第8話 家庭教師

 ひっかけ橋で出会った子犬のような男を連れて、私はジュエリーボックスに向かう。


「木崎さんは、いいんですか?」


 足早に追いついてきた子犬が、私に問いかけた。


「いいのよ。頼んでもいないのに、私のお目付けをするの。それより、行くわよ。面接なんでしょう」


 素直な男の子だ。私の後ろを遅れないように付いてくる。なんだか、本当に犬の散歩をしているような気分になってきた。人懐っこくて、どこか抜けていて、ちょっと可愛らしい。私の周りには居ないタイプの男の子だった。

 店に到着すると、その子犬に支配人室の場所を教えた。彼と別れる。

 彼のお陰で、久々に心から笑うことが出来た。とても気分が良い。

 頼りない男の子だったけれど、面接に受かって欲しいと思った。


 二階にある支度部屋にやってくる。部屋に入ると、美智子お姉さんがいた。ドレスに着替えている最中だった。元気よく挨拶する。


「おはよう、美智子お姉さん」


「おはよう、月夜。なんだか、機嫌が良さそうね」


 私は、悪戯っぽく微笑んだ。


「そんな風に見える。ねえ、ねえ、お姉さん、聞いてよ。さっきね、そこのひっかけ橋で、変な子犬を拾ったの」


「子犬って何よ。もしかして、ここで飼うつもり?」


 美智子お姉さんが、怪訝な表情を浮かべた。


「違うわよ。男の子なんだけどね、変な奴らに絡まれて泣きそうになっていたの。だから拾ってきたのよ。その姿が、なんだか子犬みたいで……」


 美智子お姉さんが、呆れたような表情を浮かべる。


「なーんだ、人間の話なの。簡単に、拾ってきたって言うから……」


 私は、脱いだコートをハンガーに掛ける。


「でね、その子犬、このジュエリーに面接に行くって言うじゃない。もう吃驚」


 美智子お姉さんが、私に微笑みかけた。


「ちょっと、月夜。今日のアンタ、変にテンションが高いよ」


「そう、高いかな? 久々に笑ったからかな?」


 その時、美智子お姉さんが、少し考える素振りを見せた。意外なことを口にする。


「もしかして、その男の子って、芸大の子かな?」


 私は、目を丸くしてお姉さんを見た。


「えっ、お姉さん、知っているの? その子、私の似顔絵を描いたのよ」


 お姉さんが、納得したように頷いた。


「ふーん、やっぱり。ほら、黒服に前田君って子がいたでしょう」


 私は、黒服の男の子たちを思い浮かべた。


「えーと。この間、辞めた子?」


 お姉さんが、私に微笑む。


「ええ、その子よ。彼も芸大出身なの。店を辞める時にね、私に教えてくれたの。俺の後釜に、大学のツレを呼んでくるからなって」


「へー、あの子犬。あいつのツレなんだ……」


 お姉さんと話をしながら、私は黒いサテンのロングドレスに着替える。お姉さんに手伝ってもらい、髪の毛をセットして銀色の髪飾りでポイントを決めた。


「今日は、琴子ちゃんが来るね」


 美智子お姉さんが、楽しそうに呟いた。


「そうか、今日なんだ……」


 ――あの泥棒猫


 思い出すだけで、腹立たしい気持ちになってきた。先程までの楽しい気持ちが、消えてしまう。


 ――修お兄さんを、揶揄ってやろうかな。


 そう思うと、居ても立っても居られなくなった。私の中に芽生えた意地悪な気持ちを、押さえることが出来ない。支度部屋を出ると、早速、支配人室に向かった。鉄の扉をノックする。


