第3話 湖

 霞湖かすみこに着いた時は、すっかり昼になっていた。


 太陽の姿は薄い雲を通して見えていたが、霞湖は山の、割と深いところにある。背の高い木に覆われ、なんとなく薄暗かった。時折ギャアギャアというカラスの啼き声が木霊していた。


 霞湖に行ったのは実に久しぶりだったが、当たり前だ。いい大人がバラ線の間をくぐったりはしない。しかし、そのバラ線も含めて(ちょっと錆びてきていた)、あまりの変わってなさっぷりに、ちょっと感慨深かった。子どもの時分には真っ赤チン(米国アメリカザリガニ)を獲りによく通ったものだ。


 そのバラ線を十年ぶりくらいの勢いで潜ったが、変わらない霞湖に比べ、こっちはすっかり変わってしまったことを痛感した。バラ線とバラ線の間が随分と狭く感じられた。ちょっと刺さった。すげえ痛かった。そんなところに西崎さんを通したのだから、我ながら鬼である。


 バラ線の中の世界に入り、道なき下り坂(ほぼ崖と言っていい)を降りると、懐かしき霞湖に出た。


 随分と変わったように見えた。湖の中程に島があったはずなのだが、丸々なくなっていたからだ。元より大きな島ではなく、浅くなったところが剥き出しになり、そこに雑木雑草の類が繁茂した程度のものだったので、風雨や波に削られでもしたのだろう。


 でもその島が僕は好きだった。一度、ハッちゃんン家からゴムボートを持ってきて、それに乗ってみんなで島まで渡ったことがある。あれは楽しかった。そんな思い出もあるので、だからまぁ、少し寂しかったが仕方ない。


 そして案の定誰もいない。正直、もしやと思いもしたが、良かった。都合が良い。今はなので、近所の子供達も来ない。よく考えたら、僕もこの季節に霞湖へ行ったのは初めてだった。しかしそもそも、今の子はああいうところに行くのだろうか?


 早速我々は持参したポットからお湯を注ぎ、カップラーメンを食した。西崎さんのリクエストだ。最後の晩餐というやつなのだろう。正確には昼食だが、「最後の昼食」というと、なんとなく締まらない気がするので不思議だ。


 ちなみに僕は日清シーフードカップヌードルで、西崎さんはマルちゃん赤いキツネだった。彼女に合わせて僕も緑のたぬきにすれば良かったと、今になって後悔している。


 ちなみに、個人的にはシーフードカップヌードルのスープはカップラーメン界ではナンバーワンスープだと思っている。なんとなく、昔獲った真っ赤チンを思い出しながら食べた。しかし、ああいうところで食べるカップラーメンは、なぜああも美味しく感じるのだろう。


 そんな感じで僕たちはカップラーメンで手っ取り早く、そして味わいの深い「最後の昼食」を済ませていたが、その時の会話も備忘録として記しておく。


以下、会話。


「池だね」


「まぁね。元々、田んぼに水を引くための溜池だから。『霞湖』ってのは、僕らが勝手にそう呼んでただけで、多分、本来は名前もついてないんだと思う。でも、子どもの時分の僕らにしてみれば、それこそ湖みたいなものだったんだ。もちろん、今見ると池だけどね」


「じゃあ、磯淵くんたちがこの子に名前つけてあげたんだね」


「うーん、上級生もそう呼んでたからなぁ。誰がつけたんだろうね?」


「ふーん。子どもはやさしいね」


「そうなのかな?」


「磯淵くんはお母さんのこと、どう思ってる?」


「えー……。どうって?」


「恨んでる?」


「え……?」


「さっきの車の話」


「え? あぁ……」


「生まない方がいい、って結論に辿り着いたのなら、自分も生まれない方がいいと思ったのかな、って思って。そしたら、生んでくれたお母さんのことはどう思ってるのかな?っと思って」


「それを言うなら、なんで母親一人に責任押し付けるの? 恨むとしたら両方だよ」


「そっか……。じゃあ、両親のことは恨んでる?」


「うーん……、どうなんだろう……」


「なんで? 生きるの辛いんでしょ? 生まれてこなきゃ良かったって、思ってるんでしょ?」


「うーん……。それはそれ、これはこれ」


「何それ?」


「うまく言えないんだけど……そういうもんなんだよ。つーか、ウチの両親は楽しかったんじゃないかなぁ? じゃなきゃ、僕を生まなかったと思う。僕にも同じように楽しい人生が待ってると思ってたんじゃない?」


「じゃあ、何で楽しかった両親から生まれた子どもの人生はつまんないの?」


「うーん……。時代、かな……」


「時代ガチャハズれだ」


「そういうこと」


「でも、今の時代でも楽しそうな人はいるよ?」


「西崎さんとかね」


「……楽しそうに見える?」


「そりゃあ……。違うの?」


「私ね、親恨んでるよ」


「え……!」

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