第66話 忘却の凍土


 ◇


 一歩踏み出す度に、肉体が異様な凍えを訴える。

 第一の砂漠を乗り越え、第二の盆地を踏破して。

 次にたちを待ち受けていたのは、国中を覆い尽くす無限の吹雪だった。


 かの騎士に別れを告げてから三日ほど、地図と円規だけを頼りに氷の国を目指して進んだ。

 本命の土地に入るまでは少し冷え込むくらいで、草原が続いているばかりだった。安全性を重視した宿泊地選びが妥協せずに行えるくらいには整った環境であった。

 しかしある一点を境に、氷の脅威は姿を現した。

 視界を駆け抜け、時々目の中に侵入してくる白い礫。地面に寝そべり続けるそれは、気づけば車輪の足を奪うほどにもなっていた。

「涼華、荷物は無事か。硬貨は後で溶かせばいい。先に食糧の氷を溶かしてくれ」

「やってるけど間に合わないかも……っ、これじゃ進んだ距離も、わかんないでしょっ」

「方位はあってる。距離はじゅうぶんじゃないのか、青いの」

「感覚なんて信じちゃ駄目よ、紫の。意外に進んでないんだから」

 そんな会話を耳に挟みながら、持ってくる書物を限定した自分の行動を賞賛する。絶えず吹き続ける湿った礫の最中では、目ぼしい書物のうち数冊を運ぶので手一杯だったのだから。

 昼間のうちでも太陽が閉ざされる雪原の様子は、さながら雨の国を彷彿とさせる。

 幾ら歩いても光が見えてくる気配はない。苛立ちが募り、冬の狂気が人を喰らわんとする頃になって漸く、顕著な変化に行き当たったのだ。

「うっ」

 突然何かに足を取られ、前のめりになって倒れてしまう。ネリネの手に受け止められて体勢を直し、足元に視線を送った。

 それは自然の中にあるには少々硬いものだった。氷が張り付いていなければ、滑らかな肌触りであるような所感がした。

「少し待ってくれ。車輪の邪魔だから退けるよ」

 悴む手に魔力を込めて雪を払い、石を持ち上げようと力を込める。しかし思いの外重量を持ち合わせていたそれは、魔力による強化がなければ持ち上げられそうにない。

「メリア、そのままね」

 涼華の放った炎が私の横を抜け、真っ白な雪を焼き払う。露わになった石の正体は、他ならぬ像であった。

「……随分、非道いことをする」

 モミジの呟きを小耳に挟みながら石像の人物を確かめる。石像は体の三割が失われていて、塗装もまだらに剥げていた。

 だがそれでも、像の人物が何者であるかは察せられた。

「大英雄グロワール。英雄像がこれほどまでに汚されているものか」

「戦闘機能を有する都市なら普通、彼かサジェス・リーヴルくらいは祀るわ。異様なものね」

「ちょっと前、メリアから聞いたっけ。神の時代と決別した人だって」

「そう。彼は現存する文献が少ないから、アストロという苗字の正確性は図りかねるがな」

 有する情報の一部を誰にでもなく呟き終えたところで、誰の注目も浴びぬ物寂しき像を道の端に移動させる。次にこの英雄像を掘り当てる者は、恐らくいないのだろう。


 英雄の像に時間を喰われつつも、私たちは確かに進んだ。像が彼処に見えた以上、街は近づいているに違いない。だが目的地へ辿り着く直前で事件は起こった。

 発端は、ネリネが突然矢を構えたこと。加えてあまりに敵意のない視線が、私たちを取り囲んでいる。

「……リザードマンじゃなさそうね。それに奴ら、狙いは荷物の方じゃないかしら」

「涼華とモミジは食糧の管理に徹してくれ。私とネリネで対処しよう」

 ネリネと視線を合わせつつ、足音を立てずに荷台から離れる。

 狂気の獣が恐ろしい速度で迫ってきたのは、まさにこの時だった。何か異様な感覚を覚えると同時、巨大な角が眼前に現れた。普通の地では見かけぬ獣の巨躯は、一突きで人間を仕留めるに至るもの。

