第3話
***
オーシャンが去ってからまた暫く、メリノは彼女を待っていた。もうこないとしても、すでに行く宛がなかった。たまに気まぐれで射し込む陽のちらちらとした光を見ながら、ぼうっと色々なことを思い出した。
メリノは医者だった。ずうっと昔の話だが、戦場に駆り出されて負傷した兵士の治療をしていた。もう助からないとわかっていても、懸命に、しかし事務的に仕事をした。自分がそのような役目を与えられているからだった。ただ、それだけのこと。
どう見ても二十歳そこそこの青年が軍医であることに、誰も疑問は抱かなかっただろう。そういう意味でも、メリノは雇い主にとって都合の良い犬だった。老いることもなく、だとしたら当然に死ぬこともないメリノの身体は、命が使い捨てられるこの戦場でも無限に使える労働力なのだから。
彼女と出会ったのは休戦中の祝祭の日で、あの時のことは鮮明に憶えている。兄の亡骸を抱いて、なんで、どうして助けられなかったのとメリノに詰め寄ったのだ。彼女の兄は爆撃を受け、身体の半分を吹き飛ばしていた。可愛らしい白のドレスが血で汚れるのも構わず、彼女は兄を抱きしめて泣いていた。なんで今になって、こんなことばかり思い出すのだろう。
──と、背後で教会の扉が開いた。
振り返ると身なりのいい老紳士が立っていて、連れ立ってきた何人かの男たちに小声で指示を飛ばしている。何十年振りに開かれたのか、扉は動かすだけで白い埃をそこらじゅうに撒き散らした。
メリノは皺の奥のその真っ黒な瞳を、じっと見つめ返した。彼のことを知っているような気がしたからだ。もしそうだとしたら、彼も自分のことを知っている。そしてそれこそが、ここにきた理由だとも察した。
「久しぶりだな」
「ええ、本当に」
「娘は死んだよ」
老紳士は淡々と言った。……彼女の父だ。随分と老いて、あの頃メリノを家畜だ犬だと言葉の限りに罵倒した勢いはすっかりなくなっていた。ただ、戦争に携わった元軍医を、死なない身体の奇妙な人間を、酷く嫌悪するその目はあの頃と変わっていない。それが妙に安心するのだからどうかしている。
「そう、ですか」
「君と別れた後いくつか見合いをさせたが、誰とも結婚することはなく、当然に後継ぎを産むこともなかった。そうして、早いうちに病に
「…………」
そんなことを言いにきたのか、と吐き出したいのをぐっとこらえた。そうでないことはわかっている。口にするだけ無駄なのだ。タイミングを見計らったかのように、老紳士の背後には黒い装甲で武装した兵士たちが集まってきた。手に手に銃身の太い専用の銃を構え、一斉に引き金をひく。どすん、ぼすん、と空気の混じった重い音が響いて、メリノの身体を穴ぼこだらけのチーズみたく撃ち抜いた。
「こいつにも、我々と同じ赤い血が流れているのだと思うと吐き気がする!」
老紳士は、もう動かないメリノの死体に呪いを吐き捨て、誰からともなく持ち出した火を放つ。古い土埃まみれの木造の建物はあっという間に炎に巻かれ、外側の庭木や鳥の巣までもを全部引っくるめて飲み込んだ。
ゆらゆらと揺れる炎のカーテンが、虚ろな翠色の目に映っていた。
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