第70話 満天
肌を鋭く冷たいモノが撫でる。それが冷気だと悟った直後、敵の魔法が発動した。
「涼華」
「ん」
私が半歩引き下がると同時、涼華が大きく前に出る。零度の風が空気を凍らせながら迫る中、彼女の両手はごうごうと燃える紅炎を放射した。
属性の有利は此方にあった。氷結は爆風によってかき消され、辺りの温度が僅かに上昇する。
「涼華、炎の用意を。とびきり強いやつを頼むよ」
熱を帯びた霧の中へ飛び込めば、すぐに氷龍と肉薄する。この時、殺意と悪意が対峙した。
私のあらゆる魔法を無効にせんと、氷龍は強烈な突進を仕掛けてくる。
攻撃を限界まで引きつけると、私は軽く右へと逸れた。反撃のための微調整に時間は要らない。差し出した右腕は氷龍の肉体と擦れ、中々に痛々しい音を響かせる。
鱗は容易く服を裂き、皮膚にすら届きうるほどに鋭利なモノだった。しかし腕を魔力で塗り固めれば、比肩しうる強度を出力できる。
その時、右腕が炎を纏った。
「ぐ、あああああッ」
腕が焼き切れんばかりの痛みに襲われる。
斯様な速度で魔力が弾ければ、熱を持つのは道理だが——相手は道具、理解できる筈もない。突然鱗が溶け出したことで、奴は大きくバランスを崩した。
同時、空に一つの影が飛び込んだ。
「その火はあらゆる善を護り、雨にも消えぬ灯火に」
白髪の少女が唱える
「
火炎が空気を駆け抜け、螺旋状に形を成す。そうして氷龍を包み込み、私が点けた炎と結びついた——もはや如何に強くとも死を避けること能わず。
氷龍は断末魔の叫びを上げ、その身を雨とし地に堕ちた。
「……終わったな。急ごう」
「うん。メリア、翼を解いてちょっとこっちに」
涼華は私を抱き寄せて己の翼を折り畳む。すると体勢を変えて急転直下——着地の直前で鱗を地面に叩きつけ、無理やりに受け身を取った。
先んじて涼華が周囲に炎を撒き散らす。視界が一気に晴れると同時、私は犬橇の方へ駆けた。
地上の戦況はネリネが宣言した通りに進んでいた。エルフが連れてきた猟犬は悉く死滅して、戦闘可能なエルフの数も減少の一途を辿っている。橇も変わらず無傷だった。
「戦況はどうだ」
「正直、この程度だって言うのなら拍子抜けね。けれど会話で済ませる気はないみたい……恐らく女王の直轄軍よ」
呟くと同時、ネリネは飛来した矢を槍の先端で弾いてみせる。それから極小の予備動作があったかと思えば、
「追手が来るやもしれん。さっさと片づけてしまうか」
私が小さく呟くと、後退りながら涼華が此方へと戻ってきた。両手を軽く振った後、彼女は深く息をついた。
「出来る限り、殺すのは避けた方がいい。もし本当に女王の軍なんだったら、戦争が一層激化することになる」
「……ああ。戦況がネリネの言う通りなら実現できるだろう」
魔王に与する女王を斃すための戦争なればこそ、他の民まで手にかける必要はない。凍土を乗り越える為の確実な手段は、同時に最も険しい道のりを指し示していた。
突然ネリネが動き出した。彼女は私と涼華に視線を送ると、雪を蹴飛ばしながら前に出る。
「ならば一撃で決めてしまいましょう。橇の周りに魔力を張って頂戴。全部まとめて吹き飛ばす」
返事ができるほどの余裕はなかった。私と涼華は大急ぎで防御陣形を組み、来る大技に備え始める。
「来るよ、メリア!」
涼華が叫ぶ。
武人は高く跳び上がり、大地に槍を叩きつけた。そして再びネリネが得物に触れると、白銀の大地が砕け始めた。槍は一つの柱となって、地に潜む無数の魔力を呼び覚ます。
「全力で防御を取るといいわ。それでも、立っていれば上出来よ」
水の竜巻が眼前で巻き起こった。それは白魔の中にあっても桁違いの存在感を放ち、其処いたあらゆる狩人を魅了した。
ネリネが蹴り落とした槍は、水を纏う竜巻へと姿を変えた。
『
地面に眠る無数の魔力が水となって吹き出し始めた——かと思えば、それは再び魔力へ還る。
突然の還元は周囲に無数の爆発を巻き起こした。
初めに宣言された通り、霧の中に立ち上がる者の姿はなかった。
