明美 一九七九年十二月

第7話 子犬

 ピーンポーン。


 家の呼び鈴の音がなる。


 ――誰かしら。


 手紙を書く作業を止めて、私は耳をそばだてた。


「はーい」


 スリッパをパタパタとさせながら、京子さんが玄関に向かっていく。どうやら、郵便物が届いたようだ。

 机の上に視線を落とすと、私はまたお礼状を書き始める。


 昨日、初めてお越しになった、岩城様の名刺には赤木乳業と書いてあった。役職は係長。

 昨晩のお話の中では、この大阪の繁華街にある飲食店を中心に、牛乳だけでなくチーズやソーセージといった業務用の食材を配達する仕事をしていると言っていた。

 営業トークで磨いてきたのか、明るくて話が面白い。一緒に来られていたお連れの皆さんも、紳士的で遊び方を心得た方ばかりだった。

 お礼状の最後に、「また、楽しいお話をお聞かせください」と書き添えて、封筒に入れる。

 次の名刺を、手に取った。毎朝放送の山田様。月に一度は、店に来てくれる大切なお客様だ。テレビ業界の今の勢いを考えると、最重要に大切なお客様になる。


 ――どのような言葉を添えたら、喜んでくれるかしら?


 悩んでしまう。

 お礼状の文面を考えていると、京子さんが私を呼んだ。


「明美お嬢様、よろしいですか?」


「ええ、どうぞ」


 襖が引かれた。荷物を抱えた京子さんが、部屋の中に入ってくる。


「恵美子様からのお歳暮ですよ」


「あら、お母さまから……何かしら」


「えーと、月島屋の塩昆布のようですね」


「あら、そう。お礼の電話をしなくちゃね。それより、喜美代伯母さまのご様子はどう?」


 お手伝いの京子さんが、人差し指を頬に当てた。考える素振りを見せる。


「良いお加減かと思います。先程は、庭で日向ぼっこをしておりました」


「そう、良かった。伯母さまは、塩昆布がお好きだったわね。昼食の時にでも、添えてちょうだい」


「畏まりました」


 京子さんが、部屋から出て行った。

 私は、両手を上にあげて伸びをする。


「うーん」


 両手を下す。首を左右に振って、固まったコリをほぐした。


「お礼状は、一旦中止。肩がこっちゃう」


 椅子から立ち上がる。私は母親に電話を掛けることにした。部屋を出て、電話機がある居間に向かう。受話器を持ち上げて、実家の電話番号をダイヤルした。コール音が鳴った後、電話が繋がる。


「もしもし、お母さん」


「あら、明美」


「今、塩昆布が届いたよ。ありがとう」


「そうかい。お姉さんの好物だからね。食べてもらってね。それでどう。お姉さんの様子は?」


「最近はちょっと落ち着いているかな。普段のことを忘れてしまうのは、もう仕方がないみたいだけど……でも、私のことは、まだ覚えてくれているし、仲良くしているよ」


「そう、良かった。お前には、母さんも悪いと思っているんだよ。まさか、お前に姉さんの世話をさせることになるなんて、思ってもみなかったからね。その……勲さんからは、大事にされているかい?」


「ええ、大丈夫。でも、勲お兄さんは奥さんと一緒にマンションに住んでいるから、実家には、あまり寄り付かないわ。そういう意味では、のびのびとさせてもらっているの。それよりも、どう、お父さんの調子は?」


「うーん、胃の全摘だったからねー。ちょっと痩せたけど、家でゆっくりとしているよ。でも、大丈夫。心配することはないよ。商売の方は、達也がいるからね。それにね、この間は、勲さんが、大量の注文をくれたんだ。ミナミのホステスさんが着る和服をね、大量に回してもらえたの。このご時世に、ほんとに助かるわ。ただね……」


「どうしたの?」


「それと引き換えに、あんたが勲さんに取られたようで。母さんは、そのことだけが気がかりなのよ」


「その話は、言いっこなしよ。大丈夫。さっきも言ったとおり、私は私で、のびのびとさせてもらっているから、母さんは、心配しないで」


「そうかい、無茶はするんじゃないよ」


「塩昆布ありがとう。勲お兄さんには私の方から伝えておく。新年には、家に顔を出すからね」


「ええ、おせちを用意して待っているよ」


「じゃ、切るね」


 受話器を電話機に戻した。ため息をつく。

 実家でのトラブルの始まりは、お父さんの胃がんだった。経営者のお父さんが倒れたことで、病気の治療と呉服屋の経営と、どちらにも神経を注がなくてはならなくなってしまう。

 そんな時に、手を差し伸べてくれたのが、従兄弟の安達勲お兄さんだった。お兄さんは、ミナミで幅を利かすヤクザの親分さんになる。

 名目上は、喜美代伯母様を看病するということで、私は安達家の実家で生活するようになった。でも、実際は、キャバレーでホステスの仕事をさせられている。こんな生活をするようになって、もう、半年が過ぎた。一体、これからどうなるのだろう。


