第4話 師匠
四迷師匠をはじめとするお客様たちが、僕を見守っていた。僕は、美智子さんをじっと見つめる。
絵を描くとき、僕は心の中でスイッチを探す。スイッチと言っても、何か特別なスイッチがあるわけではない。僕が美しいと感じる何かを探すのだ。
それは、怒ったときの目の表情であったり、何気ない仕草で髪の毛をかき上げた時に見せる耳の形に惹かれることもある。開きかけた唇の空間が美しいと思うこともあるし、恥じらいを見せた時に首を傾げる、その首の角度に興奮することもある。
正直に言うと、僕が何に対して美しいと感じるのかは、その時になってみなければ分からない。反対に美しいと感じてしまうと、その美しさを描いてみないことには、僕の気持ちは収まらなくなってしまうのだ。
美智子さんを観察して、僕が感じる美しさを探した。
容姿は、特別美人というわけではない。年齢は三十歳を過ぎているだろう。仕草や言葉遣いからは、どこか幼さを感じさせるが、見方によれば、それが彼女の可愛さだともいえる。
多分、この美智子さんという女性は、この業界にしては珍しく、相手を責めない方に感じた。どちらかというと、競争が苦手で一歩引くタイプだと思う。
でも、その美智子さんから、僕が描きたくなるスイッチが見つからない。僕は、美智子さんという人間をもっと知りたかった。
僕は、美智子さんに尋ねてみる。
「あのー、美智子さんに質問があるのですが?」
「なにかしら。いいわよ」
モデルになろうと固まっていた美智子さんが、キョトンとした表情を僕に見せた。
「源氏名の美智子って、結構、珍しいですよね。それは、皇后の美智子様と関係がありますか?」
美智子さんが、驚いた。右手を口に当てる。僕から視線を外すと、恥ずかしそうに顔を伏せた。
「いやーねー、ジョージ君は」
美智子さんの突然の反応に、僕こそ驚いてしまった。源氏名の事は、尋ねてはいけなかったのだろうか。慌てて弁解する。
「いや、すみません。ちょっと気になっただけなので、無理にとは言いません」
僕が謝ると、美智子さんは、そんな僕を面白そうに見つめた。
「さっきも言ったけど、私、高校中退なの。頭が悪いし、男には直ぐに騙されるし……。でも、そんな私でも、ここではお姫様になれるのかなって思ったの。どうせなら、一番素晴らしい名前を付けようって……だから」
美智子さんが、深く息を吐く。両手を前に伸ばすと、更に上にあげた。背筋を伸ばす。
「う~ん。スッキリした」
「……」
掛ける言葉が見つからない。美智子さんが、僕を見つめた。
「実はね、この源氏名を名乗り始めてから、名前と自分とのギャップにずっと疲れていたんだよねー。今更、変えるわけにもいかないから、美智子って名前に、肩が凝っちゃって凝っちゃって……ジョージ君に話したら、何だか、楽になっちゃった」
美智子さんの営業スマイルが、力の抜けた微笑みに変わった。その微笑みから、気だるい女の色っぽさがにじみ出ている。
僕は、その表情を見逃さなかった。クロッキー帳に視線を落とす。美智子さんの微笑みを取りこぼさないように、鉛筆を素早く走らせた。
潤んだ瞳、軽く閉じられた唇、斜めに傾いた首筋、全てが調和を保っている。美智子さんの美しさを引き立てていた。
四迷師匠は、絵を描くことに集中している僕を、物珍しそうに観察する。腕を組み、右手で顎を摩りながら、僕を見ていた。
美智子さんの似顔絵が、描き上がった。
クロッキー帳を、師匠に差し出す。気だるい美智子さんの似顔絵を、師匠は時間を掛けて観察した。
何だか緊張する。黙って、僕は師匠の言葉を待った。
師匠が顔を上げる。ポツリと言った。
「よく描けている。生の美智子よりも数段色っぽいな」
師匠の言葉に、美智子さんが可愛い不満顔を見せる。
「モー」
美智子さんは、師匠の肩を前後に揺すった。師匠は、揺すられながら高笑いする。
「カッカッカッ!」
そんな二人のやり取りに、ホッとしていると、師匠が僕に向き直った。
「ところでジョージ君。君はどんなことを考えながら、絵を描いているのかね」
僕は、少し考える。
「美しいものを描きたいと思っています」
「ふむ。では、美智子に、質問をしたね。あれは、君のスタイルか?」
「いえ、実は初めてのことでした。意図はありません。僕の質問で、美智子さんが恥じらった姿が、とても美しいと思いました」
「ほほー、君は面白いね。人間は、石膏で出来たモデルじゃないからね」
――面白いことを言う人だ。
僕は、師匠の言葉をもっと聞いてみたい気持ちに駆られる。
「師匠のお仕事は、石膏ではなくて人間が相手ですよね」
四迷師匠が、ニヤリと笑った。
「そう、人間が相手だ。毎回毎回、同じ話をしているように見えるかもしれんが、場の空気というのはいつも違う。老若男女、様々な観客を相手に、毎回が真剣勝負なんだよ。客のね、心を覗きながら、間を奪い、笑わせているんだ。何となくね、君の似顔絵の姿勢に、似たようなものを感じたんでね。質問させてもらったよ。なかなか面白いものを見せてもらった」