「ちょっと危なかったね。橇ごと吹き飛ぶところだった」
「うん。火力を抑えていてあの一撃とは、全く恐れ入る」
「一人じゃ発揮しきれないし、普段は使い物にならないわ。二人がいて漸くよ」
相槌を打つのと同時、私は霧の奥へと足を進める。倒れているエルフからコートを一枚拝借した。凍土に生きる者が作った外套は、事寒さを凌ぐ点において最上の質を誇っていた。
「これだけ派手にやったんだし、すぐに追手がやって来るはず。急ごう」
「……ただ、もうじき夜が来る。王都に入るのは明日にすべきだと思うわ」
「モミジはどうする。王都合流の約束だが」
今日中の到着は不可能だろうとネリネは呟いた。私は曖昧に頷いた。
物資と橇の状態を確かめた後で、ひとまず移動を再開した。
◇
結局、王都に向かう前に日が沈み始めたので——私たちは街からある程度離れた所に野営地を設置した。モミジが気づくように特別な目印も立てておいた。
ファルセットが用意してくれていた簡単なテントを組み立てて、中で夕食を摂ることになった。
「ネリネ、それは?」
「魔獣の肉だったと思うわ。これでも食べながら、まずは情報を整理しましょう」
……現状確認できる敵の存在は二つ。
一つは女王グラシエ及び、彼女に付き従うエルフの軍勢。目下最大の脅威と言って差し支えない。
もう一方は、名前も解らない魔王の配下。サラマンダーは何かを知っている様子だったが、到底話してくれそうにはない。
「その配下がグラシエに情報を持ち込んだのか、女王が此方の動向を今も見ているのか。それで話は変わってくるが、配下の方は対処のしようがない。今は考えなくていいだろう」
「正直、今の私たちじゃ、女王一人を相手するので精一杯だと思う。配下まで出てきたら、絶望的だよ」
「同意見ね。あれだけの人間が揃って同じ方を向いている世界だなんて……徹底した支配でなくちゃ実現しない。決して油断はできないわ」
「差別の許容も禁止も、それが行き渡るほど制御が難しい。女王を倒す前に、此処に根ざすものを知る必要もあると思う」
私たちが彼らと同じエルフではない以上、国民は殆どが敵となりうる。
或いは、一つだけ——。
「……レモンダンも信用に足る男かは解らない。けれど、何れ訊く時が来るかもしれないわ」
「まずは明日、王都でモミジと合流しよう。彼女がいれば潜伏も楽になる」
それから私たちは、魔獣のステーキとスープを口にした。平常の食事に比べれば質素だが、この凍土では紛うことなきご馳走だ。
思案に耽ってしまったために、以降私は一言も喋らずに食事を終えた。
ふと、外の事が気になった。吹雪はすっかり止んだようで、穏やかな風が吹くのが聞こえる。
「深夜は私が見張りを務めるわ。だから少し、眠らせてもらうわね」
ネリネはそう告げるや否や、毛布にくるまって横になった。私はのつそつと立ち上がり、メリアに視線を送ってテントの外へ出た。
満天の星が、世界の全てを照らしていた。
建物も視界には殆ど映らない。水平計二百度の視野角の中には、白銀の美貌にも劣らない星の数々が瞬いていた。
ふと、物思いに耽る。
此処を満たす幾千もの輝きは、果たして私の世界と同じものなのだろうか。
其処にあるのはカシオペヤか、或いは名もなき妖星か。一体何がこの冷たい大地に眠っているのか。
静かに空を見上げていた。
何も起こらぬ平和な夜の筈なのに、私は不思議と身震いした。
テントからメリアが現れたのは、それから暫くが経過した後のことだった。
「ん、白湯くらいはある。勝手に飲んでくれ」
「わかった。適当なとこでまた交代ね」
私はメリアに一瞥をくれて、仮初の拠点へと帰還した。彼女が星を見た時の顔は結局知らぬままだった。
果たして彼女は、この空に何を思うのだろうか。
——雪の満天に愛しさを抱くのは、思えばこの日が最後だったかもしれない。
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