第11話 金魚
「今日は、珍しいね。一人でお店に来るなんて」
水割りのグラスをコースターに乗せる。勲お兄さんは、グラスを手に取って一口飲んだ。
「今日は修に用があったんや」
「支配人に?」
「ああ、折角来たしな、お前の仕事ぶりでも見ておこうかと思ってな」
「そうなんだ」
勲お兄さんが、私を見る。
「お前、ここに来て、どれくらいになる?」
「半年よ」
「どうや、慣れたか?」
私を見るお兄さんの瞳が、穏やかになる。
「うーん、そうねー、お客様の指名も入るようになったし、慣れた方なのかな」
「どうや、これも、させてるんか」
お兄さんが、親指を人差し指と中指に挟んだ拳骨を私に見せた。目が悪戯っぽく笑っている。
「もー、イヤラシー。してないわよー」
顔を真っ赤にさせながら、勲お兄さんの肩を揺すった。お兄さんが、嬉しそうな表情を浮かべる。
「ホンマかー。これせんと客がなびかんやろ。これは、確かめてみる必要があるな」
深刻ぶった素振りを見せるけれど、目が笑っていた。勲お兄さんが笑う顔を見るのは久しぶりだ。
お兄さんは、たしか三十五歳になったと思う。ミナミを仕切っていた先代の父親の元で、若い頃からヤクザ稼業を叩きこまれてきた。
しかし、二年前にその父親が銃弾で倒れる。後継者問題を乗り越え、神戸にある本家と盃を交わた。このミナミの地盤を引き継ぐことになる。若いお兄さんが、並みいる古参ヤクザを黙らせる為には、かなりのお金を用意したという噂も聞く。
昔のお兄さんは、もっと笑っていた。だけど、最近は会うたびにピリピリとした緊張感を漂わせている。だから、お兄さんが気楽に笑ってくれたことは、私をとても安心させた。
「この間、うちの母親が喜美代伯母さんにって、塩昆布を送ってくれたの。伯母さん、喜んで食べてくれたわ」
「そうか、恵美子叔母さんに、何か返しておかなあかんな。明美、お前、何か選んでおいてくれよ」
「分かった」
お母さんだったら、果実が良いだろう。
「どうや、お袋の様子は」
勲お兄さんが、心配そうな目を向ける。
「最近は、落ち着いているよ。たまには実家に帰って来て、伯母さんに会ってあげたらいいのに」
「まあな、そのうち」
取り繕うようにして、お兄さんがグラスに手を伸ばした。水割りを口にする。
グラスを置くときに、目を細めた。何かに気が付いたような表情を浮かべる。首を伸ばして私の胸元を見つめた。眉間に皺を寄せる。私の胸を、ジーと見つめた。
何だか恥ずかしくなってきた。私は、胸元を両手で隠してしまう。
「何よ、エッチ」
勲お兄さんは、笑いながら弁解の言葉を口にした。
「ちゃうちゃう。お前の服が、面白いと思ってな……胸のところに、薄っすらと金魚が泳いでるやないか」
両手を開いて、自分のドレスを見つめる。
「面白いでしょう。黒い生地に黒い糸で、刺繍がしてあるの。落ち着いたデザインでしょう」
今度は胸を前に突き出して、お兄さんに見せてあげた。
「金魚か……お前と天神祭りで金魚すくいをしたことがあったな。憶えているか?」
「憶えているわよ。私が十歳の時だったと思う」
「お前、幼くて可愛かったな」
勲お兄さんが、懐かしむ。
「あら、お兄ちゃんも、格好良かったよ。優しくてとっても大好きだった」
勲お兄さんが、少し照れた。
「金魚を掬おうとして、お前、直ぐに穴を開けたな」
「お兄ちゃんたら、酷いのよ。穴が開くたびに『下手くそ』って言うんだから」
「でも、その度にポイを買ってあげただろう」
「それは、そうだけど」
「むきになって金魚を掬おうとするお前が可愛くてな……懐かしいよ」
私から視線を外した。お兄さんが遠い目をする。
「あの後、お兄ちゃんたら、袋にいっぱいの金魚を持たせようとするのよ」
お兄さんが、笑った。
「そうやったなー。金魚をいっぱいプレゼントしてやったのに、お前、全部逃がしてしまったやろ」
「だって、そんなにいらないもん」
「たしか、自分で捕まえた金魚だけを持って帰ったんや。あの時は、『なんやこいつ、人の好意を無視しやがって』って思ってたんやで」
私は、お兄さんに向かって微笑む。
「そうそう、懐かしいよねー。あれはね、赤い出目金は私で、黒い出目金はお兄ちゃんだったの」
勲お兄さんが、驚いた表情で私を見る。
「そんなつもりやったんか」
「そうよ。私とお兄ちゃん。それだけで良かったの――」
