第5話 演歌
四迷師匠の席に呼んでもらえて、とても良い勉強になった。僕の中で、何かが大きく開いたような充実感がある。ただ同時に、黒服としての僕の立場も思い出した。このまま、ここで楽しんでいて良いのか不安になってくる。
「四迷師匠、もうそろそろ仕事に戻ろうかと思います」
師匠が、僕に怪訝そうな顔を見せた。
「ん、仕事? ワシの相手をすることも、立派な仕事じゃ。もう少し、ワシの横に座っておけ。次に始まる、真山琴子のステージくらいは、一緒に見ておきなさい。きっと、君の勉強になるはずじゃ」
師匠が手を挙げた。フロアを走り回っている黒服の一人を捕まえる。
「君、この子はもう少しワシの相手をさせるから、マネージャーに、そう伝えておいてくれんか」
僕の方を振り向く。
「これで、ええじゃろ」
「ありがとうございます」
「それより、真山琴子は知っとるか?」
「ええ、テレビで見たことがあります」
「そうか。今日、ワシが店に来たのは、真山琴子を観るためなんじゃ。あいつがデビューした頃から、ワシは知っとる。あいつは、このジュエリーボックスに育ててもらったようなもんじゃからな。なあ、美智子」
四迷師匠が、美智子さんに話を振った。
「ええ、そうよ。琴子ちゃんのタニマチは安達親分さんだから、ここで歌うことが多かったのよ。でも、最近はテレビの仕事も増えてきたみたいだし、よく考えたら久しぶりよね。ジュエリーで歌うのは」
――安達親分?
昼間に出会ったヤクザ者の事を思い出す。月夜さんは、あのヤクザ者のことを木崎と呼んでいた。あの男と何か関係があるのだろうか。夜の世界だし、ヤクザと無関係ということはないだろう。
突然、ホールの空気が変わった。
それまで静かなムード音楽が奏でられていたのが、軽快なスイングジャズに切り替わる。
管楽器の甲高い音が短く音を刻み、ステップを踏みたくなるようなリズムがホールを揺さぶった。なんだか、心が浮き上がってくる。愉快なメロディーだ。
お酒を飲みながらホールで談笑していた全ての顔が、ステージの方に向けられる。すると、髪の毛をオールバックにした高橋マネージャーがマイクを持って、ステージに駆け上がってきた。
「皆さま、こんばんは。本日は、このジュエリーボックスにお越し頂きまして、誠に有難うございます。私は、このジュエリーボックスでマネージャーをさせて頂いております。高橋、と申します。どうぞ宜しくお願いいたします」
高橋マネージャーが、ホールに向かって深々とお辞儀をする。
「今日、このステージで、歌を披露して頂くのは、演歌歌手の真山琴子さんです。思い返せば、八年前に初めてこのステージで歌われてから、皆様に愛され、育てられ、今では押しも押されもせぬ立派な演歌歌手になられました。最近では、テレビでのお仕事が忙しいのか、ジュエリーボックスで歌う機会が少なくなってしまいました。お客様からは、琴子ちゃんは、いつステージに上がるの? と、せっつかれ、目を白黒とさせているところ、本日、やっと、歌って頂く運びとなりました。お待たせ致しました。真山琴子さんです。どうぞ!」
高橋マネージャーの声に合わせて、ドラムロールが鳴り響く。ステージの袖から、真山琴子が楚々とした足取りで現れた。ライトに照らされて、白い着物の松の柄がキラキラと輝いている。暗いホールの中、琴子の姿が妖艶に浮かび上がった。
ステージの中央に設置されたマイクにたどり着く。俯きかげんだった琴子の視線が、ホールにいる観客たちに向けられた。黒目がちの凛とした瞳は、見る者の胸を突き刺すような鋭い気迫があった。
僕は、思わず自分の胸を押さえてしまう。
「ご紹介に上がりました、真山琴子と申します。ご無沙汰をしておりました。よく見ると、懐かしいお顔がチラホラと」
「琴子ちゃん!」
観客席から、声援の声があった。
「ありがとうございます」
真山琴子が、小さく会釈する。
「このジュエリーボックスのステージに立ちますと、なんだか、我が家に帰ってきたような、懐かしい気持ちにさせられます。……あら、四迷師匠もお越しですね、いつも、ありがとうございます。こうして皆様のお顔を眺めていると、皆様に支えられ、この場に立たせてもらっていることを、ひしひしと感じる事ができます。今日は、皆様の為に、精一杯、歌わせて頂きます。どうぞ、最後まで、お楽しみ下さい」
真山琴子が、深々と頭を下げる。
「では、最初の曲は、私のデビュー曲……別れ酒」
管楽器の暗い旋律が始まると、琴子はマイクを口に近づけ、ホールの宙を見つめた。どこを見つめているのか、寂し気な表情を浮かべている。すると、首をゆっくりと傾げて視線を流し、ホールの客たちを悩まし気に見つめていった。
いつものように 席につき
優しい笑顔を 私に向ける
お願いだから 今日だけは
楽しい話をして欲しい
貴方の気持ちは 分かってる
今日はさみしい 別れ酒
生まれて初めて、真山琴子という演歌歌手の迫力を知った。
少しハスキーがかった声で歌う琴子の歌には、怨みともとれる感情が込められている。震わした声で悲しみを吐露し、時にこぶしを響かせて、切々と歌い上げた。
貴方を支えた あの頃を
思い出すと 涙が出るの
尽くすことは 嫌いじゃない
だって貴方は笑ってくれた
私じゃ駄目だと 分かってる
未練だらけの 別れ酒
真山琴子はホールを見つめ、揺れる心に顔を歪めていく。
――美しい、とても美しい。
悲しみに満ちた、その表情を描きたい。そうした感情が、僕の中から込み上げてくる。ただ、僕は鉛筆を走らせることが出来なかった。
僕は、魅入られたように真山琴子を見つめる。目が離せないのだ。長いまつ毛に包まれた深くて黒い瞳が揺れると、僕の心もグラグラと揺らされた。真山琴子を支えてやりたい。そんな気持ちにさせられてしまう。
何が欲しいと 貴方は聞くの
それで終わるの わたしたち
真珠もお金も 私はいらない
子供が欲しいと 私は言った
どういう意味だか 分かってる?
憎い貴方と 別れ酒
歌い終わった。
真山琴子が、ゆっくりと両手を下げる。潤んだ瞳で僕たちを見つめた。
ホールがシーンと静まり返る。
琴子は、微かに笑い深々と頭を下げた。
ホールから、盛大な拍手が起こった。僕も、力の限りに手を叩いた。真山琴子の迫力に圧倒されてしまった。
横を見ると、美智子さんが涙ぐんでいる。四迷師匠は、腕を組んで余韻を感じていた。
真山琴子は、それからも一時間にわたり熱唱を続ける。ホール全体が、真山琴子一色に染まっていった。
僕は、四迷師匠にお礼を述べて、黒服の仕事に戻ることにした。先輩に指示を仰ぎ、ボックス席にお酒を運んで回る。
ホールを回りながら、琴子のステージを見つめた。芸というものは、磨き上げることで、その深度を深めていく。その事を知った。
アンコールに応えた後、真山琴子のショーが完全に終わった。
ショーが終わると、高められた熱気が一気に爆発した。
それぞれのボックスから、お酒の注文が殺到する。あちらこちらから、手が挙がり黒服が呼び止められた。
僕たち黒服は、追いかけられるようにして走り回る。
銀盆にのせたビールジョッキを零さないようにしながら、僕はホールを見渡した。
ガヤガヤとしたお客様の騒ぎ声が、いつ果てるとも知れない台風のようにグルグルと渦巻いている。一種の狂気状態へと昇華しているように、僕は感じた。
そんな仕事の最中、四迷師匠から呼び止められる。師匠の横には、真山琴子が座っていた。師匠が、僕に琴子さんを紹介してくれる。
「ジョージ君。真山琴子君だ。どうだ、なかなかなもんだろう」
師匠は、自分の事のように自慢する。
僕は、真山琴子さんにお辞儀した。
「とても素晴らしいステージでした。ただただ、凄かったです」
真山琴子が、ニコリと微笑みを浮かべる。
「ありがとう」
師匠が、僕のことを紹介する。
「この子は、ジュエリーボックスの新しい黒服でな、ジョージ君。似顔絵が得意なんだよ。君、先程の似顔絵を出してみなさい」
クロッキー帳が入ったカバンを、僕は慌てて取りに行く。取って返して、師匠にクロッキー帳を差し出した。
「はい、これです」
「琴子君。これじゃ」
琴子さんが、クロッキー帳を受け取る。美智子さんの似顔絵を見て、微笑んだ。
「美智子姉さんね。キレイに描けているじゃない」
そう言って、次のページを捲る。
「まー!」
小さく叫んだ。琴子さんが、顔を赤らめる。
師匠が、その反応を面白がった。悪戯っ子のように笑う。
「面白いじゃろ」
琴子さんが、肩をすくめる。
「ええ、そうね」
美智子さんが、琴子さんに助けを求めた。
「琴子ちゃん、助けてよー! 皆して、私をイジメるの」
美智子さんが、琴子さんにしなだれ掛かる。そんな美智子さんの肩を、琴子さんが優しく抱きしめた。ヨシヨシとあやしてあげる。
「でも、美智子姉さん、とてもキレイに描けているわ。色っぽくて、どこか儚げで。女の私でも、なんだかドキドキしてしまう。どう? 今夜、わたしと一緒に……」
美智子さんが顔を上げた。琴子さんを見つめて、ウルウルと瞳を潤ませる。唇を尖らせた。
「琴子ちゃんも、師匠とおんなじ事を言ってるー。皆して、私をイジメるんだから」
琴子さんが、媚を含んだ眼で美智子さんを見つめる。
「あら、イジメてないわよ。それとも、もしかして……イジメて欲しいの?」
美智子さんが、倒れ込むように琴子さんにしなだれ掛った。琴子さんの首筋に顔を埋める。
「琴子ちゃんなら、いい」
琴子さんが、そんな美智子さんを優しく抱きしめた。
すると、そんな二人のやり取りを見て、四迷師匠が大笑いをした。
「ガッハッハッ! よしよし、そこにワシも混ぜろ。ええ思いをさせてやるぞ」
美智子さんが顔を上げる。師匠を横目に見つめた。
「ダーメ。今夜は、琴子ちゃんと二人がいいの」
「つれないのー。ガッハッハッ!」
師匠は、愉快そうにまた馬鹿笑いした。
そこに支配人が現れる。
「四迷師匠、今日はご来店ありがとうございます。お楽しみ頂けているようですね」
四迷師匠が、支配人を見上げた。
「木崎君か、楽しんでおるよ。久々に馬鹿笑いをしていたところじゃ」
支配人が、ゆっくりとお辞儀する。
「ありがとうございます」
四迷師匠が、テーブルにあるクロッキー帳を持ち上げた。
「ほれ、見てみると良い」
支配人は、差し出されたクロッキー帳を手に取った。
「これは新人が描いた似顔絵ですか?」
「そうじゃ、この絵で、今、笑っておったところじゃ」
「見せてもらいますね」
美智子さんの裸婦が描かれたページを、支配人がじっと見つめた。
四迷師匠は、そんな支配人を面白そうに見る。
「どうじゃ?」
「師匠」
「なんだね」
「この新人を舞台に上がらせたら、物になりそうですかね?」
「そんなこと、ワシャ知らん。ただ、面白いもんは持っとる。客との駆け引きを覚えたら、それなりに客を楽しませることは出来るじゃろ。なんにせよ、本人にそのつもりがあるかないか、それだけじゃ」
「そうですね」
「まー、経験が必要じゃ。失敗を繰り返して、体で覚えなあかん。琴子を育てたように、また、やってみるつもりか?」
「そのつもりです」
「今のままでは、ステージで失敗するのは目に見えておる。今日のように、お抱え絵師として、接客を覚えさせたらどうじゃ。常連客に顔を覚えてもらって、可愛がってもらいながら、一つ一つ芸を積み上げていくんじゃ」
「分かりました。聞いたかジョージ、そういうことや」
僕は、支配人に頭を下げる。
「はい。頑張ります」
支配人が、四迷師匠に向き直った。深々とお辞儀する。
「四迷師匠、今日はありがとうございました。では、これで真山琴子も引き上げさせて頂きます」
「なんじゃ、つまらんのー」
