第10話 アダルベルトの思い(2/2)

彼女は話を終えたあとの反応を見て、レオに対して不審を抱いた。だから俺はきちんとすべてを話すべきだとレオに進言した。

レオにとって治験はあまり話題に上げたい内容ではないが、リリーシア嬢にそれを打ち明けたくはない。とても難しい問題だ。

****

「製薬業者は他の業界と違ってライバル企業というものが存在しないんです。」

競合相手がいない業界なんて聞いたことがない。

「同じような製品を開発している場合は、互いに進捗状況を情報交換して共同開発をするか片方にそれまでの研究データを売却して一本化するんです。薬というのは長いと成分の探索から発売まで20年くらいかかるものもありますし、開発費は莫大なんです。競合してお互い消耗し合うよりは協業してリスクを減らすために横の繋がりが強いんです。」

だから、情報共有という面だけ考えてもアルーノ・ユニオンの国に拠点替えするメリットがあるのだろう。

長い研究期間と投資した金額、リターンの金もすごいのだ。あの男がこのタイミングで乗っ取りしようとするのも不思議じゃない。


「さきほど、アルーノ医薬品庁と太陽国厚生労働省にのみ新薬の申請をすると言っていたが、その2省庁に申請すれば世界中で薬を売れるのか?」

「ざっくりいえば、そうですなのですが厳密には違います。」

「意味がわからないな。」

「薬というのは飲んで人の体に作用するものですから、いくら効くにしても害があってはいけないわけですよね。」

「そうだな、安全性は何より大事だ。」

「はい、製薬会社は重篤な副作用がでたら裁判で訴えられたりしますよね。認可したら国も訴えられることもあるでしょう。」

「副作用が出たら患者も製造側も良いことがないな。」

「副作用自体はよくあることですし、良い方向に働くこともあります。問題なのは重篤な副作用です。」

「重篤な副作用とは?」

「死亡、障害、それらにつながる症状。」

「国によって人の命の重さが違うことが問題ということ?」

「それはまた違う問題ですね。国は人々の健康を守るために、どんな実験をしてどんなリスクがあり、どうやってどの症状にどれくらい効くのか・・・といった安全に薬を市場に出すために必要な基準を決めて守らせるんです。」

「それが、アルーノや太陽国では明確に決まっていて我が国の法律では整えられてないのだな。」

「はい、法整備ができていない国はアムール医薬品庁と太陽国厚生労働省の基準に合意して薬を輸入します。」

頭の中を整理する。

「その2極に合わせているだけではダメということ?」

「国によって事情は違いますから法律も多少変わってきます。あと、国によって人の特徴も生活習慣も違うので薬が承認された国があるから他の国でも絶対に安全とは言い切れないんですよ。」

「治験は開発した国で十分してるんじゃないか?」

「同じ人間ですが人種が違うと体の特性も少し異なるのです。体の大きさやその国の気温で代謝量が変わりますから必要な薬の量が違います。硬い食べ物を多く食べる国は腸が長くなるようです。」

「大した差はないような気がするが」

「そこまで細かくデータを取らないといけないと決まっているんですよ。本当に細かいんですよ、申請文書のフォントまで基準があるくらいです。」

それは本当に細かいな。

「話を戻しますが、どうしてアルーノ医薬品庁と太陽国厚生労働省に申請を行うかという話に戻ります。」

「お願いします。」

「新薬を作っている2極は、省庁への申請の内容を共通化しています。なぜだと思いますか?」

「えぇ、と。統一化することによって互いの国の申請を短縮化できるから。」

「正解です。共通化した文書はコモン・テクニカル・ドキュメントといいます。その内容は5部構成なんです。」

「ほぉ」

「第1部は、国ごとの特性、法律、行政情報などです。アルーノ公用語か各国の言語で記述されます。」

「なるほど。さっきの話だとアルーノ公用語で書けばどの国にも通用するわけだな。」

公用語は世界中で自国語の次に学ぶ言語だからこの世界で話せない人はいないと言っても過言ではない。

「第2部は、後に来る第3部4部5部のサマリーです。これは2部・3部・4部は原則アルーノ公用語で書きます。」

「はい」

「第3部は、化学・薬学の分野です。薬の化学・製造・品質管理に関する内容です。」

あ、なんか難しいこと言い始めたな。

「第4部は、非臨床試験、つまり動物実験の内容です。」

「ふーん」

「第5部は、臨床試験、これは人体実験ですね。治験ともいいます。治験は各国で行うのでアルーノ公用語もしくは自国語で記載されます。」


「なるほど、申請書は1部と5部内容だけ挿し替えればどこの国でも申請できるんだな。」

「そういうことです。ちなみにこの申請文書ですがどれくらいの量だと思います?」

「軽トラック1台分くらい?」

「いえいえ、4トントラック2台分くらいです。」

「なるほど、各国にバラバラのフォーマットで提出していたら他の国の製薬会社に申請する前にコピーされてしまうな。」

「問題はそこじゃなくて、パテント(特許)なんです。」

「特許?」

「申請した会社が薬を独占して製造販売できる期間は決まっています。パテントが切れるタイミングは申請が受理された日ではなくて申請機関に登録された日を基軸にカウントされるんです。」

