爪 男

 乾いた空気がさらりと肌にまとわりつくような、猥雑で苛立ちを助長するかすかな音が含まれた気配を感じるとき、大抵たいてい摩耶まや男の指を思い浮かべる。


 ・・・・いまの時代、中指の第一関節にペンダコがある指はとても珍しい。ややり気味になった先端の、そのペンダコの盛り上がったふくらみの、てかてかと光をたたえたまさにその指で、首筋をなぞって肩から乳房へ降りてきたときのあの冷たい、けれどそれからきっと起こるであろうめくるめく快感のたかぶりを想像させるあの感触を思い出しては摩耶は身悶えしたはずである····。

 もっともそれはほんの一瞬の感覚のらぎにすぎず、つい妄想がふくらんですぎたことに摩耶は驚いていた。

 それに。

 彼女がそそられたのは、なにもペンダコだけではない・・・・の爪は、どのような形容もしっくりとはこない、いかなる表現も的確にそのをあからさまにはできないような、神秘にちた光をたたえていたはずである・・・・。


 これは。

 ・・・・・摩耶とあの人との、きわめてありふれた、出逢いと別れの物語である。


         ※


 摩耶が男を洞窟に誘い入れたのは、一月ひとつき半前のことだった。


「で、どうすんの? 抱くの? 抱かないの?」


 男の慾情に火をつけるように摩耶はズバリと誘った。

 婉曲な物言いはしない。

 交合まぐわいの前に、よけいな言葉の前戯は不要だ。

 するか、しないか、やるか、やらないか、その二者択一でしかないのだから・・・・。

 おもえば、つねにその二択の連鎖のなかで、やるやらないの決断を繰り返していくのが人生というものである。そのことを摩耶は知り尽くしている・・・・。


『こ、ここで・・・・か?』


 意外にも目の前の男は驚いて、血走ったまなこに湛えた光を急にしぼませたのを摩耶はた。


「な、なによ、抱かないの?」


 自分の魅力を解しない男がこの世に存在することが摩耶には信じられなかった。そんなことはかつてなかったからだ。

 なんの条件も制約もなく、おのが躰を投げ出そうというのに、自ら股を開こうというのに、それにこたえない男がこの世に存在するはずはない。

 ・・・・それが摩耶にとっての性愛の原理プリンシパルというものであった。

 だから、これまで、何人もの男を、何百人もの男をその股の奥に迎え入れてきた。

 それが摩耶にとってはすこぶる当然の、きわめてシンプルな性の営みというものであった。

 出逢い、まぐわう。

 これほどシンプルで、不浄の念がさまよい邪魔をする余地もなにもない原理原則である。

 出逢い、まぐわい、別れる。

 この繰り返しこそが、彼女をして彼女たらしめてきた唯一無垢なるプリンシパルなのであった。

 ところが。

 あろうことか、その爪の硬い男は、しばし、迷ったのである。逡巡しゅんじゅんしたのである。

 抱くか、抱くまいか・・・・と。

 なんという、冷たい男だろう。と、摩耶は驚いた。世にいう、忸怩じくじたる思い、とはこのことであったろう。

 

「な、なによ、その顔? どうして、考えるの? どうして迷うの? ね、あなた、本能のおもむくまま、刹那せつなの激情のままに、行動することの大切さを学んではこなかったの?」

『・・・・・・・・・・』

「なんとか言ったらどう? ほら、こうして、全裸の女を前にして、なんにも感じないの? なんにも湧き上がってこないの? あっ、あなたの指のペンダコといい、もしかすれば、あなた、物書きさんなの?ふーん、だったら、考え過ぎるのも無理ないわ」

『おれは、物書きなんかじゃない!』


 男は言った。抗弁した。

 物書きふぜいに間違われることは不名誉の極みというものではないか。と、かれはおもう。


「あら、そうなの? 物書きじゃないのなら、どうして、刹那の激情に身を任せようとしないの? あなたの心の奥底に燃えてやまないその激情こそが、なにものにもまして大切なものなの。それがわからない冷たい人なら、こっちからお断りよ」

『激情・・・・そ、の、何たるかは、わかる・・・気がする』

「だったら、迷うこともためらうこともないじゃない!」

『だけど・・・・考えてしまう・・・・これでいいのかと・・・・』

「考える? それでどうなるの? いくら考えたところで、快楽を手に入れることなんてできないわよ。さ、一緒に、まぐわいましょう。言っとくけど、この世のものとはおもえない至福のひとときを約束するわ」


 勝ち誇ったように摩耶は言った。

 ついに、男は全裸になるのももどかしく摩耶を襲った。屹立きつりつした男根ペニスは、たしかに刹那の激情にみもだえながら濡れていた。

 摩耶も応えた。

 持てる技のすべてを駆使して、かれに、濡れそぼつ快感の極致というものを披露し、演舞し、洞窟の外で舞う雪を溶かすような熱さを与え、与えられた。

 一度、男は果てた。

 さらに、もう、一度。

 これには、摩耶のほうが、驚愕し収斂しゅうれんした。

 これまで、二度も挑んできた男がこの世に存在したであろうか・・・・。そのことに摩耶は驚いたのである。

 一体、この男は何ものであろうかと。

 そして、さらに、もう一度。

 摩耶は、このとき、男の指のペンダコで肌を撫でられいたぶられるあまりの心地良さというものを、産まれて初めて感じた。

 

 ・・・・こうした経緯いきさつがあって、いまでも、摩耶は、その男のことを忘れない。忘れ去ることはできない。

 冷たい人どころか、その男は、摩耶からみても、とてつもなく硬く熱い心根こころねを持っていたようであった・・・・。



 【併録 爪男の述懐】


 摩耶まやのような女に出会ったのは、何世紀ぶりのことだろう。

 ・・・・雪が舞う明け方、ふらふらとおれの目の前に現れて、いきなり凍えた手をこちらに差し出してきたとき、

(これが噂の雪女だ!)

と、直勘した。

 ・・・・おれはなにも雪女退治に乗り出したわけではない。村人のやつらにはなんの義理も恩もないからだ。

 それどころか。

 村のやつらは、おれをやじりでつついたり、鉄砲でおどかしたり、縄で縛ったあげく見世物小屋で踊らさせられたことすらあった。

 だから。

 雪女がおれを誘ったとしても、それはまったくの偶然の出逢いというものにすぎない。

 いや、何百年も前から、雪女とのまぐわいセックスについては或る噂を耳にしていた。おそらくはまさに摩耶自らが言っていた、いまだ経験したことのない、そうして向後もたらされることもないだろう快楽をとるか、それともこのまま平凡な人間の女を相手にするだけの惰性の慾情をとるのか・・・・。

 この二択は、おれにとっては重要な大事おおごとであった。

 瞬時も迷わなかったといえば嘘になる。

 なんとなれば、雪女の冷たい膣のひだ芯奥しんおうれた男根ペニスは、数瞬のエクスタシーのあと、二度と使えなくなるからである。つまり、雪女とまぐわった者は、男ではなくなるのだ。人間なら、ほとんどの男は射精とともに死するであろう。

 死と引き換えの快楽。

 死を覚悟で手に入れる極上の快楽。

 ・・・・何世紀にも渡り、世の男どもは、雪女に誘われたとき、瞬時に二択を迫られてきたのだ。

 抱くか抱くまいか。

 狼男のおれでさえ、迷った。

 さすがに人間と違い、摩耶まやとまぐわったところで死ぬことはないだろうと楽観していたものの、やはり、そのとき、迷ったのだ。選択には責任がつきまとう。これまで、ただ本能のおもむくままに生きてきたこのおれですら、迷い、困惑し、地団駄を踏むおもいにかられた。

 結局、おれは、摩耶の魅力に打ち克つことはできなかった。

 抱いた。

 三回。

 あのとき、摩耶は魔物でも見るような目つきでおれを眺めていたっけ。さぞかし、呆れ果てたのかもしれない。慾情のおもむくままにふるまってしまったおれの素顔を、摩耶は忌み嫌ったのかもしれない。

 三回目の射精のあと、めくるめく快感の余韻もそこそこに、おれは洞窟の外へ駆け出した。予想だにしなかった羞恥の感情というものが、いきなり怒濤どとうのごとくおれを襲ってきやがった。そう、おれの全身を撃ちすえたのだ・・・・。

 嗚呼ああ、やんぬるかな、おれはそのとき、悟ったんだ。おれは、快楽の何たるかも知らないまま何世紀も生を長らえてきた井の中のかわずみたいな存在に過ぎなかったのだと。面従腹背めんじゅうふくはいの人間どもの追従ついしょうと冷笑のなかで、苦悩というものも知らずに平平凡凡と暮らしてきた、ひ弱で、半熟な存在でしかなかったのだと・・・・。すると、形容し難い孤独感が、からだの芯奥の空洞から空洞へと順繰りにかけ巡っていきやがったんだ・・・・。



 空虚というのは、こういうさまを言い表す二字なのであろうか。雪女とまぐわっても人間のように死ぬことはなかったが、そのとき、おれは、産まれて初めて、なみだを流した。

 ぶざまなおのれの醜態に対してだったのか、想像だにできなかった快楽のひとときに対する謝意のようなものだったか、それはわからない。

 それに、やはり雪女の伝説というものは空恐ろしいものだと心底痛感させられた。あの日以来、おれは、人間の女をみてもこれっぽっちも慾望というものを抱かなくなってしまったから。

 慾望の死。刹那の激情の喪失。

 生きることの何たるかを知らしめさせられた驚愕と意識の揺曳ようえい

 嗚呼、なんということだ・・・・結局のところ、それがおれに課せられた、快楽の代償というものであったらしい。

 慾情の霧散。まことの快楽との訣別。

 にもかかわらず。

 いまもまだ、もう一度だけ摩耶に会いたいと願うの心と、おれは日々闘っているのだ。


 あれから密かに訪れてみたあの洞窟から、摩耶の姿はき消えていた。

 だからよけいに苛立つのだ。

 忸怩じくじたる思いとはこのことなのだろう。

 会いたい。

 抱きたい。

 もう一度。

 ・・・・あの冷たいひとを捜し出そうと、おれは、今夜も、雪の降る小径こみちをひたすらさまよい続けている・・・・。

 あ。

 そういえば、摩耶はペンダコがどうだこうだと言っていたような気がするが、おれはこれまで筆を手に持ったことはない。木枝の先に尖ったやじりをつけて、人間をくらうときに、ガリガリギリギリコリコリとペンで物を書くように切り刻んできただけのことだ。

 どうやら。

 とかく自分の都合のいいようにものごとを考え妄想する癖は、人間だけの特性ではないようだ・・・・。


              ( 了 )


 



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