小さな生き物
下村アンダーソン
1
いなくなった、と即座に気が付いた。
それはそうだ。週に一コマだけとはいえ、高校入学から八か月以上、隣り合って授業を受けてきた存在なのである。特別なやり取りなどは生じようもなかったが、姿を消したとなればさすがに気にはなってしまう。いったいどこに行ったというのだろう、ヌシは。
背凭れのない木製の椅子を移動させ、私は壁際に配置された巨大な水槽に近づいた。内部の環境を維持するためらしい機械の放つ低い音。透明な水の中では、薄い黄緑色をした立派な水草が揺れているばかりだ。
「志島さん」
後方から呼びかけられ、肩越しに振り返った。『生物Ⅰ』の教科書とノートと資料集を抱えた伴瀬結衣さんがそこに立っている。眼鏡の奥の瞳が、「なにしてるの?」といった調子の瞬きを宿していた。
「ああ――ここに魚がいたでしょ? 別の場所に移ったのかなって」
「魚? どんな?」
「なんか古代魚風の、前の鰭で水槽の底を這ってるような感じのやつ」
彼女は幽かに首を傾け、「いたっけ。ぜんぜん気にしてなかった。ここ、座ってもいい?」
「どうぞどうぞ」
伴瀬さんが丁寧に椅子を引き、背筋を伸ばして着席する。身長は私とそう変わらないはずだが、頭部の高さがだいぶ違うように感じる。私が猫背というより、彼女の姿勢が異様なほどいいのだ。
彼女の印象は入学当初から一貫して「真面目な人」である。遅刻や居眠り、忘れ物とも当然のように無縁。美化委員会に所属しており、廊下や昇降口を清掃している姿をときおり見かける。
ぐうたらを絵に描いたような人物たる琉夏さんにも少しは見習ってほしいくらいだ――などと考えていると、伴瀬さんが不意に、
「志島さんって文芸部だったよね。倉嶌先輩とはよく話すの?」
どきりとする。心を読まれたのかと思った。「うん、毎日のように。部員、ふたりしかいないから」
「普段はどんな活動をしてるの?」
「いちおうときどき読書会と、あとは部誌に載せる小説や評論を書いたりとか」
「忙しい?」
私は強くかぶりを振り、「正直言って、かなり暇な部類の部活」
「そっか」伴瀬さんが納得したように頷く。「わりと時間は取りやすい感じかな」
まさか文芸部に興味を示しているのだろうか。そうだとしたらあまりにも申し訳ない。彼女のような人に胸を張って紹介できる部活とは言いかねるのだ、残念なことに。
かつて廃部寸前だった杠葉高校文芸部は、現在二年生の倉嶌琉夏さんの手によって復活を遂げた。いかなる策略を用いたのかはいまだに謎のままだが、彼女のことだから言葉巧みに教師陣を篭絡したのであろうことは想像に難くない。普段は無気力、無関心、無感動であるくせに、そういった工作となると途端に異能を発揮する人間なのである。
がらがらと扉が開き、『猫柳』こと柳澤教諭が生物室に入ってきた。授業の開始を告げるチャイムが鳴るなり、彼は教壇から私たち一同を見渡して、
「ええと、始める前に嬉しいお知らせと悲しいお知らせがあります」
がやがやとざわめきが起きる。ややあって教室のどこかから、嬉しいほう、という声があがった。
「はい、では嬉しいお知らせ。僕の家ではまた家族が増えました」
また、という言葉で、おそらくはクラスの全員が事情を察した。柳澤教諭の生きがいは、捨て猫や野良猫を保護して自宅で飼育することなのだ。『猫柳』という綽名の由来である。生物教師で生物部の顧問、プライベートでも生き物に囲まれているその徹底ぶりは、ある種の尊敬に値する。
「今回迎えた子はですね、まだ小さいです。生後二、三か月くらいの雑種ですね。健康状態も良好で人懐っこい、可愛い奴です」
といった調子でひとしきり語ったあと、話題は「悲しいお知らせ」に移行した。教諭の視線が私のほうを向いたので、反射的に背筋を伸ばす。
「そこの水槽で飼われていたポリプテルス・モケレンベンベのヌシくんですが、彼は残念ながら先日、死んでしまいました。僕がこの学校に来たときからヌシと呼ばれていてですね、十年以上は生きていたのかな。大往生ですね。とっても愛嬌のある魚でね、いつも癒されていたんですが、ついにお別れということになって、淋しいです」
ヌシは生物部員たちが丁重に弔った、と教諭は説明した。彼の目は私ではなく、すぐ隣の水槽を見つめていたのだ。
ポリプテルス・モケレンベンベという魚がアフリカのコンゴ川原産であること、かつてはレトロピンニスと呼ばれていたこと、デボン紀からほとんど姿を変えずに現代まで生き延びてきたことなどを澱みなく語ったのち、一分だけヌシのために黙祷してほしい、と柳澤教諭は私たちに依頼した。全員が厳粛に頷いた。
「黙祷はじめ」
そうか、ヌシは死んでしまったのか、と少ししんみりした気分で、私は目を閉じたまま一分間を過ごした。なるほど思い返してみれば、水槽をゆったりと左右するその姿は愛嬌に満ちていたような気がする。デボン紀といえば古生代だ。ドラえもんの映画にも登場したユーステノプテロンも、その頃の生き物ではなかったか。だとしたらポリプテルス・モケレンベンベというのは、相当にロマンある魚である。
やめ、の合図とともに私は目を開けた。柳澤教諭はすでに黒板に向かっている。私も教科書とノートを広げ、授業の開始に備えた。
ペンケースに手を伸べようとしたとき、ふと伴瀬さんの横顔が目に入った。その瞬間、私ははっと意識を吸い寄せられ、つい動作を止めてしまった。見間違い? いや、そうではない。
伴瀬さんの白い頬は、確かに涙に濡れていたのだ。
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