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「――なるほどねえ。魚の存在を認識すらしていなかったその子が、なぜ泣いたのか」
文芸部部室の隅に陣取った倉嶌琉夏さんが、テーブルの上に広げたお菓子を摘まみながら発する。体をだらりと壁に預け、もう片方の手では文庫本を広げている。だらしなさの極致とも呼べるその姿に、私は深く呆れていた。
「ええ。部長ならそういう話に興味があるんじゃないかと思ってお話ししたんですけど、ちゃんと聞いてました?」
「聞いてたよ。生物室ってポリプテルス・モケレンベンベなんか飼われてたんだ。よく見ておきたかったな。セネガルスやデルヘッジより小さいらしいね、モケレンベンベ」
「知識がある前提で話されても困るんですけど――それはヌシの仲間の魚ですか」
「同じポリプテルスだよ。ポリプテルスってのは鰭がたくさんって意味。ちなみにモケレンベンベは、熱帯雨林の未確認生物モケーレ・ムベンベが由来」
相変わらず無益な雑学にばかり詳しい人である。「つまりはUMAですか、ネッシーみたいな」
「現地のいろんな怪物を纏めてそう呼んでるみたいだね。竜脚類に似たやつ、象みたいなやつ、あるいは鰐とか蛇みたいなやつ。いずれにしても伝承だけどね。それより皐月、上着脱いだら? それとも寒い?」
かぶりを振る。部室に入るなり報告を始めてしまったので、単純に忘れていたのである。
紺色のコートを脱ぎ、椅子の背凭れに掛ける。生地の薄さもさることながら、最近では悲しいほど毛玉が目立つ。中学生の頃に買った安物だから、仕方がないといえば仕方がないのだが。
「で、さっきの続きです。部長、なにか思い付きます?」
琉夏さんは本を置き、「その伴瀬さんがどういう人かまだ分からないからなあ。とりあえず仮説その一。伴瀬さんは非常に涙もろい」
「いえ、どちらかというとポーカーフェイスな印象ですね、彼女。体育祭とかみんなが盛り上がって泣いてるときでも、輪からは少し離れてる感じです」
「気が合いそうだな。仮説その二。人間は嫌いでも、実は生き物のことが大好き」
「人間嫌いってほどではないと思いますが。でもその説もたぶん違います。そもそも、好きなのに魚を認識してなかったってのは変じゃないですか?」
「かもね。でもそれだけじゃ理屈としては弱くない?」
私は少し考えてから、
「他にも証拠があります。委員会を決めるとき、伴瀬さんはたまたま熱を出して休んでたんです。で、生物委員になりかけてたんですけど、次の日それを知って断固拒否したんですよ。だったら美化委員になるって」
はは、と琉夏さんは薄く笑った。「あの超絶不人気で有名な美化委員ね。そうまでして彼女は生物委員を避けたかった、と」
「はい。その二択だったら普通、生物委員を選ぶと思うんです。よっぽど生き物が苦手じゃなければ」
ふんふん、と頷きが返ってきた。「仮説その三。ヌシの死をきっかけに、別のなにかを思い出していた。たとえばそう、自分にとって身近な死を」
これについては即座に反論できなかった。私は腕組みをして、
「身近な死っていうのは――これまでの流れで考えるとペットではなさそうですよね。じゃあご家族? でも待ってください、家族が亡くなったら忌引きになるはず。例の委員会決めのとき以外、伴瀬さん休んでないですよ」
「そうかそうか。いい着眼点かも。ところで皐月、忌引きってどの程度の親族にまで適応されるか知ってる?」
「いえ、知らないです」
「これがね、普通は三親等。三親等ってのは叔父さん叔母さん。あと曾祖父、曾祖母。ひいお祖父さん、ひいお祖母さんだね。じゃあここでさ、うちの高校の忌引きのルールを確認してみようか。生徒手帳にあるかな? でなければうちの公式サイト」
私はスマートフォンを取り出し、検索をかけた。「保護者の皆さまへ、忌引きの取り扱いについて。これですね。三親等の傍系尊属の場合は一日、だそうです」
琉夏さんは途端に身を乗り出してきて、「傍系って言ったね。間違いない?」
「ちゃんと書いてあります。傍系――あれ? ひいお祖父さん、ひいお祖母さんって、直系じゃないですか?」
彼女は唇を湾曲させ、
「その通り。同じ三親等でも、扱いがばらばらなんだよ。つまり我らが杠葉高校の場合、たとえばひいお祖父さんが亡くなっても忌引きにはならない」
そんな違いがあったのか。私は幼少期に亡くした曾祖母の顔を思い浮かべつつ、「家族が亡くなったら、やっぱり時間は欲しいですよね」
「同感。でも酷なことに、うちの高校はそういう制度になってない。猫柳はヌシが亡くなったことを大往生だって言ったんだったね。私たち世代にとってのひいお祖父さん、ひいお祖母さんだったら、八十代、九十代でも不思議じゃない。もちろん悲しいことではある。でも順送りの死だったら、大往生と呼んでもいいと私は思う」
私はあの生物室の、不思議な静寂に満ちた空間を回想した。仮に曾祖母の死があの直前で、忌引きを取れずに出席していたとしたら。大往生、という柳澤教諭の言葉はきっと、深く胸に響いたことだろう。デボン紀から生きてきた不思議な生命を思うと同時に、旅立った曾祖母のことを考えただろう。
「そういうこと――だったのかもしれませんね」
琉夏さんが微笑み、特別にひとつあげよう、と言いながら私にチョコレートの入った袋を突き出してきた。厳粛な気持ちでそこへ指を差し込み、ひとかけらを摘まみ出したとき、部室のドアが開いた。
廊下の清浄な冷気が吹き入ってくる。私は反射的に起立し、「伴瀬さん」
返事をする代わりに、彼女は口許を覆ってくしゃみをした。ごめん、と頭を下げながら、後ろ手で扉を閉めて、
「とつぜん失礼します。実は倉嶌先輩に折り入って――」またしても口許を覆う。くしゃみの音。「――すみません」
さすがの琉夏さんも慌てたように私を振り返り、
「皐月、暖房を最強に」
リモコンを探しはじめた私に、伴瀬さんは手を振ってみせた。「大丈夫、寒いわけじゃないから。私、アレルギー体質で。薬が切れると止まらなくなっちゃうんだ、くしゃみとか鼻水とか」
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