僕は、師匠の言葉に首を垂れる。
「ありがとうございます」
「うむ。とは言ってもな、昨今は、寄席の機会も少なくなってきて、テレビの時代に入ってしもうた。カメラを向けられただけでは、客の顔が見えんからな、真剣勝負の機会も減っているんじゃ。ワシは、いずれ、テレビに殺されるんじゃなかろうかと危惧しておるんじゃよ」
四迷師匠の言葉に、スケベな飯塚さんが身を乗り出した。
「師匠、そんなことを言わないで下さいよ」
困ったような表情を浮かべた飯塚さんに、師匠は悪戯な笑みを浮かべる。
「ほれ、こ奴がテレビからの刺客じゃ。グッワッハッハッ!」
四迷師匠は、体をのけ反らせて笑った。
「敵わないな~」
頭を掻く飯塚さんを他所に、師匠が真面目な表情を僕に見せる。
「しかしな、ジョージ君。テレビに殺されるという意味では、このジュエリーボックスも、一緒なんじゃよ」
師匠の謎かけのような言葉に、身を乗り出した。
「どういうことですか?」
右手で自分の顎を触りながら、師匠が目を細める。
「ふむ。キャバレーという業界が最高に盛り上がったのは、いつ頃だと思う」
「えっ、今は、盛り上がっていないんですか?」
師匠が、面白そうに笑った。
「君は、何も見えとらんのだな。歳はいくつだ?」
「二十三になります」
「若いな。それでは仕方がないのー。キャバレーの全盛期ちゅうのは、もう十年も前に終わっとるんじゃ」
「十年前に……ですか」
「そうじゃ。その頃に、何があったと思う?」
「その話の流れからすると……テレビ、ですか?」
「そうじゃ。正確には、カラーテレビじゃな。東京オリンピックの開催が引き金になり、カラーテレビが全国に広まっていった。演芸というものは、もともとは寄席に見に行くものなんじゃ。このキャバレーもそうじゃ。ところが、カラーテレビの誕生で、演芸はブラウン管で簡単に観れるものになってしまった。しかもタダでな。ワシはな、こうした寄席の世界は、いずれ忘れ去られる運命かもしれん……と、そんな風に思っちょる」
何となく場が暗くなってしまった。沈黙が訪れる。四迷師匠は、そんな場の空気を見定めるようにして、僕に尋ねた。
「ところでな、ジョージ君」
師匠の目が真剣だった。思わず、息を吞んでしまう。
「はい。何でしょうか?」
師匠が、小さなため息をつく。
「この美智子さんの絵には、ワシのお願いが描かれていないんじゃが……」
――えっ! お願い。
直ぐに思い出せなかった。ちょっとした焦りが、僕の中に燻ぶる。間違いを犯してしまったのだろうか。
すると師匠は、自分の胸を突き出した。両手で二つの膨らみを作る。
――あっ! おっぱい。
「プッ!」
思わず吹き出してしまった。師匠も悪戯っ子の少年のように笑っている。
――でも、描いて良いのだろうか?
横目で、美智子さんを見た。
「ジョージ君、美しく描いてね」
美智子さんの目は、この場を盛り上げて欲しいと、切に訴えていた。
師匠からクロッキー帳を手渡される。僕は、もう一度、美智子さんを見つめた。色っぽい似顔絵にしたい。
「美智子さん、少し体をくねらせてみて下さい」
少しお願いしてみる。
「えっ! くねらせるの。こ、こんな感じかな……」
モデルに慣れないのか、美智子さんの動きがぎこちなかった。恥ずかしがっている。でも、その恥じらう姿が、なんだか可愛いと思った。
鉛筆を走らせる。クロッキー帳の中の美智子さんが、身体を捩りながら豊かな二つの膨らみを晒していた。隠したいけど、隠すことが出来ない。恥ずかしさから顔は俯かれている。必死に我慢している様子を表現することが出来た。
「いいじゃないか、ジョージ君」
四迷師匠は、僕からクロッキー帳を手渡されると、喜んで見つめた。
同じボックス席にいるプロデューサーの岡山さんも、スケベな飯塚さんも、胸が大きい葵ちゃんも、同じようにして覗き込む。
そんな、ボックス席の様子に、美智子さんが堪えきれずに悲鳴を上げた。
「ちょっと、皆で見ないでよ。思いっきり恥ずかしいんですけどー」
顔を真っ赤に染める美智子さんを見て、師匠が意地悪そうに笑った。
「たしか、ワシの記憶では、乳首は、もっと黒かったような……どれ、ジョージ君、鉛筆を貸しなさい。黒くしてやろう」
美智子さんが慌てた。目を大きく開いて、師匠を見つめる。
「し、師匠、変なことを言わないでくださいよ。いつ、見たんですか、いつ」
美智子さんは、師匠の肩をグリグリと揺すった。動揺している美智子さんを見て、師匠が笑う。
「今夜、見ることにしよう」
美智子さんが、目を丸くした。
「ほんと、スケベなんだから……」
「ガッハッハッハッ!」
師匠の馬鹿笑いが、ホールに響きわたる。
そんな四迷師匠を見ながら、僕は甚だ感心した。今後、舞台に上がり似顔絵を描くのなら、師匠のような力が必要になることを強く感じた。
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