第71話 届かぬ叫びと、約束と
◇
翌日。私は冷気によって目を覚ました。外に出てみれば、珈琲を片手に昇る太陽を見上げるネリネを見つけた。
「おはよう。一晩お疲れ様」
「あら、おはよう。珈琲、貴方の分も淹れるわね」
「いただくよ。よく火が準備できたな」
カップの上で珈琲が揺れる。一口運んでみれば、ほろ苦い豆の風味が曖昧な意識を目覚めさせた。
「さっきサラマンダーが起きてきてね。食材調達と料理の代わりに、火を貰ったの」
「珍しいな。彼女は何か言っていたか」
ネリネは珈琲と共に言葉を咀嚼した。終えた後で、彼女は深い溜め息をつく。
「覚悟を持て。涼華を守れ。あの少女にとって、この国はあまりに残酷なものだから……だそうよ」
涼華を守れ。
サラマンダーらしからぬ言葉だと思った。しかし意味は解らなかった。
ふと、ネリネを見る。二人だけはこの国の何たるかを解っているような気がした。
「……そうか。ゆめゆめ忘れぬようにしよう」
冷え切った二日目の朝は、名状し難い不安と共に訪れる。
暫くして、涼華が目を覚ます。簡易的な朝食を摂り終えた後で、王都へ向かって歩き始めた。
モミジと別れてから既に相当な時間が経過していた。ネリネ曰く、龍種であれば一日の放置くらい平気ということだが、戦況に鑑みて楽観は出来ない。
円規と地図を頼りに進めば、すぐに門が見えてくる。氷の門扉は開きそうもないが、門番の姿も見当たらなかった。
「ここにいれば来てくれるか」
「ん。約束の場所だし、モミジなら大丈夫だよ」
静かな時間が続いた。
空模様は落ち着いていて、街の影を除いて邪魔なものは一つもない。女王の臣下が動かぬだけで、世界は清閑たる様相を呈していた。
瑠璃色の空と真っ白な大地を、私はぼうと眺めていた。直後、ふと涼華が呟いた。
「ん、ネリネの言う通りだったね」
呼びかけに反応して後ろを向けば、地平線の向こうに紫の姿があった。横にはレモンダンの姿もあった。
「何のつもりかしら、あの男」
「解らない。ただ、我々の目的は知られただろうな」
此方にやって来るや否や、レモンダンは気まずそうに目を逸らした。
懇願を含んだ彼の視線がモミジに向く。体躯を汚す粉塵を払いながら、当の本人は言葉を返した。
「レモンダンにはぜんぶはなした。彼がいなかったら、あぶなかったから」
「……何があったの?」
不安げに涼華が問いかける。再会を喜べる穏やかな空気は、決して現れそうにもなかった。
レモンダンは長いこと門の向こうを見つめていた。その手は小刻みに震えていた。
彼は何かに憤っている様子だった。
「助けるつもりなんてなかったんすよ! ええ、女王に逆らう気なんてなかったッ」
ならば何故と問いかける。
答えたのはモミジだった。
「敵の二番手に襲われた。私を本気で殺すつもりだったとおもう。もうあいつらは、感づいたのかも」
聞いたとて、違和感は残っていた。
これほどに単調な理由ならば、あの剽軽な男が躊躇うとは考えにくかったからだ。
まだ推論の域を出ないが、寧ろ、その逆なのではないかと私は思う。
しかし誰かが問い詰めるよりも先、涼華がレモンダンの手を取った。
「ありがとう。理由がなんであってもさ、……助けてくれたこと、私は嬉しい」
曇りのない言葉を受けて、レモンダンは痛烈な
直後、ネリネがモミジに寄った。回復魔法で傷を癒しながら、漸く問答をし始める。
「その二番手ってヤツ、貴方でも勝てない訳?」
「まけたんじゃない。数が多かったからきびしかっただけ。だが厄介な魔法だった」
モミジは悔しそうに歯噛みすると、事の顛末——もとい、二番手の情報について語り出した。
「レモン曰く、メルセという。あいつが現れた途端、敵の増減が掴めなくなった。減ったかとおもえばまた増えていて、倒したはずの相手がいた」
ネリネは小さく眉を顰めた。
それは其処に存在するだけで軍勢の価値を何倍にも引き上げる魔法。成程戦争において一騎当千の戦力を誇るだろう。
「先んじて倒すべきは其奴か。放置はできん」
「うん。暗殺できれば、らくだけど」
「情報が要るわね。誰か捕まえて自白させる?」
流石に涼華が止めるだろうと予測して、私は彼女を横目で見る。
しかし、異議を唱えたのはレモンダンの方だった。
「乗り込むのは止めた方がいい。あっちは兎に角層が厚いんです。アンタらだけじゃ絶対に足りない」
「……断言は、出来ないと思うよ」
彼は再び口を閉じた。あまりに重い沈黙は、拒絶と恐怖を示していたに違いない。
だから涼華も、自分の中で逡巡を完結させ、覚悟を決めたようだった。
「決めた、王都に入ろう。モミジ、見た目は誤魔化せるんだったよね」
「うん。絶対にばれない」
「つ、強さに自身があるのはわかります。だけど、絶対にダメなんです。女王は、次元が違うんすよ……」
レモンダンの声は徐々に小さくなっていく。我々は聞く耳を持たなかったし、彼に言うべきこともなかったからだ。
最後に、涼華だけが振り返った。
「それでも、行かなきゃならないんだ。……大丈夫。貴方が覚えているのなら、約束は必ず果たすから」
先に待ち受ける地獄のことなど、私たちの誰も気に留めていなかった、
◇
王都の中には閑静な街が広がっていた。朝だからだろうけれど、人通りも疎だった。
「どうしよっか。情報収集って言っても、酒場だって開いてないだろうし」
「折角王都に入ったんだ。軍の方に行ってみれば、実情くらいはわかるだろう」
メリアの提案で、吹雪に見舞われて遭難したエルフの一行を名乗ることにした。
軍の駐屯地は目立つ場所にあった。女王の家紋が刻まれた塔の下に、数名の兵士が待機していた。
初め、ネリネとモミジが声を掛けに行った。
私たちは二人の訴えを門の外から見ていた。架空の一行を襲った悲劇を聞いた兵士たちは皆、痛切な表情を浮かべていた。すぐにでも取り合ってみようといった旨の言葉が聞こえた。
「順調のようだな。手っ取り早く二番手とやらと戦えそうだ」
「そうだといいんだけど」
私が返事するのと同時、希望は叶わぬものになった。
ネリネとモミジの眼前に、その倍はあろうかという背丈を有した男が現れた。相応しいだけの魔力を持つ彼は、恐らく此処の長官だろうか。
「町の名前は。或いは長の名は?」
「……すこし、きおくが混濁してる。今は答えられない」
モミジが咄嗟に機転を効かせるも、男の答えは刃にあった。白雪を切り裂いて抜かれた剣は、そのまま二人に一太刀を浴びせんと駆け抜ける。
それでも無傷で済んだのは、モミジが咄嗟に
「すまないが、解らぬならば死んでもらおう。女王の反乱分子であっては困る。記憶がないなら余計にな」
男の殺気が空気を支配する。此処までもそうだったのだから、王都となれば上手くいくわけもない——私は踏ん切りをつけて変身を解き、アルビオンの解放を試みる。メリアも同様、その指は既に狙撃の形を取っていた。
しかし、再び刃が振り下ろされようとしても、ネリネとモミジは直立不動を維持していた。
刃は人を試す為のモノに非ず。其処にある明確な殺意を見逃せない筈はない。
だが、二人は読んでいたのだろうか。
刃が命を奪う前、霧が刃を喰らうことを。
「やめないか」
一言で男の剣が止まった。
声を伴うその白煙は、存在するだけであらゆる戦意を奪い去る。同時、あらゆる兵士が跪いた。
「何であれ、同胞殺しは御法度だ。騎士団長なら弁えろ……そこの四人は僕が預かる。いいな」
兵士は皆萎縮していた。男だけが不満げに、渋々頷いた様子だった。
霧の中に男がいるのか、はたまた別の何処かにいるのか。ともかくとして、霧は此方に声を届けた。
「メルセに会えるのは限られた者だけだ、諦めろ。だが王都外れの小屋に来い。女王グラシエ第二の腹心——このロータスが、衣食住は保証する」
全身を駆け巡る衝撃に、私は言葉を詰まらせる。
霧の向こうにいるのもまた、私たちが超えねばならない壁の一つだったのだ。
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