第4話 女神

「え……!」


「ちょっと違うかな……。疑問に思うっていうか……」

 

「なんで、そんな風に、思うの……?」

 

「私は土曜の夜の子だから」


「……どういうこと?」


「遊びで生まれた子、ってことだよ」


「あ、あぁ……」


「確かめたわけじゃないけど、多分そうだと思う。私のお母さん、結婚してないんだ」


「あ、え! そう……。そうか……」


「よく、あんたのせいで、みたいなこと言われた」


「あ、うん……」


「なんで私なんか産んだんだろうね?」


「……西崎さんも、その……、なんていうか……」


 注釈)何か言おうとしたが、しばらく何も出て来ず、無言。結局、何も出て来なかった。言いたいこと、というか、聞きたいことは明確にあったのだが、口に出せなかった。そのうち、西崎さんの方が口を開いた。痺れを切らしたのだろう。


「だからさっきね、磯淵くんが言ったこと、なんかわかる気がした」


 その、僕が「さっき言ったこと」がどれを指すのかはわからなかったが、多分、なんかわかった気はする。


 それから食事が終わるまで二人とも、麺をすする時以外は口を開かなかった。以上がカップラーメンを食べてる時の会話だった。



 その後の西崎さんの行動はあっさりしていた。


 食後、しばらく霞湖の面を眺めていたと思ったら、突然立ち上がり、「じゃあ、ありがとう」と言って、水辺へと足を踏み出した。会計を済ませたので喫茶店を出て行く、そんな感じだった。実にあっさりとしたものだった。


 俺は、「いや、どうも……」と、この上はないであろうというほどに間抜け極まりない返事をしたのをよく覚えている。


 西崎さんは水際を踏みしめ、更に躊躇なくもう片方の足を踏み出した。その時、急に突然、なんだかもうたまらなくなって、俺は言っていた。こんな感じの会話だった。


「おおおおお、堕ろす……わけには、いかないのかな?」


「赤ちゃん殺して、私だけ生きてるわけにはいかないよ」


「殺すって……、まだ産まれてないじゃん……」


「……人間って、どこから人間だと思う?」


「それは、産まれてから……じゃ、ないかなぁ?」


「じゃあ、今私の中にいる赤ちゃんは?」


「それは……」


「ね?」


 西崎さんは霞湖に振り返ると、更にまた一歩踏み出した。そうして、足首、すね、膝、太もも、お尻、腰、背中、胸、肩、首、そして顔。それでも西崎さんは歩みを止めない。


 湖面は実に冷たそうなのに。寒くないのだろうか、と思った。遂に頭まで浸かってしまった。頭のテッペンの髪の毛が、わずかに水面に揺らぎ、後を曳いているのが見えた。アメンボみたいだった。


「ね?」だと?


 それが西崎さんの最後の言葉だとでもいうのか? 言葉ですらない。音声じゃねぇか。冗談じゃない!


 そう思ったのもよく覚えている。そして、そう思った瞬間に僕は駆け出した。


 何年か振りに足を踏み入れた霞湖は、それはもうめちゃくちゃに冷たかった。


「ツメテー!」


 僕の心の叫びが冬の霞湖に木霊した。そのファルセットに反応したか、ガアガアとカラスが飛び立った。それでも我慢してもう片方の足も踏み出した。


「ヒィー!」


 さっきよりも高い声の悲鳴となった。もうカラスも応えてくれなかった。でも我慢だ。西崎さんはこの中を進んでいったのだ。僕が我慢しなくて何とする。


 僕が西崎さんが子供を産むことを拒否したのは、苦しみをこの世から一つなくしたかったからだ。


 どうせ僕の子供だ。ろくな人生とはならないだろう。残念ながら僕は僕の両親とは違う。楽しい人生なんか送ってこなかった。ボロ雑巾のような、モブですらまだマシとも思える人生だった。これから先もそうだろう。そんな男の子供の人生なんか、ハズれに決まっている。まさに人生ガチャハズレだ。そんな無責任なこと、僕にはできない。


 しかしだ。今こうして西崎さんは、こんなにも冷たい水の中を、人生最大の苦しみを受け入れようとしている。苦しみを一つ消そうとしていた僕が、別の苦しみを生み出してしまう。プラマイゼロである。そんなのナシだ。ふざけんな。


 だったら、だったらである。一つ苦しみを生み出してしまうかもしれないが、その裏にはもう一つの苦しみを救うという意味がある。許せ、僕の子よ。おまえが苦しむことで苦しみが一つ消えるのだ。責任は僕が取る。ごめん嘘ついた。多分、十中八九、ほぼ確実に責任は取れない。しかし許せ。


 足首、すね、膝、腿、ケツ、腰……と来たところで、前方の水面から突然物体が現れた。


 最初、本当にネッシーの類かと思って、それはもう焦った。その物体は徐々に水面にその姿を露わにしていった。おそらく生物である。毛むくじゃらであることがわかったからだ。更に生物は姿を現す。頭、首、肩、背中、腰、お尻、太もも、膝、ふくらはぎ、足首……。そして遂には、水面に立ち上がった。


 西崎さんである。水面に立ち上がった西崎さんはこちらを振り向いた。長い髪から水滴が、薄い雲を通したわずかばかりの陽光に煌めき、吐く息は白い雲のようだ。凪いだ水面にその姿が鏡のように映っている。その光景は水の妖精、あるいは女神か。ボロい斧を落としとけば良かったかな、と一瞬思ったが、次の瞬間にはそんな寒い考えは捨てた。


「無理なんだけど」


 と、西崎さんは言った。


「寒すぎ。ホント無理なんだけど。え? どうしよう?」


「帰ろう」


「……そっち戻るの?」


「他にどうやって?」


「え、無理なんだけど。もう一度そこ行くの」


「でも……余計寒くなるよ。すぐ、すぐ車に戻れば、大丈夫だよ」


「えー……」


 西崎さんは水面を見つめた。


 その後、嫌がる西崎さんをなだめすかして何とかもう一度池を渡って来させ(我ながら鬼であるが、仕方ない)、ダッシュで車に戻り、お互い服を脱いで(周りに誰もいなかったと願いたい)、毛布にくるまり、近くのホテルに向かった。


 ホテルの従業員に「お客さん、落ち着いてください」と言われた。余計なお世話である。


 こうして、僕は子供をつくることを決めた。

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