第12話 ポイ
裏口から、ジュエリーボックスを出る。細い路地に、黒いベンツが停められていた。
木崎が車に駆け寄る。後部座席のドアを開けてくれた。
勲お兄さんは、車に乗ろうとはしない。振り返り、私を見た。微笑みを浮かべながら、私に手を差し伸べる。
「美味しいもんでも、食べに行こうか……乗れよ」
かなりの抵抗を感じた。でも、断れるような雰囲気でもなかった。大きく深呼吸をする。出来るだけ笑顔を作り、私は、お兄さんに問いかけた。
「ア、アフターってこと?」
勲お兄さんが、澄ました表情で答える。
「そうや、これから俺と食事をするんや」
私は、固唾を吞んだ。
「私は、高くつくわよ」
「ええよ、お前なら」
返す言葉がなかった。黙ってしまう。体が震えていた。これは、十二月の寒さの所為じゃない。先程の恐怖からくるものだ。
その時、目の前で勲お兄さんがダブルの上着を脱いだ。私に羽織ってくれる。
怯えている私を気遣ってくれたのだろうか。勲お兄さんが優しい目で語りかける。
「安心せい。お前に無茶なことはせん」
観念した。
勲お兄さんが、私の背中に優しく手を回す。後部座席のドアに導かれた。私は背を屈めて車に乗り込む。続いて、お兄さんが車に乗り込んだ。私は、奥の方に腰を滑らせる。後部座席に、並んで座った。木崎によって、ドアが閉められる。
運転席に座った木崎隆が、ハンドルを握りながら尋ねた。
「親分、どちらまで」
腕を組みながら、勲お兄さんが答える。
「料亭の松川まで、やってくれ」
車はゆっくりと走り出した。革張りのシートに体を凭せ掛けて、私は窓の外を見る。
ミナミの路地裏に、電飾で彩られた大小様々な看板がピカピカと輝いていた。まるで、博物館の展示物のように路地の果てまで陳列されている。赤色、青色、ピンク色。
それらの看板を見物するように、遊び足りない男たちがゾロゾロと歩き回っていた。男たちが、呼び込みの声で足を止める。
「なんぼや?」
そんな会話が、ここまで聞こえてきそうだった。
車の中で、勲お兄さんと会話をすることはなかった。私は、ずっと窓の外を見ていた。勲お兄さんも、私に話しかけない。目を瞑って、何か考え事をしているようだった。
松川という料亭に到着する。日本家屋の格式高そうな外観だった。暖簾が掛けられた入り口の横には、しだれ柳が植えられている。
入り口の前に黒いベンツが停車した。木崎が、運転席から飛び出す。後部座席に回って、ドアを開けた。
店の中から暖簾をくぐって、女将らしき人が現れた。
「安達さん、いらっしゃい」
車から下りた勲お兄さんが、女将に向かって手を上げる。
「急やけど、ええか」
「ええ、どうぞ。いつものお部屋をご用意しています」
私も車から降りた。
勲お兄さんは、当たり前のように玄関を潜った。私は、そんな勲お兄さんの背中を追いかける。
女将に案内されて、板張りの廊下を歩く。奥の和室に通された。
とても静かな部屋だった。
床の間に、花が生けられている。胴が膨らんで首が細い小ぶりな花器に、赤い椿が一輪、音のない和室の中で、パッと咲いていた。
窓に視線を向ける。障子が、半分開けられていた。ガラス窓が設えられていて、その向こうに小さな庭を望むことが出来る。
勲お兄さんは、ネクタイを緩めると座布団の上に胡坐をかいた。座卓を挟んで、私も足を崩して座る。
「飲みもんはどうする?」
勲お兄さんが、私に尋ねた。
少し寒いし、なにか温かいものが欲しかった。
「燗がいい」
勲お兄さんは、傍に控えている女将に顔を向ける。
「女将、熱燗を頼む。あとは美味しそうなやつを適当に見繕ってくれ」
「畏まりました。ごゆるりと」
女将が部屋から出て行った。二人っきりになる。
お兄さんから目を逸らし、私は庭を見た。
修お兄さんを殴りつける勲お兄さんの姿が思い出される。何を話せば良いのか分からなかった。仲居が料理の提供に現れるまでの短い時間を、私は一言も喋らずに、ただ庭を見る。
勲お兄さんも、同じようにして、ずっと庭を見ていた。
「お待たせしました」
和服姿の仲居が襖を開ける。私たちに頭を垂れた。
座卓まで歩み寄ると、温められた徳利とお猪口を並べ、先付と一緒に美味しそうな刺し身を提供してくれた。
温かい徳利を持ち上げる。勲お兄さんに差し出した。お兄さんが、嬉しそうに私を見つめる。お猪口を手に取った。温められた日本酒を、お兄さんのお猪口に注ぐと、甘い薫りが漂った。
「お前にも注いでやろう」
私からの酌を受けると、お兄さんは私から徳利を取り上げた。私のお猪口にも注いでくれる。
「お疲れさん」
お兄さんが、お猪口を軽く上げた。
「お疲れさま」
私も、お猪口を軽く上げて、それに応える。
お兄さんと、目が合った。優しい目で私を見つめている。なんだか、私の心が穏やかになった。
お猪口を近づけて、熱燗を口に含む。喉から胃にかけて温かいお酒が流れていくのが分かった。お腹の中が、ポッと温かくなる。心の中も、温かくなった。
そんな私の事を、お兄さんが見ていた。
「さっきは、悪かった。ただな、あれが俺たちのやり方なんや。ああするしかなかった」
私から視線を外すと、お兄さんが庭を見た。
「うん、分かってる。でも、ちょっと吃驚した」
勲お兄さんが振り向く。小さく笑った。
「急に連れ出して、悪かったの」
お兄さんが、私を見る。そのまま、視線が固まった。
「どうしたの?」
お兄さんが、ニヤニヤと笑う。
「この和室に、そのドレスでは……似合わんな」
私は、自分の姿を見る。
「ほんとよ、着替える時間くらい、くれても良かったのに」
お兄さんに、少し拗ねた顔を見せる。
「すまん」
勲お兄さんが片目を瞑った。
「うふふ」
素直に謝るお兄さんに、つい笑ってしまった。私の笑顔に、お兄さんも表情がほころぶ。
「さっき、お前が金魚の話をしてくれたやろ。なんや、懐かしくなってな。お前に、ずっと傍にいて欲しい……そう、思ったんや」
勲お兄さんが、私の顔を真っすぐに見つめた。
「ずっとって、いつまでもいたら、奥さんに怒られるやん」
そう言って、私は笑った。
「あいつか。あいつの話は、今は無しや」
勲お兄さんは、箸を取って刺身を食べ始めた。私も箸を持つ。鯛の刺身を、わさび醤油に付けて口に運んだ。美味しい。弾力のある白身が、口の中で溶けていく。
箸を置き、徳利を持ち上げた。勲お兄さんに酌をしようとする。でも、お兄さんは私からその徳利を取り上げた。
「酌はせんでええ。自分でやる。俺のペースで飲むから、お前はお前で飲め」
飲み始めてからの勲お兄さんは、とてもご機嫌だった。私との思い出話を、懐かしそうに語った。
幼稚園に行っていた私に、ぬいぐるみをプレゼントして、私が喜んだこと。
母親に怒られて拗ねている私を、一生懸命笑わせようとしたこと。
両親の仕事が忙しくて天神祭りに行けない私の為に、二人で祭りに行き、金魚すくいをしたこと。
殺伐とした極道人生の中で、私を可愛がったことは、俺にとって掛け替えのない思い出だった。そう言って、笑った。
懐かしい思い出話を聞かされたことで、私の中の緊張感が抜けていった。寛いだ気持ちになる。
お兄さんと話をしながら、母親との電話の話を思い出した。
「お母さんがね、お兄ちゃんに着物の注文を沢山頂けたって、喜んでいたよ」
お兄さんが、澄ましたような笑いを見せる。
「精々儲けてもらって、貸した金を返してもらわんとあかんからな。そういう意味では、俺にも利益になる話や。気にせんでええ。お前にも無理をさせているからな」
お兄さんは、私から視線を外すと庭を見た。何となく会話が途切れてしまう。次の言葉の切っ掛けが掴めず、お互いに沈黙が続いた。
その沈黙を破ったのは、お兄さんだった。
「なあ、明美」
私は、お兄さんの顔を見る。
「なにかしら」
勲お兄さんは、私の事を真っすぐに見つめた。
「俺の女になってくれ」
不思議と驚かなかった。お兄さんの私に対する気持ちは、何となく感じていた。でも、どの様に返答をすれば良いのかが分からない。だって、お兄さんには奥さんがいるから。
――どうしよう?
