爪 男
乾いた空気がさらりと肌にまとわりつくような、猥雑で苛立ちを助長する
・・・・いまの時代、中指の第一関節にペンダコがある指はとても珍しい。やや
もっともそれはほんの一瞬の感覚の
それに。
彼女がそそられたのは、なにもペンダコだけではない・・・・あの男の爪は、どのような形容もしっくりとはこない、いかなる表現も的確にその実体をあからさまにはできないような、神秘に
これは。
・・・・・摩耶と爪硬いあの人との、きわめてありふれた、出逢いと別れの物語である。
※
摩耶がその男を洞窟に誘い入れたのは、
「で、どうすんの? 抱くの? 抱かないの?」
男の慾情に火をつけるように摩耶はズバリと誘った。
婉曲な物言いはしない。
するか、しないか、やるか、やらないか、その二者択一でしかないのだから・・・・。
おもえば、つねにその二択の連鎖のなかで、やるやらないの決断を繰り返していくのが人生というものである。そのことを摩耶は知り尽くしている・・・・。
『こ、ここで・・・・か?』
意外にも目の前の男は驚いて、血走った
「な、なによ、抱かないの?」
自分の魅力を解しない男がこの世に存在することが摩耶には信じられなかった。そんなことはかつてなかったからだ。
なんの条件も制約もなく、おのが躰を投げ出そうというのに、自ら股を開こうというのに、それに
・・・・それが摩耶にとっての
だから、これまで、何人もの男を、何百人もの男をその股の奥に迎え入れてきた。
それが摩耶にとってはすこぶる当然の、きわめてシンプルな性の営みというものであった。
出逢い、まぐわう。
これほどシンプルで、不浄の念がさまよい邪魔をする余地もなにもない原理原則である。
出逢い、まぐわい、別れる。
この繰り返しこそが、彼女をして彼女たらしめてきた唯一無垢なるプリンシパルなのであった。
ところが。
あろうことか、その爪の硬い男は、しばし、迷ったのである。
抱くか、抱くまいか・・・・と。
なんという、冷たい男だろう。と、摩耶は驚いた。世にいう、
「な、なによ、その顔? どうして、考えるの? どうして迷うの? ね、あなた、本能のおもむくまま、
『・・・・・・・・・・』
「なんとか言ったらどう? ほら、こうして、全裸の女を前にして、なんにも感じないの? なんにも湧き上がってこないの? あっ、あなたの指のペンダコといい、もしかすれば、あなた、物書きさんなの?ふーん、だったら、考え過ぎるのも無理ないわ」
『おれは、物書きなんかじゃない!』
男は言った。抗弁した。
物書きふぜいに間違われることは不名誉の極みというものではないか。と、かれはおもう。
「あら、そうなの? 物書きじゃないのなら、どうして、刹那の激情に身を任せようとしないの? あなたの心の奥底に燃えてやまないその激情こそが、なにものにもまして大切なものなの。それがわからない冷たい人なら、こっちからお断りよ」
『激情・・・・そ、の、何たるかは、わかる・・・気がする』
「だったら、迷うこともためらうこともないじゃない!」
『だけど・・・・考えてしまう・・・・これでいいのかと・・・・』
「考える? それでどうなるの? いくら考えたところで、快楽を手に入れることなんてできないわよ。さ、一緒に、まぐわいましょう。言っとくけど、この世のものとはおもえない至福のひとときを約束するわ」
勝ち誇ったように摩耶は言った。
ついに、男は全裸になるのももどかしく摩耶を襲った。
摩耶も応えた。
持てる技のすべてを駆使して、かれに、濡れそぼつ快感の極致というものを披露し、演舞し、洞窟の外で舞う雪を溶かすような熱さを与え、与えられた。
一度、男は果てた。
さらに、もう、一度。
これには、摩耶のほうが、驚愕し
これまで、二度も挑んできた男がこの世に存在したであろうか・・・・。そのことに摩耶は驚いたのである。
一体、この男は何ものであろうかと。
そして、さらに、もう一度。
摩耶は、このとき、男の指のペンダコで肌を撫でられいたぶられるあまりの心地良さというものを、産まれて初めて感じた。
・・・・こうした
冷たい人どころか、その男は、摩耶からみても、とてつもなく硬く熱い
【併録 爪男の述懐】
・・・・雪が舞う明け方、ふらふらとおれの目の前に現れて、いきなり凍えた手をこちらに差し出してきたとき、
(これが噂の雪女だ!)
と、直勘した。
・・・・おれはなにも雪女退治に乗り出したわけではない。村人のやつらにはなんの義理も恩もないからだ。
それどころか。
村のやつらは、おれを
だから。
雪女がおれを誘ったとしても、それはまったくの偶然の出逢いというものにすぎない。
いや、何百年も前から、雪女との
この二択は、おれにとっては重要な
瞬時も迷わなかったといえば嘘になる。
なんとなれば、雪女の冷たい膣の
死と引き換えの快楽。
死を覚悟で手に入れる極上の快楽。
・・・・何世紀にも渡り、世の男どもは、雪女に誘われたとき、瞬時に二択を迫られてきたのだ。
抱くか抱くまいか。
狼男のおれでさえ、迷った。
さすがに人間と違い、
結局、おれは、摩耶の魅力に打ち克つことはできなかった。
抱いた。
三回。
あのとき、摩耶は魔物でも見るような目つきでおれを眺めていたっけ。さぞかし、呆れ果てたのかもしれない。慾情のおもむくままにふるまってしまったおれの素顔を、摩耶は忌み嫌ったのかもしれない。
三回目の射精のあと、めくるめく快感の余韻もそこそこに、おれは洞窟の外へ駆け出した。予想だにしなかった羞恥の感情というものが、いきなり
空虚というのは、こういうさまを言い表す二字なのであろうか。雪女とまぐわっても人間のように死ぬことはなかったが、そのとき、おれは、産まれて初めて、
ぶざまなおのれの醜態に対してだったのか、想像だにできなかった快楽のひとときに対する謝意のようなものだったか、それはわからない。
それに、やはり雪女の伝説というものは空恐ろしいものだと心底痛感させられた。あの日以来、おれは、人間の女をみてもこれっぽっちも慾望というものを抱かなくなってしまったから。
慾望の死。刹那の激情の喪失。
生きることの何たるかを知らしめさせられた驚愕と意識の
嗚呼、なんということだ・・・・結局のところ、それがおれに課せられた、快楽の代償というものであったらしい。
慾情の霧散。まことの快楽との訣別。
にもかかわらず。
いまもまだ、もう一度だけ摩耶に会いたいと願う
あれから密かに訪れてみたあの洞窟から、摩耶の姿は
だからよけいに苛立つのだ。
会いたい。
抱きたい。
もう一度。
・・・・あの冷たい
あ。
そういえば、摩耶はペンダコがどうだこうだと言っていたような気がするが、おれはこれまで筆を手に持ったことはない。木枝の先に尖った
どうやら。
とかく自分の都合のいいようにものごとを考え妄想する癖は、人間だけの特性ではないようだ・・・・。
( 了 )
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます