第103話 妹の矜持(1)
(に、兄さんが、け、結婚?)
森の茂みで、藤沢由比は胸を押さえてうずくまる。
動悸が止まらない。
まさか、冷蔵庫に冷やしたままで大和に渡し忘れたデザートを持って来たら、こんな現場に遭遇するなんて。
由比とて、最初は隠れるつもりなんてなく、普通にフルーツを届けるつもりだったのだ。
ただ、最近あのロリっ娘メイドのせいで大和とのスキンシップが減ってるなーなどと考え、寂しさが募り、ちょっと悪戯心を起こしたのが間違いの元だった。ひんやりフルーツを大和の頬に押し当て、「だーれだ!」、「その声は愛しのマイシスターラブラブフォーエバー由比だね」的な心温まる触れ合いを期待して、ほんわかどっきりを仕掛けようと思い立ってしまったのである。
それから、大和の隙を伺うために木陰に隠れていたら、マオがふざけたことを口走り、あれよあれよというままに会話が進行し、出て行くタイミングを逸したという訳だ。
(お、落ち着つけ。落ち着きなさい私。むしろ、あの場所にいなくて幸運だったもしれません)
もし、由比があの場面に出くわしたら、感情の赴くままブチ切れてマオとカニスを罵倒し、大和の結婚に強硬に反対していただろう。
しかし、今回の場合は、そうしたところで大和のためにはならず、むしろ彼を困らせる結果を招いていたはずだ。ことは政治的問題だ。大和の一存で安易に拒否していい問題じゃないのである。
だからこそ、大和は結婚に難色を示しながらも、答えを保留したのである。
(だけど、このままにしておく訳にもいきませんね……)
放っておけば、優しい大和は、彼自身の気持ちを押し殺し、世界のために異世界人との結婚を受忍する可能性がある。一度マオやカニスのルールに絡めとられれば、大和はそのままずるずると異世界サイドに引きずられていってしまうだろう。
そうすれば、やがて地球側の人間関係は疎かになり、由比に温もりを与えてくれたあの鎌倉での『家族』の時間は、きっともう戻ってこなくなるに違いない。
(大和さんは私と七里ちゃんの兄さんです。やっと見つけた私の居場所は、誰にも壊させません)
由比の目的は、大和と七里の妹で居続けること。
そのためにも、七里を奪還するまで、由比は大和の何気ない日常を守りきらなければならない。
そして、彼の気持ちを揺さぶり、こちら
(悔しいですが、あの女を助けを借りるしかありませんね。――くっ。ここは戦略的撤退です!)
由比は足音を忍ばせて森から脱出し、城へと駆け戻る。
「お帰り――って、あんたなんでまだ手提げ袋持ってんの? ちゃんと届けた? レモンのはちみつ漬け」
厨房で銀色のボールを布巾で拭いていた瀬成が、由比に怪訝そうな瞳を向けてくる。
その隣では、礫が踏み台に乗って皿洗いをしていた。
「それどころじゃないんです! 兄さんが大変なんです。このまま放置していたら、私たちはレモンよりもよっぽど酸っぱい結末を迎えることになりますよ! 早く何とかしないと!」
由比はテーブルに手提げ袋を叩きつけ、瀬成に詰め寄って叫ぶ。
「ちょっ。何があったかしらないけど、もう少し落ち着いて話しなって。一体大和がどうしたの?」
「兄さんがマオやカニスから政略結婚の話を持ちかけられてるんですよ! さっき、聞いちゃったんです!」
「けっ、結婚!? や、大和が? 本当に?」
瀬成が声を上擦らせて尋ねる。
彼女の手から滑り落ちたボールが、シンクに当たって耳障りな音を立てた。
「はあ。本当ですよ。何が悲しくてこんな腸が煮え繰り返りそうな嘘をつかなきゃいけないんですか……」
由比はため息一つ答えた。
「そ、それで、大和はなんて?」
「兄さんは答えを保留しましたよ。言動的には今のところ乗り気じゃなさそうでしたけど、異世界人全体との関係を考えると、無暗に拒絶する訳にはいきませんからね」
上目遣いで問うてくる瀬成に、由比は淡々と答えた。
「ふう。そうなんだ」
瀬成は胸に手を当てて、大きく息を吐き出す。
「なにちょっと安心してるんですか! あくまで保留しただけで、将来的には兄さんが異世界人と結婚する可能性は残っているんですよ。っていうか、むしろ、世界を取り巻く状況から言って、向こうがグイグイ来たら、兄さんが断り切れない確率の方が高いです。あなたはそれでもいいって言うんですか!?」
