第Ⅰ部 第二章 秩父ダンジョン編
第26話 家族
結局、俺が家に辿りついたのは、空の茜色を紫が駆逐していくような時間帯だった。
「あ、兄さん。お帰りなさい。お風呂掃除して沸かしておきました。ご飯の前に入ります?」
家の扉を開けると、奥のリビングから由比ちゃんがパタパタと駆け寄ってくる。
「ああ、ありがとう。由比ちゃ――」
「――」
思わずちゃんづけしようとした俺の唇を、彼女の人差し指がそっと塞ぐ。
「おほん……ありがとう。由比」
俺は慌てて言い直す。あれから、「兄妹になるのに『ちゃん付けはおかしい』」ということで、由比に散々言い含められていたのだ。由比が俺を呼ぶ時も、『お』を抜いたものになっている。
「いえ。今日の晩御飯はシラス丼ですよ。もうすぐできますから」
由比が鼻歌まじりにリビングへと戻っていく。もうしばらくは似たようなやりとりを続けてしまいそうだが、その内呼び捨てにも慣れるだろう。『友達から』とはいえ、兄になるとこを承諾したんだから、できる限りの努力はするつもりだ。
俺は手洗いとうがいをするために洗面所へと向かった。
ガチャ。
扉を開けた先にいたのは、全裸の七里だった。
「あ、お義兄ちゃん。やっと帰ってきたー」
無防備な素っ裸で、バスタオルで頭を拭く。もちろん、恥じらう様子は微塵もない。俺もこんなことでうろたえるほど、七里を女として意識してない。
それにしても、相変わらず小学生の頃から身体は全く成長していない。由比の胸を富士山とすれば、七里のは鎌倉山である。
「ああ、帰ってきたよ。つーか、由比を働かせておいて、自分は一番風呂とはいいご身分だな」
俺はうがいした後の液体を洗面所の流しに吐きだして、嫌味を言う。
「えー? だって、今日は真夏並に暑くてさっぱりしたかったんだもーん。あ、お義兄ちゃん、久しぶりに髪をとかしてよ」
「自分で勝手にしてろ。あ、もうすぐ夕飯できるらしいから、あんまり時間かけるなよ」
「もー、いちいちうるさいなー。わかったわかった」
七里がぞんざいに頷く。
このままだと、由比という協力な家事の助っ人が登場したことで、七里の堕落に益々拍車がかかってしまいそうな気がする。俺と七里しかいなかった頃は、たまに俺が七里を駆りたてて、無理矢理家事を手伝わせている感じだったが、これからはきちんとした家族内のルールを定めた方がいいかもしれない。
そんなことを考えながら、俺はリビングへと向かった。
由比の料理は文句なくおいしい。さりげなくホウレンソウのおひたしやナスなどの夏野菜がたっぷり入ったみそ汁もついていて、栄養バランスも考えられている。これが俺だったら、めんどくさくて、シラス丼だけで満足してしまうところだ。
「あ、それで、今日、小田原さんに会ったんだけど、ギルドランク一つ上がったってさ」
俺は久しぶりのシラスと米のマッチングを楽しみながら報告する。騒動前は俺もよく作った料理だったが、今は海での漁が危険性を増したため、天然の海産物の値段は軒並み上がってしまって、ちょっとした高級品になってしまった。
「え、でも、あの海岸のミッションは失敗ですよね?」
由比がさりげなく俺の湯呑にお茶を注ぎながら言った。
「ああ、うん。そっちは延期してもらった。でも、なんかあの外人墓地の一件を、鴨居さんが緊急ミッションを達成した扱いにしてくれたらしいよ」
「やったあああああ。これでもうちょっとかっこいいミッションできるよね? 討伐クエストやりたい!」
七里が口からご飯粒を飛ばして、興奮する。
「まだまだ危ないのは却下。まずは海岸の掃除くらいはまともにこなせるようになってからな」
「えー、めんどくさいー」
七里は顔をしかめながら、サラダに手を伸ばす。つーか、トマトを残すな。
「あの、でも、私の複アカを使えば、もう少し上のミッションもできるのでは?」
由比がおずおずとそう提案してくる。
「ああ。うん、確かにそれは選択肢の一つだけど、戦士を二人にするならそれはそれで連携の訓練をしないとね」