 母親との電話の後、部屋に戻った。お客様へのお礼状を書き終える。京子さんが用意してくれる昼食を食べる為に、居間に向かった。

 食卓には、お惣菜と一緒に、お母さんが送ってくれた塩昆布が添えられていた。

 喜美代伯母様は、嬉しそうに、その塩昆布を見つめる。


「月島家の塩昆布ね」


 とても美味しそうに食べてくれた。伯母様のご機嫌が良さそうで、ホッとする。

若い頃の伯母様は、本当に怖い方だった。ヤクザの親分だった伯父様も、一目を置いていた。女性ながら、ドスを利かせた声で若い衆をだまらせる。その姿に、幼かった私は震えたものだった。

 病気が始まってからは、日常の色々なことを、段々と忘れてしまうようになる。時間が経ってから同じことを聞いてくるなんて、よくあることだ。今は、昔の思い出の中で生きているみたい。

 食事が終わる。自分の部屋でゆっくりとしていると、玄関から木崎隆の大きな声が聞こえた。


「お嬢さん、もうそろそろ時間ですよ」


 木崎隆は、住み込みのヤクザだ。同じ敷地にある寮のような離れ屋で、仲間たちと生活を共にしている。若い頃に、勲お兄さんに誘われて子分になったそうだ。普段は、お兄さんのお抱え運転手として、車を運転することが多い。

 ただ、最近は暇なのか、それともお兄さんに頼まれたのか、木崎は私の面倒ばかりを見ようとする。

 面倒だし、私は木崎のことを邪険にした。でも、その度に木崎は、「親分から言い付かってますから」と近寄ってくる。


 ――私に気があるんじゃないの?