「つまり申請にもたつくと、苦労して開発したのに独占できる期間が短くなってしまうと。」

「ええ、ジェネリックを作る製薬会社が手ぐすね引いてパテント切れを待っていますしね。」

「なんかジェネリック薬品を作る会社の方が美味しくないか?」

「新薬は当たるとすごく大きいし、ジェネリックが出た後でも安全性という面で優位ですからそこはなんとも言えないんですが。」

「ジェネリックは効果も安全面も先発薬と変わらないんじゃないの?」

「いいえ、公開されるのは薬の有効成分だけなので全く同じ薬じゃないんです。」

「え?」

「処方される薬に有効成分の名前とその量が記載されているじゃないですか。例えば気管支拡張剤のメリペント60μgだったらメリペント錠は1錠0.2gなので薬に含まれる有効成分の比率は0.03%、つまりは99.97%は添加物ということになりますね。先発薬と後発薬で一致しているのは同じ有効成分を使っているという点です。」

「添加物の量や比率が違うから、効き方や安全性も変わってくるのか。添加物ってどれもこんなに高比率なの?」

「いえ、製品によります。結局は飲んでからどれくらいで効かせるかのコントロールですから。タブレット錠に添加物を入れるだけじゃなくてカプセルにするとかスプレーにするとか投与の仕方でも色々変わります。」

「だから安くてもジェネリックを選ばない人もいるんだな。」

「薬の治験は4フェーズありますが第4フェーズは市販後になるんです。薬とは不完全なまま消費者に提供される商品です。車とかじゃあり得ないですよね?」


彼女の話だと第1フェーズは健常者にやらせる高額バイトとして有名な治験、第2・3フェーズは病院で募集している罹患<<りかん>>者の治験、第4フェーズは承認が降りた後に処方された全ての患者が対象となる。投与される母数がとても大きい場合の重篤な副作用の観察らしい。先発薬とジェネリック薬が完全一致しないのであれば第4フェーズまで積み重ねた安全性も一致するとは限らない。

「命が関わることなんですから、国は真剣に対応していかなければいけないことでしょう?」

******


マクレガー子爵の陳情を邪魔していた者の意図はどこにあるのだろう。そういう行動は尻尾を捕まえられやすいのにリスクを犯しても邪魔する理由・・・。


俺は話を聞きながら、規制産業である製薬業の特殊さに驚いて専門外のことを淡々と説明するリリーシア嬢に感心した。

レオは内容を知っていたようで黙ってお茶を飲みながら話を聞いていた。

その素振りを見て、リリーシア嬢が一瞬だけ怪訝そうな顔をした。

(まずいな、リアクションの薄さで不審に思われてしまっている。)

レオは物事を広く浅く知っているべき立場にある。彼の仕事は周囲の人間の説明を聞いてそれを正しく理解し、判断することだから深い知識は不要なのだ。

彼女が話した内容は深い話だし、一般の人が知らないのが当然の内容だ。

なので、彼女の説明を聞いて既に知っているような態度を取れば彼女が不審に思ってもおかしくない。

そして、彼女は不審に思ったから不用意にレオの反応について確認してこなかった。

これから時間をかけて俺たちが信頼に足るか確認してくるようになるだろう。

彼女のように頭が回り、慎重に行動できる者はなかなかいない。どうしても、味方にしておきたい人材だ。

運悪く、レオは彼女が怪訝な顔をした時にお茶に目を落としていたのだった。

お茶は目の動きで感情を読み取られるのを防ぐ重要なアイテムで、話をする時にお茶に目を落とすのは為政者の常套手段だ。

癖で目線を落としたことが災いして、レオは彼女の一瞬の表情を見落としてしまった。


俺たちは12年の歳月をかけてきたのだ。大切なものを取り戻すために俺たちは失敗できない。

彼女にも全てをスッキリと解決して幸せになってほしいと心から願っている。

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