 コンコン。


「どうぞ」


 中から、修お兄さんの声がした。


「失礼しまーす」


 元気良く部屋に入る。


 ――嫌味を言いに来たんだから、元気でないとね。


「やあ、月夜ちゃんか」


 支配人室には、マネージャーのアキラ君と一緒に、先程の子犬もいた。面接は上手くいったのだろうか。ちょっと気になる。


「この子、面白いでしょう」


 私の言葉に、その子犬が頼りなげに立ち上がった。私を見る。

 私に挨拶をしてくれるのかなと思ったけれど、違った。私を見つめたまま突っ立っている。


 ――何なのコイツ。


 初めて出合った時から変な子だったけれど、これって、私に見惚れているんだよね。きっと、そうだよね。


 ――ちょっと恥ずかしいじゃないの。


「何よこの子、私のことをジーッと見つめて」


 目を背けてしまった。アキラ君に助けを求める。アキラ君は笑いを堪えていた。


 ――ちょっと、どうにかしてよ。この子犬。


 すると、その子犬が慌てたように頭を下げる。自己紹介を始めた。


「こ、これから宜しくお願いします。寺沢譲治と言います。す、すみません……とても、綺麗だと思います」


 ひっかけ橋での出来事が思い出された。また、笑いが込み上げてくる。本当に可笑しな子。


「アッハッハッ、あんたって本当に変な子。これからも宜しくね。私は、月夜」


 面接は上手くいったみたい。ちょっと楽しみになってきた。

 握手をするために、私は右手を指し出す。ジョージ君は、恐る恐る手を伸ばしてきた。


 ――大丈夫よ、取って食うわけじゃないんだから。


「よ、宜しくお願いします」


 ジョージ君と握手をした時、修お兄ちゃんと目が合った。楽しそうに、私たちのことを見ている。

 途端に、この支配人室にやって来た目的を思い出す。ジョージ君との挨拶を、そこそこに切り上げた。

 事務机にふんぞり返っている修お兄さんを、睨みつける。足を踏み出して近づいて行った。

 修お兄さんは不思議そうな顔をして、私を見上げる。そんなお兄さんの耳元に顔を寄せた。そっと呟く。


「今日は、大好きな琴子ちゃんが来るね」


 案の定、修お兄さんが嫌な顔をした。


「もう、良いぞ」


 修お兄ちゃんが、アキラ君たちを手で追い払った。二人が部屋を出て行く。

 二人っきりになると、修お兄さんが困ったように私を見た。


「月夜ちゃん、何しに来たんや。俺は忙しいねんけど」


 修お兄さんが、不機嫌そうに顔を曇らせる。


「月夜ちゃんなんて、余所余所しい言い方は、やめて。昔みたいに、明美ちゃんで良いのよ」


 ツンと顔を上げる。修お兄さんに、流し目を送った。


「もう、その話はやめよう。もう終わったことや。今は、俺は支配人、君は月夜。それ以上でもそれ以下でもないんや」


 修お兄さんは、怒ってソッポを向いてしまった。

 私は憎々し気に修お兄さんの横顔を見つめる。あの頃は、そんなんじゃなかった。


  ◇   ◇   ◇   ◇


 高校生の頃、私は修お兄さんに家庭教師をしてもらっていた。

 修お兄さんは、パパの呉服屋で仕事をする新米の従業員。大学で、数学を勉強していたけれど、縁あってうちに来ることになった。とっても真面目な方で、パパとママの評判はとても良かった。私も、一目で好きになってしまう。

 ある時、勉強で分からない箇所があったから、修お兄さんに思い切って質問した。すると、とても丁寧に教えてくれる。

 それ以来、パパにお願いをして、修お兄さんに、勉強を見てもらうことになったのだ。

 英語の問題を解いたプリントを、お兄さんに手渡す。


「修お兄さん、出来ました」


「どれどれ、ちょっと待っててや。答え合わせをするからな」


 修お兄さんが、いま解いたばかりの英語の問題に目を通す。

 私は、そんなお兄さんの横顔を、じっと見つめた。切れ長の目が、私の答案を見ながら忙しく動いている。初めて気が付いた、お兄さんのまつ毛がとっても長いことを。


「まつ毛が長い」


 思わず口に出してしまった。お兄さんが手を止めて耳を赤くする。


 ――可愛い。


 私の胸が、キュンキュンと締め付けられた。

 気を取り直して、お兄さんが再びプリントに目を通す。全ての答え合わせが終わると、修お兄さんが顔を上げた。


「良く出来ている。中々なもんや。これやったら、俺が見てやらなくても、大丈夫なんちゃうか?」


 私は、首を横に振る。


「そんなことない。修お兄さんが見てくれるから、私は頑張れるの」


 心の底から、そう思った。


「学校でも、そこそこの成績やろ」


「そこそこでは、駄目なの。私も、大学に進みたい」


「大学に行って、どんな勉強をするんや?」


「英文学科に進んで、海外に行きたい。出来るなら、翻訳の仕事とかしてみたい」


 お兄さんが、目を大きく広げた。


「へー、凄いな。そんな夢があるんや」


「修お兄さんは、行きたくないの? 海外とか」


 修お兄さんが、考える素振りをする。


「行きたくないわけやない。けど、俺は、もっと日本を知りたい。君のお父さんの元で仕事をしているのも、着物という文化に関心があるからや」


「数学の勉強をしてきたのに、着物なの?」


 私は、不思議そうに尋ねる。お兄さんは私から視線を外して、見るともなく窓を見つめた。


「数学は趣味。俺にとってはパズルを解くような感覚かな。着物は、俺の興味」


「興味?」


「ああ。実はな、俺の母親は、着物を縫う仕事をしているんや」


「へー、そんな話、初めて聞いた」


 私は目を丸くする。


「部屋の隅っこに座ってね、一日中、はさみと針で格闘しているんや。肩がよく凝るから、俺は母さんの細い肩を揉んであげたりしていた。そんな風にして縫い上げられていく着物が、今、日本で、どのように利用されているのか、この目で見たくなったんや」


