聴いている声なので、当然分かるのだが...


「逆に幸太は私の声分からないの?何年一緒にいるのよ」


「何年一緒にいても分からないのは分からないんだよ!ごめんな!」


 河上美羽かわかみみう杉浦幸太すぎうらこうたとは幼稚園からの幼馴染で、小さい頃からいつも三人で遊んでいた。もちろん小学生や中学生になっても、毎朝必ず三人で登校していた。


 今は私だけバス通学、二人は自転車。これには特に深い理由はない。ただ、私が中学生の頃から高校生になったらバス通学をしてみたいという憧れがあったので、今の形になっている。


 私たちの通っていた中学校はなぜか、周りの中学校とは違って自転車通学をしてもよかったので、私たちは毎日三人で自転車通学をしていた。


 たぶん、私は自転車通学は中学校で満喫してしまったのだろう。二人からは自転車通学しようと言われたけれど、私の心が揺らぐことはなかった。


 そして、二人も昔から私は何かを決めたら絶対に曲げることはないと知っているので、すんなりと諦めてくれた。


 たまに、二人もバスで登校してくれる時もあるが、それは大雨や大雪の日だけ。


「ねぇ、恋歌。最近楽しそうだね。なんかあったの?」


 私の顔を下から覗き込んでくる美羽。幼馴染な分、些細な変化にも気づいてくるので、嬉しい反面気付かれたくないことがある時は隠すのが大変。


「えー?何にもないよ。バス通学っていいな〜って感じ」


「憧れだったんだもんね」


「いーや、やっぱり恋歌も自転車通学に・・・いって!」


 横にいる美羽から頭を叩かれている幸太。いつも幸太はこんな感じで美羽から叩かれている気もする。全て幸太が悪いので仕方がないのだけれど。


「もう、その話はいいから!あんたもしつこいわね」


「だってよ・・・いつも三人でいたのに寂しいじゃんか」


「はいはい、いいじゃない今年はみんな同じクラスなんだし」


「それもそうだな!」


 先週発表された三年生のクラス分けで見事、私たちは高校生になって初めて同じクラスになることができた。


 その時は嬉しすぎて三人で一時間以上かけて歩いて家まで帰ったのを覚えている。正直なんで歩いて帰ったのかは不明...嬉しくて距離なんて気にならなかったんだ。


 いつものように三人で歩いていると、校門が見えてくる。デカデカと校門の横に書かれている日月にちげつ高校の文字。


 この校門を通り抜けるに、すっかり慣れてしまった。ついこの前まではブカブカの制服に着せられていた私たち。


 今ではもう馴染みに馴染んだ少しだけ色褪せた制服。あと一年と考えると長くもあるが、実際はそうではないのだろうな。


 絶対に卒業式の日に『あっという間だったな』と、この三人の誰かは口にすると思う。


 校門を抜けるとそこには緑溢れる芝生の絨毯に桜の木が惜しみなくそこらじゅうに咲いている。この景色だけは何回見ても飽きることはないと言えるほど。


「何度見てもこの景色は綺麗だよね・・・」


 隣を歩いている二人にぎりぎり聞こえるくらいのトーンで話しかける。景色の虜になりすぎてもはや声が出ていない。


「そうだね。県内でうちの高校が一番綺麗なんじゃない?」


「いや、俺的にはあの・・・星海高校も綺麗だと思うぞ!」


 一瞬ドキッとしてしまった。何もやましいことなどあるわけでもないのに、高校名を聞いただけで彼の顔が頭に思い浮かんだ。


 二人が駐輪場に自転車を置きに行っている間に、携帯のカメラ機能で桜の花びらが散る瞬間を写真に収めようと桜の木に焦点を合わせる。


 "パシャ"携帯から軽快な音と共に一枚の写真がフォルダに保存される。青空の下に佇む桜からヒラヒラと宙を舞う花びら、それに小さく映り込んだ私のピースした人差し指と中指。


 写真を見直してから"指は余計だったかな"と思ったけれど、これはこれで私らしさが出ていていいのかもしれない。


「なんの写真撮ってたの〜?」


 横から私の携帯を覗いてくる美羽に驚いて、手に持っていた携帯を落としそうになる。"み、見られてた..."


「お、桜じゃん!綺麗に撮れてんな!」


 釣られるように幸太まで私の携帯を二人で覗いてくるので、急いで電源ボタンを押して画面を閉じる。


「えー、なんで携帯閉じたの〜。もっと見せてよ」


「いいから!さ、教室いこ!」


「それにしても、恋歌は時々意外なことするよな。俺はそういうところ好きだけどさ。桜綺麗だから撮りたくなったの?」


 綺麗だから...それもあるけれど、私は違った理由で桜を携帯の中に収めた。


「んー、ちょっと違うかも」


「え、違うの。じゃー、なに?」


「桜に限らず、その季節って年に一度しか来ないでしょ?次来る春はまた一年後。同じ春でも毎年、姿形が同じわけではないじゃん?だから、なんて言うんだろ・・・桜は桜でも毎年違うからその変化を撮りたいなって・・・」


 私は桜が特別好きなわけではない。ただ、春の象徴とも言える桜が今年はどんな形で、私たちにその可憐さを見せてくれるのか気になったから...


 桜だって生き物なんだから私たちと同様に歳を取っているんだ。毎年変わらないように咲いているが、本当はどこか違っているかもしれない。


 私はその小さな変化を見つけるのが好きなんだ。


 ちなみに去年の桜はいつもより開花が寒さで一週間くらい遅れたはず。私はそんな姿もいいなと思って、確かまだ蕾の桜を写真に収めたはず。


「なるほど・・・恋歌は時々考えることがすごいよな・・・毎年違うか。確かにこの春も毎年同じってわけはないからな」


 普段馬鹿なことばかり言っている幸太が、珍しく私の意見に首を傾げることなく頷いている。もしかしたら、明日季節外れの雪が降るかも...


 三人で教室に入ると、クラスメイトたちが談笑しながら教室の至る所に散らばっている。みんなの顔には笑顔があるが、あと数ヶ月したらこの笑顔から受験シーズンのピリピリした空気になるのかと考えると少し怖い。


 私たちはそれぞれの席について荷物を机の中にしまう。ひんやりした机の中に教科書やペンケースを綺麗に整頓していく。


 "ガラガラ"前の扉から担任の先生が教室に入ってくるのと同時に朝のチャイムが校内に響き渡る。次の瞬間、私たちのクラスの横を走り去っていく男子生徒の姿。


 "あぁ、間違いなく遅刻だ...ドンマイ"と心の中で呟きながら、教卓の前にいる先生に視線を戻す。


「みんな、おはよう!うん、今日も全員出席と・・・あ、そうだ。今日はこれを渡さないといけないんだった。えー、提出期限は一週間後までだからよく考えて提出するように。ちなみに、これを元に夏に三者面談するからふざけたことは書くなよ。悩んでいることがあったらいつでも先生に聞きなさい」


 私たちの担任の先生は見た目は三十代に見えるが、実は四十後半らしく若々しく見える。歳の割には生徒たちからも人気のある生き生きとしたパワフルな斎藤先生。


 ちなみに担当教科は、私の大嫌いな数学なのが残念すぎる。先生は好きなのに教科が...はぁ。


 前の席の女の子から手渡された紙を見て、私の思考は停止する。


『進路希望調査用紙』


 いつくるかとドキドキしていたが、どうやら今日だったらしい。机の上に広げられた紙を見下ろしながらも、私の頭の中は渦巻くことなく空っぽのまま。


 きっと手渡された瞬間に書く内容が決まっている人がほとんどだろう。むしろ、決まっていない人の方が少ないのかもしれない。


 私の両親は進学に賛成してくれているし、どんな大学でもいいと前向きに考えてくれているのに、肝心な私が迷っている。いや、どの大学がいいのかが私にはわからない。


 一度目標ができたら、ひたすら走り続けるタイプなのにいつも目標を立てるのに時間がかかってしまう。


 とりあえず今悩んでいても答えは出そうにないので、綺麗にずれることなく折り目を作って半分に紙を折る。そのままファイルに入れて鞄の中へと滑らせるように手で押し込む。


 "帰ってからゆっくり自分と向き合って考えてみるか..."たぶん、考えずに逃げるように寝てしまうだろうけど。


 放課後、私は教室で美羽と幸太に別れを告げて一人バス停への道を歩いていた。美羽はバスケ部、幸太は陸上部に所属しているため彼らは放課後も忙しいらしい。もうすぐ三年生最後の大会があるようで二人とも気合が入り込んでいる。


