AIに対する絵界隈と小説界隈の温度差
少し前からアートAIに関する百合SF短編「アンフィテアトルム」のためにツイッターでAIアートの問題点を語るアカウントをフォローしてきたのですが。
海外の運動がまずあるということ。
#SupportHumanArtistsというハッシュタグ。
〝AI IS THEFT〟という標語。
最近は日本の絵師の方の「AI反対の声をあげられなかった理由」という画像が流れてきました。
一時期より声があがっている感じがします。
もちろん日本の絵師がAI反対と言うと非常に冷淡な反応もあります。そのへんはまとめブログキッズみたいなノリなのでまあいいかなと思うのですが。(一時期はまじで絵描きは感情的で技術に関して無知な土人なのでこいつらのお気持ちのせいで日本のITなんとかが海外から遅れるどうこうの反応がありました)
一方、SF小説界隈では空気感が全然違うなと思いました。
SFマガジン「AIとの距離感」特集で気になったのは、
・盗作問題について触れられていないこと。
・データ元にされた絵描きの視点が全くないこと。
・表紙がAIアート
・生成のための労力について語る
・対談では小説(チャットGPTなど)において「人間とAIの作品を区別する必要はない」という主張
・海外は規制的だが日本はなんか物に人格を見出す感じで寛容なのでいいねという結論(二つの対談の両方がこの結論)
これらをいきなり批判したいと自分が思うわけではありませんが。時期的にまだ法規制の動きもなかったころ。
絵と小説だから、反応がこんなにも違うのだとは思います。
小説は情報量が少なく(データ的な意味で)(人間の脳にとっての情報量は違うかもしれませんが)そのせいかも。
たとえばシンプルな質問(素数を数えてください)などでは、AIと人間の差は全く出ない。小説においても「どうせ見分けがつかなくなるんやから」ということかもしれない。絵ももちろん判別は不可能になります。(これは自分の小説内で言いました)
だから判別可能かどうかで問題点や利点を語るのは意味がなくなる。(AIイラストで指が描けるようになってきたのは有名です)
少し話を戻して、AI生成小説に小説家が親しみすら感じていることは非常に興味深い。これはこの記事のもっとも言いたかったことですが、なぜそうなのかまだそんなに考えていません。
私の仮説は、これも自作小説で書いたことなのですが、言語は生成物より命令側に近いからではないかというものです。
脳のなんか概念みたいなものがふわっとある状態から、外界に命令したいときに言語が生まれて、外界にある言語以外の成果物に影響する。絵は概念と成果物を短絡させますが、言語はその間にある。絵描きにとってその間のやつは別に要らん中抜き業者みたいなやつです。小説の生成は命令を生成しているようなもので、概念となかよくやれる感じがする。絵描きはその中抜きを嫌がるのかもしれない。これは「持続可能な吸血」の中で細胞の中に文字が入ってこないでほしいと言っていたことと重なります。(このへんは勢いで言ってるので適当)
小説は命令文と親和性があるのかもしれない。小説は全体が他人の脳に対するプロンプトみたいなものではないか。
小説家は作品=成果物を作ってるつもりがないのかもしれない。
だからAIと人間の作品を区別する必要がないと言ってるのかもしれない。
(でもChatGPTが小説を描くときネット上に公開してる小説を無断で学習してますよね?しらんけど)
あるいは単に初音ミクとかAIにキャラクター性を見出す寛容ムーブが根付いているだけかもしれませんが。
イーガンは実際に内部の原理として意識があるのかにこだわります。
逆に外側から「意識があるように見える」「かわいい」だけで動く人たちがいます。
「なんか人格があるように見えておもろいなぁ」で遊んでる段階から次に進んだらどうなるのですか。(ここで実は人間もただ刺激に反応する機械だよ説などが出てくる)
小説界隈がもう少しAI作品の問題点に注目するようになるのはいつなのでしょうか。それとも何か原理的に絵と違うから、問題視はずっとしないのでしょうか。
わかりません。
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