第2話

 埃だか土だか、或いはその両方が混ざった汚泥なのか、ともかくそこは不衛生な場所だった。ああ、一体どうしてこんな空気の悪い場所にいるのか。先ず頭に浮かんだのはそういった、短絡的でひねりのない疑問で、目の前に座る青年が不審だとか変だとか、そういったことは二の次だったのだ。


「なんで」


 オーシャンの声は静謐せいひつな礼拝堂に反響して、少しやかましかった。いや、この場所が静かすぎるのだ。

≪リーン・セントラル≫にあるこの廃教会は、人の手を離れて百年近くは経っていた。経年劣化とも廃屋荒らしとも分からぬ綻びが各所に見受けられ、蜘蛛の巣すらも煤けて見える。元は美しかったであろうステンドグラスは灰色に曇り、外壁に蔦が這っているのか陽の光などは届かない。ただ、年季のはいったネジ巻き時計の秒針だけが、おかしな時間を指しつづけている。


 そんな場所に、ぽつりとは佇んでいた。


 朽ちて崩れた椅子の残骸の、少し大きな破片に腰掛け、胡乱な目をしてオーシャンを見遣る。濃い翠色の、伏し目がちな瞳だった。墨のような黒い髪はぼさぼさと乱れ、白いシャツにオーバーシルエットの黒いパーカーを羽織っている。お祈りにしてはラフすぎる格好に違和感を覚えていると、彼は、ほつれた黒いスキニーの膝をさすりながら目を逸らす。


「あの、さ。ここ、もうすぐ取り壊されるんだ。だから早く、出ていったほうがいいと思うけど」

「……取り壊される?」想像よりも一段と低い声をしていた。

「ん。古いし、危ないから……ってキルシェのじじいが言ってた」

「それをわざわざ言いにきてくれたの」


 そんな言い方しなくてもいいだろ、とオーシャンはむっとした。しかし、その後に返ってきたのは意外な言葉で、逆に面食らってしまう。


「ありがとう」


 彼は静かに頭を下げ、礼を言った。しっかりと影も足もあるのに、どこか儚げで、暗闇のなかに溶けて消えてしまいそうな気がした。


「……人を待ってるんだ。だからここを動けない」

「こんな埃っぽいとこで? だとしたら待ち合わせの場所間違ってるって。こんなとこ、肝試しのいたずらキッズも入ってきやしねえよ」

「でも、あんたはきた」

「俺は仕方なく侵入したの! 時計の中に欲しいパーツが……」言った後で、やば、と自身の口を塞ぐ。

「いまって言ったね? ドロボウみたいなやつ?」

「あっ、や。違うし。言葉のアヤってやつで」


 彼の表情は、先ほどよりも心なしか柔らかくなっていた。ピンと張っていた糸が弛んで、ほんの少しだけ近づく隙を与えてくれている。


「待ち人はいつくんの?」

「わからない」

「わからないって……」

「些細なことで喧嘩しちゃってね、実はもう、だいぶ長いこと待ってるんだ」

「ふうん、どのくらい?」

「うーん……」彼は少し考えて「四十、いや、五十年くらいかな」

「ご……!?」


 一度は驚いたが、いやそんなまさか、と思い直す。だって、彼はどう見ても二十代前半にしか見えないのだ。生まれたときから誰かを待っているだなんて、そんなロマンチックな冗談も言えるんだと少し安心した。相変わらず仏頂面だが。


「そっか、言われてみればそんなに待ってたんだ。さすがに、もうこないかもな。……」


 きわめて日常的な口調で奇妙なことを言ってから、彼はまた俯いた。冗談にしては真面目なトーンだった。


「あんた、名前は?」

「オーシャン」

「そっか。オーシャン。覚えとくよ」

「そっちは?」


 訊き返すと、またぼんやりとして「──メリノ」

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