由比はキッチンカウンター越しに瀬成の肩を揺さぶった。
「よ、よくないけど……。もし大和に結婚の話があったとしても、それはあいつの気持ちの問題で、ウチに口を出す権利はないし……」
瀬成が目を泳がせながら、両手の人差し指を組み合わせてイジイジし始める。
全くこの女は。
モンスターには物怖じすることなく対峙できるのに、どうして大和関連のことになると途端にチキンになるのだ。
好きな人がすぐ目の前におり、しかも手を伸ばせば届く状況だというのに、どうして実行に移さないのか。
由比には全く理解できない。
「ありますよ! あるに決まってるじゃないですか! だって、あなたは兄さんの『彼女』でしょう! 兄さんに告白して応えてもらったんでしょう!?」
由比は奥歯を噛みしめながら、絞り出すように言葉を吐き出して発破をかける。
本当は敵に塩を送るような真似などしたくない。
だけど、大和に異世界人の王となることよりも、由比たちと過ごす何気ない日常の方が大事だと再認識させるには、瀬成の協力が欠かせないのだからやむを得ないじゃないか。
「ちょっ。な、なんであんたがそれを知ってる訳!?」
瀬成が顔を真っ赤にして叫ぶ。
「そこのメイドに聞いたんですよ。私がプドロティスに突っ込んで石になった後、あなたが兄さんに告白されたって」
由比はやさぐれたような荒い口調で言って、礫を指さす。
「れーきーちゃーん? そういうことは、知っていても軽々しく人言っちゃだめなんじゃないかな?」
瀬成がモンスターも裸足で逃げ出すような怒りを湛えた笑みを浮かべ、礫に顔を近づけた。
「私は藤沢さんからご質問を受けたので、ご主人様の、『俺、瀬成のことが好きかもしんない』という、発言の内容をそっくりそのままお伝えしただけです。皆さんの下僕である私は、隠し事はできません」
礫は皿洗いの手を緩めることなく淡々と返答する。
「ああ、もう忌々しい。そもそも、プドロティスとの決戦の前に公園に集合した時からおかしいと思ってたんです。あの時、もうすでにあなたは兄さんへの告白を終えてましたね。明日死ぬかもしれないという極限状態における精神的興奮を利用するとは何と卑怯な――」
「ううう、やめて! もうやめて! 確かに、ウチは大和に告白したし、返事っぽいのも貰ったけど、でも、あれから、一度もカレカノっぽいこともしてないの! だから、ぶっちゃけ、本当に付き合ってるって言っていいのか、よくわかんなくて」
呪詛のように不満を漏らす由比の言葉に瀬成が首を振って、切なげなため息を漏らす。
「ちっ。あなたの悩みなんて知りませんよ。夕方あたりにやってる教育テレビの思春期お悩み相談コーナーですか、ここは。反吐がでます」
由比は舌打ち一つ吐き捨てた。
「ああ、もう! ほんとにむかつく言い方ばっかして! つーか、あんたはウチが大和の彼女でいいの? 嫌じゃない訳?」
「嫌ですよ! 嫌に決まってるでしょう! でも、……仕方ないじゃないですか。私だけじゃ、兄さんを『日常』に引き留めておくには力不足なんですから。このまま兄さんが異世界人と結婚したら、私は兄さんの妹じゃいられなくなります」
瀬成から発せられた愚問に答え、由比は唇を噛む。
「はあ? 言ってる意味がわかんないんだけど? ……仮に大和がマオやカニスと結婚したとしても、大和はあんたを妹として大切にし続けるっしょ」
「もちろんです。兄さんは一度口にしたことを違えるような軽薄な男じゃありません」
由比は即答して頷く。
「じゃあいいっしょ。ウチだって、正直ちょっと思うし。このまま、大和がマオやカニスと結婚して、ウチが彼女かどうか曖昧なままでも、ウチがあいつの友達で、同じギルドのメンバーだっていう事実は変わらない訳じゃん? だったら、それだけで大和の近くにはいれるんだから、欲張らずに今のままの立場で満足してもいいんじゃないかって」
瀬成が弱弱しい声で呟く。
「はっ。馬鹿ですか。あなたは。世の中そんなに甘くないですよ」
由比は嘲笑した。
この瀬成という女は、見た目はギャルの癖に、頭の中身はまるで乙女ジュースを濃縮したまま還元しないで詰め込んだかのように糞甘だ。
大和はこういうギャップがある所が好きなのかもしれないが、由比にとってはただいらいらの種となるだけである。
「は? どういう意味?」
瀬成が首を傾げる。
「名目上の『妹』や『友達』という立場には何の意味もないんです。重要なのは生活の実態です。マオやカニスと結婚するということは、兄さんが『王』としての生活に軸を置くことを意味します。それは、人の上に立つ者として、常に一挙手一投足を観察され、個人よりも全体を優先する生活にその身を埋没させるということです」
「だからどうだっていう訳?」
まだ要領を得ないのか、瀬成が眉をひそめて質問を重ねてくる。
ここまで察しが悪いとなれば仕方ない。
こうなったら、由比自身が、この女に現実的な未来予想図というものを叩きこんでやろう。
「ふう、あなたにも分かりやすいように具体的に言ってあげましょうか。例えば、マオやカニスと結婚し、王様となって兄さんの十年後を想像してください。三十路前にさしかかった兄さんの一日はこうです。朝は五時に起き出し、前日の政務の残りをチェックし、今日の予定を整理する。それが終わったら、日中は民の陳情を聞いたり、政府や商談の関係者との面会。その傍らには、いつもマオやカニスが侍っています」
「そ、その時私たちは何してるの?」
瀬成が声を震わせて尋ねてくる。
「家事手伝いですね。仕事は主に兄さんと獣人たちとの間にできた子どもの世話です。で、夜遅く仕事を終えた兄さんが子どもの寝顔を見にきたついでに私たちの姿を見つけて思う訳です。『こいつらにもそろそろいい出会いを見繕ってやらないとまずいなあ』と。でも、今までぐだぐだやってきた腐れ縁があるので、兄さんは自分からは何となく言い出せず、仕事の忙しさにかまけそのことを忘れ、私たちも兄さんに捨てられるのが怖いのでそのことには触れず、漠然と年老いていきます。ぼやぼやしている内にあっというまに私たちはおばあさんです」
「な、なんか、それやだ。中途半端でめっちゃ気持ち悪い!」
瀬成が身震いして言う。
「言っておきますけど、今私が言ったのは、まだ兄さんと一緒にいられる『ベター』なケースですから。普通に考えれば、十年一緒にいる前に関係性が断絶する可能性が高いです。獣人サイドが私たちを邪魔に思って排除にかかるかもしれませんし、兄さんが地球サイドへの未練を断ち切るために自ら私たちを遠ざける可能性もあります。もしくは、私たち自身が、兄さんが夫婦仲睦まじく暮らす姿を隣で見ているのに我慢できなくなり、こちらから疎遠にする可能性もあります」
由比はさらに追い打ちをかけるように早口でまくし立てた。
「ううー、確かに。それは耐えられないかも」
瀬成が言葉の端に危機感を滲ませて頷く。
「ようやくあなたも理解しましたか。人は脆いんですよ。立場は人を変えるんです。もちろん、英雄で王様な兄さんも超絶カッコよくて素敵ですけど、私たちが好きになったのは、素朴で、底抜けに優しくて、家族思いで、裁縫馬鹿な、一般人の兄さんでしょう。違いますか?」
由比は一転、優しい口調で瀬成に語りかけた。
「違わない。別に大和が英雄じゃなくても、王様じゃなくても、ウチは大和が好き」
「だったら、答えは一つです。一緒に守りましょう! 兄さんの日常を!」
由比は瀬成の手を取って叫ぶ。
「わかった。――けど、大和の日常を守るって、具体的にはどうすんの?」
「もちろん、やられる前にやれ。先手必勝です! 異世界人に兄さんを盗られる前に、あなたの方から兄さんにプロポーズすればいいんですよ!」
「は、はあ!? なんでそうなるし!?」
瀬成が困惑したように目を白黒させる。
「なんでって、簡単な話でしょう。兄さんが異世界人より先に、あなたと結婚すれば、公の部分はともかく、私生活は私たちのものです 向こうは所詮政略結婚ですから、愛情で繋がった本当の夫婦には敵いません」
大和が王様になったことは仕方ない。
一度なった以上はすぐに辞めることもできないだろう。
でも、それ自体は大した問題じゃない。
もし世界がこんなめちゃくちゃなことになっていなかったとして日常が続いていたとしても、大和がいずれ大きくなって就職すれば、彼は正業を得ていたのだ。
家庭と仕事の二つの居場所を持つのは、社会人として必然の成り行きであり、何も不自然なことじゃない。今回はその職種が『王』という少々特殊なものだっただけだ。
「何となく言ってることはわかるけど……あんた今さりげなく『私たち』って言ったっしょ。もしかして、あんたも大和と結婚するつもりなの?」
「当然です。だって、向こうが二人なんですから、対抗するには地球サイドにも二人以上の嫁が必要でしょう。本当は私だけで兄さんにアタックかけたかったんですけどね。今の兄さんが好きなのは悔しいながらあなたのようなので、仕方なく協力を要請してるんです」
由比だって、本当は大和を独り占めしたい。
しかし、人の心はままならないのがこの世の真実。
大和が瀬成のことを好きなのは、誰の目にも明らかで、現状、七里を除けば、大和が一番気にかけているのは、多分彼女だ。
そうなれば、大和を地球サイドに引き留める作戦にあたっての一番の適任も、やはり彼女というこになる。
それに、今のまま失恋すれば、傷つくのは大和だ。
大和の幸せは、由比の幸せ。
彼が不幸になるところは見たくない。
家族というのは――兄妹というのは、そういうものなのだ。
「でも、あんたは大和の妹になりたいんでしょ。だったら嫁にはなれないじゃん」
「妹と嫁は古代は同じ意味だったんです。なんの問題もないんです!」
「今更だけど、あんたってやっぱりヤバいよね」
瀬成が由比の手を離し、一歩後ろに引く。
「ああもう! 私の話はいいじゃないですか。今大事なのはあなたの話です。さあ、兄さんにプロポーズするんですか!? しないんですか?」
由比は話題を変えるようにキッチンカウンターを叩いて、瀬成に決断を迫る。
「……ごめん。やっぱりウチにはできない」
しばしの沈黙の後、瀬成の口から出てきたのは、そんな否定の言葉だった。
「は、はあ? なんでですか? あなたは兄さんを愛していないんですか!」
想定していたの真逆の答えに、由比は拍子抜けして肩を落とす。
「ウチは大和が好きだよ。だからこそプロポーズなんてできないの」
瀬成が真剣な表情で言う。
「意味が分かりません。説明してください」
由比は顔をしかめて言った。
好きだからプロポーズする。
これは当然だ。
嫌いだからプロポーズしない。
これも分かる。
しかし、好きだけどプロポーズしないなんておかしい。どう考えても矛盾している。
前後の文脈がつながらないじゃないか。
「だって、今のウチは大和にとって何の役にも立たない、ただのお荷物だもん。モンスターを倒す力もないし、鍛冶だって大和の持ってるスキルでやった方が強いのができるし。そんなウチが、ただでさえ、七理ちゃんのことで色々悩んでいる大和に告白したら、あいつの心の重荷になっちゃうじゃん。せめて、一緒に戦って、大和の苦しみを共有して、目標を応援してあげられるくらいの力がないと、ウチは大和の隣に胸を張って立てない。立っちゃいけないと思う」
「なにいい子ぶったこと言ってんですか! 恋は戦争ですよ! 綺麗ごと言ってる場合じゃないです。大和さんが得たチートに私たちが追い付こうと思ったら、一万年あっても足りませんよ。それじゃあ、一生プロポーズなんてできないじゃないですか!」
由比は怒りに任せて声を荒らげた。
どこまで脳内お花畑なんだ。そんな理想論をぶちまけている場合じゃないだろう。今は。
「お二方、ちょっとよろしいでしょうか?」
それまで由比と瀬成の会話を黙って聞いていた礫が、唐突に手を挙げる。
「なんですか!? くだらない話だったらブチ切れますよ!」
由比は怒りの余韻をたたえたまま、礫を睨みつける。
「くだらなくはないかと。腰越さんが悩んでいらっしゃる件に関して、もしかしたら私がお助けして差し上げられるかもしれないというご提案ですので」
「どういうこと?」
瀬成が首を傾げる。
「実は、私が『ザイ=ラマクカ』の方々にご奉仕するにあたって、戦闘面でも貢献しようと思い、前々から考えていた作戦があるのです。お二方の協力が必要な作戦ですが、これを受け入れて頂けるならば、自動的に腰越さんの懸念も解消されると思います」
礫が冷静ながらも自信ありげな口ぶりで言う。
「興味深いですね」
「詳しく聞かせて」
由比と瀬成は、礫の方へと身を乗り出しって言った。
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