確かに、初級から中級くらいまでのミッションなら、戦士1、ヒーラー1、という戦力よりも戦士2の方が有効な場合は多い。敵の耐久度が大したことない場合は、ヒーラーで回復しつつ時間をかけて倒すよりも、安全であることすらあり得る。ただ、それも二人がどの敵を狙うかとか、互いの攻撃が当たらないような身体捌きとか、色んな意志疎通ができてこそだ。
「確かに、そうですよね」
由比が納得したように頷いた。
「もー、そんなチンタラしてたら、いつまでも上のランクに行けないじゃん。今回、ランク上がったのだって、チキるお兄ちゃんの背中を私が押してあげたからでしょ?」
「背中を押すっていうか、あれはただのスタンドプレーだろうが。調子のんな。つーか、トマト食えトマト」
俺は七里のサラダに取り残されたトマトを箸でつまんで、七里の鼻先に突き出した。
「いやー、トマトって絶対モンスターの子供だよー。このぐちゅぐちゅ感超キモイもんー」
「兄さん。兄さん」
なぜか俺と向かい合う形で座っていた由比が、餌を待ち受ける雛鳥のように口を開ける。俺はノリのままに由比の口に箸を突っ込んだ。
「うふふ。おいしい」
由比がなぜか満面の笑み。俺は由比の口と接触した箸を見て、『これって間接キスじゃね?』という邪な疼きを覚えたが、兄という立場上意識していることがバレるのはまずいので、俺は平然と食事を続けた。
「そこで、そんな七里さんも大満足の提案があります」
俺は話を仕切り直すように机を軽く叩く。
「うわっ、なんかむっちゃ怪しい感じ」
七里が不審げにこちらを見てくる。
「いや、そんなことないぞ。ただ、ちょっと俺のクラスメイトをギルドのメンバーに加えたいっていうだけだ」
「……えー」
七里はむくれ顔で、露骨に警戒感を出す。
「兄さんのクラスメイトですか、どのような方ですか?」
「んー、なんつーか、不器用でサバサバした奴だな。一見、とっつきにくいけど、悪い奴ではない、と思う。後、リアル鍛冶師らしい」
俺は言葉を選び選び口にする。
「やだ……なんか怖そう」
七里は早速のコミュ障っぷりを発揮して、視線を落とす。前の鴨居さんとの絡みが奇跡的だっただけで、基本的に七里は初対面の相手にはこんな感じだ。
「まあまあ、お姉ちゃん。会ってもみないのに人を判断するのは良くないよ」
由比が七里を宥める。
「由比の言う通りだ。俺も二人の同意なしにギルドメンバーに加えるつもりはないからさ、とりあえず、会うだけ会ってみないか?」
「うーん、妹ちゃんがそう言うなら仕方ないなあ。会うだけ……だよ?」
七里が上目遣いでこちらを見た。まあ、七里の心をほぐすには時間がかかりそうだが、具体的にどうするかは腰越と会わせてみてから考えよう。七里と腰越の反応を見てからでないと対策の立てようがない。
「おっけー、それで行こう」
俺は機嫌良く頷いた。
そんな感じで夕食を終えた後、俺たちは居間で漫然とくつろいでいた。
編み物を繰る俺の横に由比が座り、七里は床に寝転んで、時折俺にちょっかいを出してくる。
七里が鬱陶しいのはいつものことなので、さほど気にならないが、由比が微妙にこちらに体重を預けてくるのは別だ。
「んー、なんか、あんまりおもしろいテレビないねー。なんか、スタジオで喋ってるやつばっかり」
七里がテレビをザッピングしながらぼやく。いくら立体映像化された最近のテレビとはいえ、芸人の顔をリアル顔で再現されるだけではあまりありがたみは感じられない。
「外のロケはしづらくなっちゃったからかな」
にこにこ顔の由比が言った。テレビの内容とかはどうでも良く、この場にいるだけで楽しいと言った雰囲気だ。
「うーん、そうだな。じゃあ、今から第一回家族会議を開くか。議題は家事の分担についてだ」
編み目の間隔を調節しつつ、そう提案する。
「うっ……やばげ」
「はい、逃げなーい」
何かを察してこの場から逃げ出そうとした七里の首を脚でロックする。
「離してー、変態―、臭いー」