 修お兄さんは、遠い目をして、そう答えた。


「良かったじゃない。パパの所に来て、着物の勉強も出来る。私みたいな可愛い女子高生に勉強を教えることも出来る」


 悪戯っぽく笑うと、お兄さんが困ったような顔をした。


「俺は君のお父さんの従業員なんや。一回だけのつもりが、こう何度も何度も、君の勉強を見るのは、どうかと思うけどな」


 私は、わざと分からないフリをして、お兄さんの顔を覗き込む。


「どうして?」


「どうしてって、ほら、分かるやろ?」


 修お兄さんが、焦っている。顔を赤くして、私から目を逸らした。私は楽しくて仕方がない。


「分からないわ、どういう事か教えてよ。先生でしょう」


「明美ちゃん、意地悪せんといてや」


 修お兄さんの動揺が、私にまで伝わってくる。私は、黙ったまま、お兄さんを見つめた。堪らなくなったお兄さんは、絞り出すようにして言った。


「僕と君は、男と女なんだよ」


 お兄さんが、強い眼差しで私を見る。


「男と女なら、駄目なの?」


 私は、お兄さんの目をじっと見つめた。


「……明美ちゃん」


 修お兄さんが、私から目を反らした。大きな溜息をつく。


「君は、お嬢様だから、そのー、世間を知らない」


「でも、修お兄さんが、私の勉強を見てくれることを、パパもママも喜んでくれているわ」


「それは、たまたま、従業員として、俺がいただけで、探す手間が省けただけや」


「いーえ、お兄さんは優秀よ。教え方も上手だし」


 修お兄さんが、顔を曇らせる。反対に、私の胸の中はトキメキで一杯になった。黙っているお兄さんに、私は名前を呼んでみる。


「修お兄さん」


 お兄さんが、私を見る。


「何や」


「私のこと、嫌い?」


「まさか」


「じゃ、好き?」


「……」


「教えて?」


 私は、お兄さんを見つめる。お兄さんの胸の鼓動が早まっているのを感じた。私も、同じように鼓動が早まっている。

 いま、お兄さんと私が、繋がっているのを感じた。お兄さんの目が震えている。衝動を抑えているのが分かった。私の中からも、何かがせり上がってくる。胸が苦しい。


「好きや」


 修お兄さんが、私を抱きしめた。大きな手で私を包み、私の首筋に顔を埋める。私の体の中心から、稲妻のような電撃が走った。


「あ、あ、あ……」


 つい、声を漏らしてしまった。


 ――嬉しい。とっても嬉しい。


 この瞬間を、どんなに夢見た事か。このまま、溶け合って、お兄さんと一つになってしまいたい。

 お兄さんは、ゆっくりと顔を離して、私の瞳を見つめた。長いまつ毛に縁どられた、お兄さんの瞳が黒くてとても綺麗だった。


 ――もっと私のことを見つめて欲しい。もっともっと感じさせて欲しい。


 お兄さんが、ゆっくりと顔を近づけてきた。私は、覚悟をして目を閉じる。

 私の唇に、お兄さんの唇が触れた。お兄さんの荒い鼻息が、私の頬を撫でていく。

 こんなに嬉しいことって、今までにあったかしら。体の中から、力が抜けていく。もう、自分の体を支えることが出来ない。

 そんな私の体を抱きしめたまま、修お兄さんが、ゆっくりと覆いかぶさってきた。


  ◇   ◇   ◇   ◇


「君とのことが原因で、僕はあの呉服屋を辞めることになったんや。おあいこやろ」


「おあいこじゃないわよ。私は、今も引きずっているの」


 修お兄さんは、深くため息をついた。顔を背ける。

 私は、腹立たしくてしかたがない。


「それなのに、琴子なんかと」


 お兄さんが、苦々しく私を見つめた。


「……琴子は関係ない。さあ、もうすぐ時間や。朝礼に行くぞ」


「助けてよ!」


 私は、思わず叫んでしまった。


「えっ!」


 お兄さんが、驚いた顔をする。


「私を、こんな地獄に閉じ込めて……好きで、こんな仕事をしているわけじゃないわ」


 たとえ親であっても、自分の感情をぶつけることは、めったになかった。でも、修お兄さんには、自分の感情を抑えることが出来ない。


「何でもするから、私を好きになって。もっと優しくして。じゃないと、私、おかしくなる」


 修お兄さんが立ち上がり、私をじっと見つめた。そして、両手で私の頬を優しく挟み込む。


「良い子だから、俺の言うことをよく聞いてくれ」


 お兄さんが、私を見つめる。困ったような、怒ったような、煮え切らない瞳。私は、そんなお兄さんを、じっと見つめた。


「月夜、君はプロや。ゆくゆくはジュエリーボックスのトップを張る、俺の大切な月夜や。毎回、毎回、俺を困らせないでくれ。琴子にしても、俺は付き合ってもいないし、結婚する気もない。俺は、支配人なんや。俺は、仕事のことしか考えていない。俺のことを想ってくれるのなら、俺の為に一流の仕事をしてくれ」


 修お兄さんは、私の顔から両手を離すと、私の肩を掴んだ。そうして、私の体を出口の方へと振り向かせる。


「時間や、行ってくれ。月夜、君の力が必要や」


 私は振り返り、お兄さんを見つめた。


「私を抱きしめて」


 修お兄さんが顔をしかめた。


「出来るわけないだろう」


「そしたら、頑張れるから」


 修お兄さんは、目を瞑り、天を仰いだ。

 私は、そんな修お兄さんの胸に寄り掛かり、顔を埋める。

 修お兄さんは、そんな私を、そっと抱きしめてくれた。

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