 何となく勘ぐってしまう。悪い奴じゃないけれど、空気が読めない強引さに、ちょっと辟易した。


 私は、出かける準備が出来ていたので、赤いコートを着て玄関に向かう。

 玄関を出ると、目の前に黒いベンツが停車していた。後部座席のドアを開けて、木崎隆が待っている。


 ――しかし、いつ見ても変な服。


 木崎隆は、いつも黒のダブルのスーツを着ていた。白い縦縞のデザインが、とにかく格好悪い。「私はヤクザです」って自己主張することが、そんなに大切なのかしら。


「車はいいよ。歩いていくから」


 私が歩き出すと、後ろから木崎が走ってきた。


「お嬢さん。何かあったんでは、親分に叱られてしまいます」


 私は、木崎を無視して歩き続ける。木崎は、仕方なく私の後ろを付いて来た。


 ――困ったもんだわ。


 すれ違う度に、通行人が私たちを避けていった。見るからに怯えた表情を浮かべている。


 ――ヤクザなオーラを、振り撒かないで欲しい。


 木崎が付いてくる所為で、こっちが恥ずかしかった。足を止めて、振り返る。


「木崎!」


「へい」


 木崎が、嬉しそうな顔をした。


 ――何なのコイツ。飼い犬じゃないんだから。


 私は、腕を組んで、木崎隆を睨みつける。


「お前に大事な用事をお願いしたいけど、いい?」


 大きな図体をした木崎が、私に歩み寄る。


「へい、何でしょうか」


「私のお客様宛の大事なお礼状を、郵便局に投函してきて欲しいの」


「へい、お安い御用です」


 嬉しそうな木崎には悪いけど、私は、大事なポイントを強調した。


「ここから、できるだけ遠くの郵便局に投函してきて頂戴」


 木崎隆が、眉間に皺を寄せる。


「意地悪を言わんでください。直ぐに投函してきますから、ちょっと待ってて下さいよ」


 木崎隆が、私からお礼状を受け取った。一目散に走り出す。周りの通行人たちが、驚いて道を開けていった。そんな様子を見て、私は笑ってしまう。


 ――除雪車じゃないんだから。


 木崎のことだから、直ぐに追いついて来ると思う。でも、やっと一人になれた。

 私は、ジュエリーボックスに向って歩みを進める。戎橋までやってきたところで、私は男たちに声を掛けられた。


「お姉さん、ハクイね。もしかして、モデルさん?」


 視線を向けると、三人の男たちが私のことをジロジロと見ていた。視線がとてもいやらしい。


 ――そんなゲスな表情で、女を口説けると思っているのかしら。


 この男たちの頭の悪さを感じた。


「急いでいるの。どいてくれない」


 リーダー格の男が、私の前に立ち塞がる。


「そんなこと言わずにさ、一緒に遊ぼうよ。俺たち良いとこ知ってるよ。ディスコでさ、一緒に踊ろうよ」


 私は、目を細めて喋っている男を睨みつけた。


 ――この男は、日本語が分からないのかしら。私は急いでるって言っているのに。


 こんな奴等に付き合ってやる程、私は暇じゃない。無視を決め込んで歩き出すことにした。すると、仲間の一人が躍り出る。両手を広げて私の行方を遮った。


「ほら、映画のさ、サタデーナイトフィーバーを見ただろう? ディスコに、行こうよ。ディスコにさ」


 ――五月蠅い男たちね。


 私の中から、怒りが込み上げてきた。気持ちを抑えることが出来ない。私は、男たちを睨みつけて叫んでやった。


「だから、行かないって言っているでしょう!」


 男たちが一瞬怯んだ。ところが、今度は目を怒らせて凄んでくる。


「ネエチャン、強気だね。あんまりなめてると、僕たち怒るよ」


 周りの通行人が、何事かと、こちらに振り向いた。


 ――面倒くさい男は、木崎だけで十分間に合っているのに。


 歯ぎしりした。こんなことなら、木崎を連れてくれば良かった。そう、思ってしまう自分にも、腹が立ってしまう。


 ――あー、嫌だ嫌だ。


 その時、傍で怒声が聞こえた。


「危ないやろ!」


 振り向くと、叫んだ男が去っていった。視線を下げる。足元で、一人の男が尻餅をついていた。私と男達を見上げている。


 ――この男は、いったい何をしているんだろう?


 不思議に思っていると、後ろから、息を切らせて走ってくる男の気配を感じた。


「お嬢さ~ん、大丈夫ですか~」


 ――やっと来てくれた。


 癪だけど、ちょっと嬉しい。私は、木崎を睨みつけた。


「この男たちを、とっとと追っ払ってよ」


 木崎隆は、熊のような体躯を揺すって、男たちを睥睨する。


「お前ら、大事なお嬢さんに、何さらしとんじゃ!」


 木崎の恫喝が、辺りの空気を震わした。男たちが縮み上がっている。いい気味だわ。


「すっ、すみませんでした」


 リーダーらしき男が、顔を引きつらせて頭を下げた。木崎は、指の関節を鳴らしながら、更に畳みかける。


「すみませんで、済むわけがないやろが。この落とし前は、どない付けるつもりや」


 三人の男たちは、顔を上げることも出来ずに震えてる。


 ――落とし前って、木崎、もういいんだよ。


 返事をしない男たちに、痺れを切らして木崎が叫んだ。


「コラッ! 黙っていたら分からんやろうが。お前ら、これから……」


 ――あかん! 木崎の奴、調子づいてる。


 私の事を気遣ってくれているのは分かる。でも、このままだと、やり過ぎてしまう。こいつが暴れ出したら、私では止められない。手を伸ばして、私は木崎隆の肩を掴んだ。


「木崎、そこまでで良いよ」


「ですが……」


 私は、男たちを睨んだ。


「あんたら、さっさといね! このままだと、コイツに殺されるよ」


 リーダーの男は、お辞儀をするや否や、踵を返して逃げ出した。残りの男たちも、慌ててその後を追いかけていく。

 その視線の先に、先程の尻もちをついた男が、私を見上げていた。まだ、若そうだ。学生だろうか。ヒョロヒョロと痩せている。下卑た雰囲気はないけれど、どこか幼さを感じた。

 動物に例えると、犬。そう、犬だ。しかも、野生の欠片もない子犬。オドオドとしていた。

 木崎もその男に気が付いた。私に問いかける。


「こいつも、そうですか」


「いや、こいつは、なんだろうね、よく分からない。さっきの男たちに突き飛ばされていたのは確かだけど」


 すると、その男は慌てて立ち上がった。私たちに頭を下げる。


「すみません。あんまり綺麗なので、貴女の絵を描いていました」


 子犬が、喋った。しかも、なんなのそのセリフは。


 ――絵を描いていました。


 緊張感に包まれていたこの時に、木崎の暴走を止めようとしていたこの時に。


 ――絵を描いていました。


 私の中から、噴き出しそうなくらい可笑しさが込み上げてきた。


 ――やだ、恥ずかしい。


 私は木崎の肩を掴んで、笑いを堪えようとした。だけど、抑えようとすればするほど、更に笑いたくなる。もう我慢することができない。

 その時、木崎隆が振り向いた。


「大丈夫ですか、お嬢さん」


 ――あっ、駄目。木崎、なんて間抜けな顔をしているの。


 私の事を心配する木崎の表情は、最後のとどめだった。私の中に溜まっていた、マグマのような感情の塊が、快感を伴って迸る。吹き出した。声をあげて笑ってしまった。


「アッハッハッハッ! こんな馬鹿、初めて。これからケンカになろうかって時に、絵を描いてましたって……」


 ――あー、とても気持ちが良い。


 もう、周りの目なんか気にしていられなかった。こんなに笑ったのは、何時以来だろう。鬱積した感情が開放されて、体が溶けてしまいそうだ。

 笑いながら、私は横目で子犬を見た。子犬は、驚いたことにクロッキー帳を開こうとしていた。


 ――まさか、今の私を描くつもりなの?


 慌てて、私はその男のクロッキー帳に手をかざした。


「フー」


 短く深呼吸して、自分を落ち着かせる。その子犬を睨みつけた。


「それ以上やったら、笑えない。もうやめて」


 子犬が、済まなさそうな表情を浮かべる。


「す、すみません」


 頭を下げて、謝った。

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