私は、小さくため息をつく。言葉を続けた。
「――でもね、あの後は、とても悲しかったのよ」
お兄さんが、不思議そうに私を見る。
「なんでや」
「だって、二匹とも直ぐに死んでしまったから――」
勲お兄さんが、口を噤んだ。考え込むような仕草を見せる。
私は、そんなお兄さんを不思議そうに見つめた。
「――どうしたの。お兄ちゃん?」
「生きとるもんは、いつかは死んでしまう。早いか遅いか、それだけや」
大きなため息をつくと、勲お兄さんがゆっくりと立ち上がった。
「もう帰るの?」
「いや、今から修に会いにいく。今日は、お前も俺に付き合え」
勲お兄さんが、一人で歩き出す。仕方がないので、私はお兄さんの後を追いかけた。
ホールから出ると廊下の先に階段があり、二階に上がることが出来る。お兄さんと一緒に、支配人室までやって来た。
入り口の前に、木崎隆が立っている。
「修は中か?」
勲お兄さん言葉に、木崎隆が頭を下げた。ドアをノックして、鉄製の扉を開ける。
勲お兄さんが、支配人室に入った。私も、その後に続く。
「よっ、修。失礼するぞ」
修お兄さんが、立ち上がった。
「今日は、ご苦労様です。親分、今日はどうなさいました?」
修お兄さんが、緊張している。
「そんなに畏まらんでもええ」
勲お兄さんは、右手にある接客用のソファーに、どっかりと座り込んだ。修お兄さんは、ソファーに座らない。木崎隆と一緒に、立ったまま横一列に並んだ。
この場所に、どうして私が同席しているのかが分からない。邪魔にならないように、隅っこの方で様子を見ることにした。
勲お兄さんが、修お兄さんに尋ねる。
「修、ジュエリーボックスの経営状況はどんなんや?」
「はい、ひと頃に比べて売り上げは落ちていましたが、現在は順調です。女の子の頑張りもあり、今月は大台に乗りそうです」
「そうか、ええ感じやな。実はな、今度、本家にお願いをせなあかんことがあってな、土産が必要なんや。お前んところで、用立ててくれへんか」
勲お兄さんが、支配人の修お兄さんを睨みつけた。
「どのくらいでしょうか?」
「一千万用意してくれ。今週中に」
「今週中――」
修お兄さんが、慌てた。
「――親分、今週中というのは、ちょっと急ではないでしょうか。十二月は、何かと返済がありまして……」
勲お兄さんが、ゆっくりと立ち上がった。修お兄さんの、真ん前に立つ。その顔を睨みつけた。
顔を引きつらせて、修お兄さんが目を逸らす。
「何て言った?」
勲兄さんが、左手で修お兄さんの髪の毛を掴んだ。
「ヒッ!」
修お兄さんが怯える。勲お兄さんは、逸らした視線を強引に自分に向かせた。二人の視線が交じり合う。
「もっかい言うてみ」
修お兄さんは、恐怖に震えて言葉が出ない。そんな修お兄さんに、勲お兄さんは右手を振り上げた。顔面を殴りつける。
ボコ!
「ウッ!」
唇が切れて、血が溢れ出した。
勲お兄さんは、もう一度右手を振り上げる。また、容赦なく殴りつけた。
修お兄さんは、顔を押さえて床にうずくまる。
私は、飛び出した。修お兄さんを助けるようにして覆いかぶさる。
「やめて!」
「明美、どけ!」
顔を引きつらせて、勲お兄さんを見上げた。
「どうして?」
「女は、下がってろ」
勲お兄さんが、修お兄さんの襟首を掴む。強引に引き上げた。その勢いで、私は振り解かれてしまう。
「修」
勲お兄さんが睨みつける。
「は、はい」
「路頭に迷っているお前を拾ってやったのは、この俺や。お前の母親にも援助をした。その恩を忘れるなよ。親がこうやと言うたら、それに従うのが子や。そうやろが!」
修お兄さんは、悲痛な表情を浮かべて頭を縦に振った。勲お兄さんは、修お兄さんの襟首から手を離す。睨みつけて、念を押した。
「今週中や。絶対に揃えろ。ええな」
修お兄さんが、青く腫れた唇を動かして頷く。
「分かりました」
労いなのだろうか、勲お兄さんが、修お兄さんの背中を優しく撫でた。
「宜しく頼む」
寂しそうな眼をして、勲お兄さんが部屋を出ようとした。足を止める。振り向いた。私を見つめる。
「明美、出かけるぞ」
青ざめた顔で、私は頷く。
勲お兄さんの裏の顔を見たのは、初めてだった。従う以外に、方法はなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます