第3話

 桃色の暖かい風に包まれて、私は家の近くの道を歩いていた。春は誰かのフワフワした柔らかい気持ちを感じて、生き心地が非常に悪い。私の意志や思いは体の奥底に逃げ出して、私の元から薄い思考力は金縛りにあっているかのようだった。


 人々の賑わいで騒がしい公園が目に入り、私は誰かに手を引かれるようにその公園に入る。屈託のない笑顔を浮かべた子供も、リードの可動域をぶち破るように無邪気に暴れまわる犬も、太陽の光で熱を持ち輝く砂場も、みんな私にはまぶしすぎた。けれどこの場から逃げ出す力もなく、私は彼らの人生のワンシーンをこっそりと観る観客となった。そうやって自分と同じ舞台に生きるものではないと思わなければ、自分の人生と彼らの人生を比べずにすみ、悲観が比較的ましになる。


 公園の隅に、一本の桜の木があった。部屋の窓の外にある桜の木と大差はなく、二本並んでいても私には見分けはつかない。ただ時を身体に流して、人生の浪費をすることでしか生きることが出来ない私は、生命力の強い桜の木に引き寄せられるように近づいた。


 吹く風に抵抗することもせず、起きた事象を恐れることなく、誰かの人生に関わろうともしない桜の木。生きること、誰かに拒絶されること、誰にも知られずに朽ち果てていくことが怖くないのだろうか。


――あほくさ。


 そんな風に桜の木に言われたような気もするし、自分で自分を馬鹿にしたようにも思えた。桜の木を見上げていると首は痛くなるが、未来への希望で満ち溢れた子供たちの観客となるよりは心が楽だ。苦しいなら、悲しいならこの場からいなくなってしまえばいいのに、と自分でも思う。けれど心と体が乖離して、心情の伝達に何光年もの時間がかかる私は、ただぼーっと桜の木を見上げている。


「あの、すみません」


 どこかに飛んでいた言語能力が私の元へ帰還し、私は声のする方を見た。


「はい」


 私に声をかけてきたのは、自分と同じぐらいの歳の青年であった。カメラを首から下げて、見ず知らずの私に優しそうな笑顔を浮かべている。私と違う、この世の中に生きる余裕を見出せる人間だ。


「ごめんなさい、急に声かけちゃって」


 なぜ謝るのだろう。私が迷惑そうな表情でもしたのだろうか?


「いえ」


 子犬のように丸い目で私を見ている彼は優しさをくれている。そんな有効期限付きのものは要らないのだけれど。


「実は僕、趣味でカメラやってまして」


 そう言って彼は何の抵抗もなく私の近くに来て、カメラの画面を私に見せた。


「こんな感じで色々な人の写真を撮らせてもらってるんです」


 画面に次々映るのは、不器用な笑顔を浮かべる人たち。その写真と私になんの関係があるのだろうか? まさか自分を撮りたい、なんて言うんじゃないか?


 私は画面から青年へ視線を移す。


「ぜひあなたのことも撮りたくて……」


 嫌な予想というのは、どうしてこうも当たるんだろうか? 青年が照れくさそうにはにかんで、私を見ていた。私なんかを撮って、一体どんな利益があるのだろうか。


「でも、私なんか撮っても」


 私は青年から距離を取り、そして自分の口元を手で覆う。先ほど購入した香水をまだつけておらず、臭いが無防備な状態であることを思い出した私は、自分の体臭が気になって仕方ない。


「でも、さっき桜を見上げるあなたを綺麗だと思ったんです」


 青年は私の不安に土足で踏み入り、私との距離を詰めた。


 ――綺麗? 私が?


 この青年は何を言っているのだろうか。化粧もせず、無地のシャツにジーパンを履いただけの洒落っ気もない女に向かって、青年の言葉はあまりにも不相応であった。


「じょ、冗談やめてください」


 私は羞恥心でこの場に居ることが苦しくなった。青年に背を向け、私はこの場から去ろうとする。


「冗談なんかじゃないです!」


 すると青年は私の手を握る。その瞬間、久しぶりの人の温かさに体が震え、硬直した。


 ゆっくりと振り返る私は、青年から見て醜い人間であって欲しい。


「僕はあなたを、綺麗だと思う!」


 青年の瞳が潤む。本気で言っているんじゃないかと私が勘違いしてしまうほど、青年の手は熱を帯びていた。

 沈黙が起きて、その熱が名残惜しく消えていく。青年の手が私の手をゆっくり放した。


「すみません、つい……」

「いえ、大丈夫です……」  


 青年のカメラの光沢が、彼に大事にされていることを露わにしている。青年とカメラが今まで見てきた景色は、どれほど綺麗なものだったのだろう。きっと私が元彼と一緒に見てきた景色より、美しかっただろう。


「お名前は?」


 気まずさなんて感じさせない青年の微笑みは、私が喉から手が出るほど欲しい愛嬌である。ジェラシーがふつふつと汗腺から溢れてくるような錯覚に陥った。


「冴島雪です」


 青年から目を逸らし、私は自分の名を言った。


「雪ちゃん。僕は川島雄大です! よろしくね」


 名前を呼ばれたのはいつぶりだろう。大嫌いな名前だけれど、悔しいことに少し嬉しかった。


「よろしく、お願いします」


 一体何が「よろしく」なのか。青年と交流する気はないのに。


「雪ちゃん、写真撮られるのは嫌いなの?」


「あまり得意ではないです」


 雄大はきっと誰にでも分け隔てなく優しく接する。そして平気で人に綺麗だと言い、平気で人の心を弄ぶ。それに罪悪感も悪意も含まれていないから、天然物の人たらしなんだろう。


「じゃあどうだろう。顔は映さずに後姿とか横顔だけ映るってのは」


 私という存在が目視できることが嫌なのだから、それは何の解決にもなっていないのだが、雄大は名案だと言わんばかりに目を輝かせている。断りにくい。


「……それなら」


 私の了承の言葉で、雄大は白い歯を見せて「ありがとう!」と私に言った。

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私は私の頭の先からつま先の臭いを知っている 狐火 @loglog

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