 それもそのはず、三年間の集大成とも言える最後の大会。負けてしまえば、引退。勝てば夏まで延長されるみたい。正直、受験生なので延長されることはいいことなのかとも疑問にも思うが、実際はどうなのか私には分からない。


 それにそんなことを考えているようでは、本気で部活に取り組んでいる人たちには敵わない。勝負の世界は甘くはない。


 私も小さい頃から中学まではバスケが好きで毎日のようにバスケをしていた。当然中学でもバスケ部に入部。部員の誰よりもストイックに練習したし、誰よりもバスケはうまかったと思う。もちろん美羽とはチームメイトだった。


 その結果、三年生にはU15の選抜にも選ばれるほどの実力が備わっていた。でも、今の私は帰宅部。バスケが嫌いになった訳ではない。できないのだ...


 将来有望と言われた私の活躍は凄まじかった。全国の強豪校から推薦の誘いが何十校も来るほど...それが嬉しくて私は普段からのストイックな練習にプラスしてさらに体に負荷をかけ続けてしまった。


 ただ...もっともっと上手くなりたいと思う一心で。それが私の体を少しずつ蝕んでいった。気づいた頃には私の体はとうに限界を迎えていたらしく、バスケをするのが困難な体になってしまっていた。


 バスケなどの激しい運動をすることができないのであって、軽い運動なら今まで通りできるみたい。こうなってしまった原因は足への過度の負担が理由だった。


 自業自得なのは心の片隅では分かってはいたが、バスケをもうできないとお医者さんから言われた時、私の世界は灰色に染まってしまったかのような感覚だった。


 プロの道を考えていなかった訳でもない。それが一瞬にして崩れ去った。一番しんどかったのは周りからの視線。


 口には出さずとも"可哀想に""残念"と目で訴えているのが丸分かりなほど、みんなの目は私の心へと刺さり続けた。


 それでも私は朽ちることはなかった...これが私のすごい所でもある。あんなに長年バスケに打ち込み、人生を費やしてきたのにも関わらず、数日後にはバスケをしていた頃の元気な私に戻っていたらしい。周りが言うには。