黙っていると、勲お兄さんが更に続けた。
「俺の女になってくれれば、仕事はしなくていい。借金も考えよう。それより、お前にそれ相応の金もやる。俺は、こんなやり方しか出来ん男やけど。気持ちはホンマもんや」
お兄さんが、私の顔を見つめる。私の口から、自然と言葉が滑り出した。
「女になってあげる。でも、条件があるわ」
「なんや、条件て?」
お兄さんが、目を細めて私を見る。
「お兄さんには奥さんがいるし、極道の妻になるつもりもない。だから、お兄さんの女でいい。でも、ゆくゆくは私も結婚したい。私が、別れたいって言ったら、素直に別れて欲しい。これが第一」
お兄さんが、真剣に聞いている。私は、更に続けた。
「第二は、仕事は続ける。ただの女になってしまったら、別れたくても別れられなくなるから。私の生きる基盤は何とか確保しておきたい。第三に……」
「まだあるんか?」
勲お兄さんが、じれったそうに私を見る。
「うん。私には、絶対に暴力は振るわないって約束して。あと、借金はちょっと考えて欲しいかな」
そこまで言って、お兄さんから少し視線を外した。
「それで、ええんか?」
お兄さんが、私を見る。私も、お兄さんを見つめた。
「うん、それでいい」
お兄さんの鼻息が荒い。
「俺、本気になるぞ」
お兄さんが、私に向かって身を乗り出した。
「本気になって」
「よし!」
気合の入った言葉を発すると、お兄さんが立ち上がった。私は驚いて腰を引いてしまう。お兄さんが、私を見下ろした。
「飲みは終わりや。風呂に行ってくる。小さいけど、感じのええ風呂がある。お前も、汗を流してこい」
お兄さんは、一人部屋を出て行った。私も立ち上がる。風呂場に向かった。
脱衣所で、サテンのドレスを脱ぐ。風呂場には、誰もいなかった。
風呂桶で湯をすくい、身体にかける。湯船にゆっくりと体を沈めた。
今日のことを考える。これで良かったのか分からない。でも、不思議と不安感はなかった。
――これは愛なのかな?
私は、首を横に振った。
多分、愛じゃない。やっぱり、お兄さんはお兄さんだもの。
でも、あんなに大きく見えていたお兄さんが、私に「女になってくれ」と言った。その言葉に、私はお兄さんなりの優しさを感じた。
だって、暴力で奪い続けてきたお兄さんなら、私を暴力で奪うことも出来たはず。でも、そうはしなかった。真っすぐに、思いをぶつけてきた。それだけで、なんだか嬉しかった。
――お兄さんに応えたい。
そんな気持ちにさせられた。
風呂から上がり、用意された浴衣に袖を通す。
部屋に戻ると、座卓は仕舞われていた。中央に、二組の布団が敷かれている。お兄さんは布団の上に胡坐をかいて待っていた。私を見上げる。
「明美。立ったまま脱いでくれ」
私は、素直に浴衣を脱ぐことにした。
閉じていた結び目を解く。帯紐が足元に落ちた。はだけた浴衣の襟に手を掛ける。そのまま肩から落とした。
私の白い体が露になる。胸と秘部を両手で隠した。お兄さんの視線から逃げるようにして、体をよじる。
「その手を、どけてくれ」
その一言で、私は、今、どんなに恥ずかしい姿なのかをやっと理解した。耳が赤く染まっていくのを感じる。
目を瞑って大きく深呼吸した。手を外そうとしたけれど、なかなか外すことが出来ない。私は、目を固く固く瞑って必死に手を外そうとした。
すると、お兄さんが立ち上がった。
私は目を開ける。お兄さんが私を見つめていた。
お兄さんが、歩み寄る。お兄さんの体温を感じた。私の背中に優しく手を回す。包むようにして、私を抱きしめてくれた。
夢を見た。
私は、一匹の赤い金魚になっていた。水槽の中で、一匹、たゆたっている。
そこに、ポイがやって来た。そのポイは、私のことを執拗に追いかけ回す。
私は逃げた。そのポイから、一生懸命逃げようとした。
でも、そのポイは、どこまでも私を追いかけてくる。
ゆっくりとゆっくりと、逃げ道を無くすようにして追いかけてくる。
金魚の私は逃げながら、うつ伏せになり、仰向けになり、はたまた持ち上げられて、好きなように遊ばれてしまう。
ポイの動きで、水槽の水は、嵐の時の波濤のように荒れ狂った。水しぶきを上げる。
金魚の私は、繰り返し、繰り返し、揺られ続けた。
捕まえられた私は、いつの間にかビニール袋に詰められてしまう。
とうとう、逃げることが出来なくなってしまった。
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