七里はじだばたするが、所詮、兄の力には敵わないのだ。
「分担……ですか?」
「うん。曜日制でもいいし、家事の項目ごとでもいいけど、今のままだとなし崩し的に由比の負担が増えそうだから」
「そんな、私は別に大丈夫ですよ。家事好きですし」
「ほらー、妹ちゃんもこう言ってるじゃんー。大体、前はお義兄ちゃん一人でやってたようなもんだし、お義兄ちゃんと妹ちゃんで決めてよー」
七里は直接的な行動を諦め、こちらの足をくすぐりに出た。俺は足で七里の脇をくすぐり返す。
「ふふはっ……俺とお前だけならいいけどな、由比も家族にするって言うんなら、そこら辺はきちんとしないとな。妹だけが家事を負担するっておかしいと思いませんか、『お姉ちゃん』?」
「ふひっ、ふひひ……わ、わかった」
俺はくすぐったさを堪えて、正論を放つ。七里はついに抵抗を諦めて頷いた。
「本当に私は大丈夫ですよ」
「うん……由比。はっきり言うけど、俺は由比に今まで『遠慮して家事をしてもらってた』」
「え? それは……?」
そう言うと、由比がきょとんとした表情になる。
「ぶっちゃけ、由比がやる家事の量は多過ぎると思っていた。だけど、居候ということを気にしてる由比には、仕事をたくさん任せた方が家に居やすいかなと思って黙認してた。俺の推量は間違ってた?」
家族になるからには、なるべく隠し事はない方がいい。もちろん、人間だから言えないことはあるけれど、血縁もない者同士が家族になろうとするなら、想いは口に出した方が上手くいく。俺はそれを七里から学んだ。
「いえ……兄さんの言う通りです。私、お世話になってるからし、兄さんに自分の存在をアピールするためにもお役に立たなくちゃって、そればっかり考えてました。ご迷惑でしたか?」
由比が潤んだ瞳でこちらを見る。
「ううん。もちろん、家事をしてもらえればありがたいよ。だけど、本当に家族になりたいっていうなら、お互いそういう変な気の使い方はなし。わかる?」
「まーったく、そう言うの正直に口に出しちゃうのがお義兄ちゃんのボンクラな所だよねー。ま、お義兄ちゃんらしいけどさー」
七里が苦笑して、こちらを上目遣いで見つめてきた。
「私……嬉しいです。本当に、私を家族にしてくださるつもりなんですね」
由比が感動した面持ちで眦を服の袖で拭う。そんなに大したことじゃないと思うが、まあ、喜んでもらえれば嬉しい。
「うん。じゃあ、そういうことで、これから七里は風呂掃除の当番な」
湿っぽくなった空気を振り払うかのように、俺は七里の頭を足のかかとで小突いた。
「えー、なんで、そうなるのー」
「じゃあ、朝のゴミだしとかにするか? ああん?」
「うー、やだ。朝はぎりぎりまで寝てたいもん。わかった。お風呂掃除でいいよ」
七里はしぶしぶと言った様子で頷いた。
「あの、じゃあ、私はお料理をさせてください。気を遣ってるとかじゃなく本当に好きなので」
由比がビシっと手を挙げて、そう要求する。
「わかった。由比は料理ね」
「で、そう言うお義兄ちゃんは何すんのー?」
「とりあえず、朝のゴミ捨てと毎日の洗濯とトイレ掃除、それからたまに庭掃除。なんならいくつか分けてやろうか?」
「遠慮しとくー、私奥ゆかしい義妹だから」
七里がとぼけるように口笛を吹いた。
「でも、それだと兄さんの負担が重過ぎじゃないですか?」
「ゴミ捨て、トイレ掃除、庭掃除は毎日じゃないから、大したことないよ。実質、洗濯だけみたいなもの。多分、作業にかかる時間とか、献立を考える手間とかも考慮すれば由比が一番大変だと思う。だけど、やりたいんだよね?」
「はい!」
由比が元気よく返事をする。
「後は、そうだなー。自分の部屋は各自好きな時に掃除。その他の共有部分は、週に一度、みんなできれいにしよう。それでいい?」
「いいと思います」
「あいよー」
そういうことになった。
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