四迷師匠が、口を尖らせる。
「申し訳ありません。じゃ、琴子さん、こちらへ」
真山琴子は別れの言葉を皆に述べて、支配人と一緒にホールから出ていった。
僕は、クロッキー帳から美智子さんの似顔絵を二枚切り取る。
最初の似顔絵を美智子さんに、二枚目の裸の美智子さんを四迷師匠に手渡した。
僕も、その場から辞退する。
その後も、ホールでは乱痴気騒ぎが繰り返されていった。
十二時を回り、最後のお客様を見送った。でも黒服の仕事は終わらない。僕たち黒服は、ホールの後片付けを始めた。
お祭りの後の残骸は凄まじい。アルコールの臭いが立ち込めていた。臭いだけで酔いそうになる。テーブルの上のジョッキや残飯を、次々と厨房に運んでいった。
そうした作業に勤しんでいると、ホールの出入り口から、僕を呼ぶ声がした。
「ジョージ君、ちょっとだけいいかな?」
声がする方へ足を向ける。美智子さんと月夜さんと、小さな女の子が立っていた。
美智子さんが僕に歩み寄る。
「ジョージ君、今日はありがとう。四迷師匠にとっても喜んでもらえたの。お酒の注文も大盤振る舞いで、凄い売り上げになったのよ。今日は、ナンバーワン間違いなし」
人差し指を立てて、美智子さんが嬉しそうに笑った。
「いえいえ、僕も勉強になりました」
「お客様から頂いたもので申し訳ないんだけど、ウィスキーを貰ってちょうだい。智子、お兄ちゃんに渡してあげて」
隣りにいた小さな女の子が、僕を見上げた。手に持っていた高級そうなウィスキーを僕に差し出す。
腰を落として、僕は女の子の目線に合わせた。その女の子から、ウィスキーを受け取る。
「ありがとう」
女の子が微笑んだ。
僕は美智子さんに尋ねる。
「娘さんですか?」
「そうなのよ。智子っていうの。十歳になるのよ。私って、こんな仕事でしょう。この子が小さな時から、職場に連れてきているの。仕事をしている間はね、引退したお姉さんたちに面倒を見てもらっているの。もうね、ここが我が家みたいなもんなんだけどね」
そう言って、恥ずかしそうに美智子さんが笑った。まさか、子供がいるとは思わなかった。
隣りにいる月夜さんに視線を向ける。頭を下げた。
「今日は、何とか仕事をすることが出来ました。ありがとうございます」
美智子さんが、僕を見て笑った。
「子犬を拾ってきたって、月夜が貴方のことを面白がっていたわよ」
「子犬、ですか。月夜さん、子犬を拾ったんですか」
僕の言葉に、美智子さんと月夜さんが、顔を見合わた。
「アッハッハッ! 面白い」
良く分からない。なぜ、笑われたのだろう?
「えっ! どうしたんですか?」
首を傾げていると、美智子さんが笑いながら説明してくれた。
「ごめん、ごめん、変な言い方になっちゃった。子犬っていうのは、貴方のことなの」
「僕が……子犬ですか」
月夜さんが、悪戯な目で僕を睨む。
「ひっくり返っているあんたを、拾ってきたのは私よ。子犬みたいなもんじゃない」
先輩のお姉さん達に、僕は子犬扱いをされていることを、やっと理解した。頼りないのは仕方がないにしても、何だか複雑な気分だ。
月夜さんが、腕を組んで僕を見下ろす。
「それにしても、子犬にしては、今日は良くやったわ」
――えっ、何のことだろう?
僕は、不思議そうに月夜さんの顔を見つめる。
「あの四迷師匠のボックスで、えらい盛り上がっていたみたいね。あの気難しい師匠を、あれだけ楽しませたんだから、大したもんよ。ジュエリーでは、昔からの大切なお客様。これからも宜しくね。子犬君」
月夜さんから、肩を叩かれた。
お別れの挨拶が終わり、月夜さん達が帰っていった。僕は、彼女たちの後ろ姿に頭を下げる。なんだか嬉しかった。
まだ後片付けの仕事が残っている。踵を返すと、僕はホールに戻っていった。
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