 終わったことはもう仕方がない。今の私にできることを探していけばいいという思考の私だったので、すぐに切り替えることができた。


 これには美羽や幸太もだいぶ引いてはいたが、普段の私に戻ってくれたことが何よりも嬉しかったようで顔には涙と笑顔が混じってぐちゃぐちゃになっていたのを思い出す。


 一度挫折した私だから、私の両親は私のしたいようにどんな進路でも反対せずに温かく見守ってくれるだろう。


 昔のことを思い出しつつ、バス停までの道のりを時間に遅れないように歩く。歩道には桜の花びらが散りばめられており、踏まれた跡が残っている。


 落ちてしまった花びらが木に再び戻ることができないように、人もまた時間を遡って戻ることはできない。常に前に前進するしかないのだ。


 バス停に私たちの高校ではない制服の人が立っている。目を凝らして見てみると、そこに並んでいたのは私が毎朝バスで見かける名前も知らない彼。


「なんでここにいるんだろう・・・」


 バスを待っている列には並ばずに、何かを片手に持ちながら佇んでいる彼。時々目線をキョロキョロと見回しているのを見る限り誰かを待っているのだろう。


 ゆっくりとバス停に近づき、彼の前をバレないように通過して列の最後尾へと並ぶ。どうやら、彼の待っている人は私ではなかったらしい。


 淡い期待から一気に地へと落ちていく私の感情。彼のことは好きかと言われたら分からない。でも、目で追うほど気になってはいる。


 これを"恋"と言う人もいると思うが、私はまだ認めてはいない。だって、まともに話したことすらないのだから。


 近くで見て気づいたが、彼は今も英語の参考書を眺めている。彼に"休息"という言葉は存在するのだろうか。


 ゆっくりとブレーキをかけながら、バス停に停車するバス。続々と並んでいた人たちが乗り込んでいくが、彼だけはその場で参考書を見たまま微動だにしない。


 "また、話しかけるタイミングを逃してしまった"と思いつつ、バスのステップを登って行き、帰りは定位置の反対側の席に座って薄い一枚の窓越しに彼を見つめる。


 窓に薄く反射している自分の顔を横目にバス停に取り残されたままの彼に視線を向け続ける。


「発車します」


 バスの無気質なアナウンスが車内に流れるとゆっくりと車体が動き始める。


「あっ・・・」


 発車と同時に顔を上げた彼。一枚の窓を挟んで私たちの視線が交わる。驚いた顔をしている彼は慌てるように自分のリュックから赤色の何かを手に取り、私に見せるように大きく手を振り始める。


 虚しくもバスは徐々に加速を始め、彼の姿は一瞬にして小さくなっていく。彼は何を私に伝えたかったのだろうと思い、ふと今朝のことを思い出す。


 赤いもの...私の生徒手帳...鞄の中を探してもどこにも見当たらない。今朝、落としたのかもしれないと思い、目を細めて彼が手に持っているものをもう一度見る。


 小さくて分かりにくかったが、確かにそれは赤い生徒手帳サイズのものだった。


 急いで、バスの停車ボタンを押して降りる準備をする。ひとつ前のバス停から乗ったばかりだから、彼のいるところまではそこまで距離がない。


 バスが止まるのを確認し、急いでバスから降りて彼の元へと体に無理のない程度に走る。久々に走ったので、私の体も意気揚々と喜んでいる感じもする。


 少しずつ彼のいるバス停が私の視界に移り始める。どうやら彼は次のバスが来るのを待っているようだ。


「あ、あの!」


 彼の体が"ビクッ"と揺れ動く。驚かせてしまった...


 彼の薄い唇が半月上に歪む。そして手に持っている赤い生徒手帳を私の前に、両手で包み込むように優しく差し出してくる。


「ごめんなさい。中を確認してしまいました・・・恋歌さん。いい名前ですね」


 不意の名前呼びにドキッとしてしまうが、今はそれどころではない。去年の冬から目で追っていた彼とこうして向き合えているのだから。


「あ、ありがとうございます。あ、あの。私のこと覚えていますか?」


 口に出してから一気に後悔に襲われる。たった一度しか話していない、しかも一言しか会話していない相手のことなど覚えているはずがない。


 まして、他の高校の生徒なのにも関わらず。仮に私が彼の立場だったら、気になっている人でもない限り『誰だろう』となってしまうに違いない。


『穴があったら入りたい』という言葉はこういう時に使うのだなとしみじみと実感する。"あぁ、本当に恥ずかしすぎる。ただの勘違い女って思われたら..."


「もちろん、覚えていますよ。去年の冬に僕が『隣に座ってもいいですか?』と聞いた時の方ですよね」


 まさか覚えているとは思わず、顔が硬直してしまう。だって、あの日からすでに三ヶ月以上は経過しているというのに。


「は、はい!あの時の人です!」


「よく同じバスに乗っていることが多いので、顔もしっかり覚えていましたから。ただ、名前だけは分かりませんでしたけど」


「あ、秋葉恋歌って言います!ってもう知ってるか」


「はい、僕は渡井叶多わたいかなたと言います。もし、よろしければこれからもバスの中で会う日があったら話しかけてもいいですか?」


 彼の方からの思わぬ提案に自然と心が弾んでしまう。私が去年の冬から願い続けていたことだったから。


 私の想いと同じように春の心地いい暖かな風が、夏に向けてさらに温度が増していく気がした。





































  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る