「失せろ!」

 頭上の獣を雷で吹き飛ばし、二頭目を雷の網で捕まえる。死角から駆けてくる別のそれに握鎚ハンド・アックスを叩き込んだところで、先のそれは網から逃れてしまう。しかし其奴は食糧を喰らうこともできず、腹部に突き刺さった槍によって絶命した。

「頭数が多い上に無茶苦茶な図体だ。モミジ、車輪を動かせるか」

「とてもリスキー、だけど。いける?」

 言葉の代わりに頷いてみせれば、彼女もそれで口を閉じる。巨大な車輪が大きく動き始めると、伴って獣の動きにも磨きがかかり始めた。

 うぉろろ、と奇妙な唸り声を上げて魔獣が私に飛びかかる。角を切り落としてから顔面を蹴り抜いても、分厚い皮膚で覆われた此奴を仕留めるには至らない。

「全く、ふざけていると思わないか……ッ。リザードマンに殴られる方が軽いなんて」

「根本が人間寄りなだけ易しいのよ。でもこっちは飢え切った獣。真面に対処なんてしてられないわ」

 ネリネの周囲には串刺しにされた無数の死体が出来上がっていた。彼女が見せた容赦のない素振りを見せた為に、私も情けの類を捨てることにした。

稲妻の波エクレール・ヴァーグ。無垢な獣まで殺すというのは気が引けるが、此方にも人生がある。解ってくれ」

 荷台目掛けて跳ねる獣には雷を落とし、地面を奔走する方は高密度の魔力を以て感電死させる。無数の甲高い声が上がると同時、雪面を削って畜生は次々に倒れていく。

 その頃にはもう、街との距離も残り僅かだったろうか。守護の腕前を豪語するだけあってネリネが仕損じることはない。ただ、今回は私の方が判断を誤ってしまった。

「すまない、一匹逃した!」

 多数の犠牲を払って漸く食糧に辿り着きかけたのだ。獣が喜びの色を含ませて吠えるのは、勝利を高らかに叫ぶのと何一つ変わりのない行為だった。

 しかし私にすら予想できない事象を、動物ごときが予測できる筈もない。

 瞬間、獣を獣が喰らっていた。我々を襲ったのとは別の種類だった。先の種類に較べれば小柄だが、四肢を纏う筋肉は人間における戦士と見て相違ない。

 突き立てられた二本の牙は、魔獣の命を一撃で絶っていた。

「ほら、餌の時間だぞぅ。あっしの分は残してくれよお」

 同時、どこからともなく男の声が響き始める。間伸びした語気でありながら、獰猛な戦士たちは彼の言葉に従って、獣を悉く喰らい尽くしていく。

 一分と経たぬ間に、飢えた獣は何処にもいなくなっていた。

「うちの猟犬が邪魔しちゃいましたかね。中々食糧にありつけないもんでねぇ、横取りになっちゃったんならすみません」

 飛雪の向こう側から、男の声と共に二頭のが姿を現す。尤も、首輪が繋がっているのは男の手ではなく——此方の車輪に酷似した橇だった。

「寧ろ礼を言いたいくらいだ。此方も荷物が進められなくて困っていたところでな。貴方は此処の」

 私が言葉を詰まらせたことで、涼華とモミジも足を止める。

 漸く我々の前に姿を現したこの男は、印象的な灰色の髪を持っていた。纏わりついた雪の向こう側には、小麦色の肌が見え隠れしている。

「勘違いをしていたのならば謝るが、貴方は、ダークエルフじゃなかろうか」

「そういうお嬢さん達は来客ですかい。此処じゃダークエルフそいつは禁句なんで言わないことをお薦めしますよ。ま、確かにエルフの類ですがね」

 男は呆れたように肩を竦め、我々全員に一瞥をくれる。

「しっかし、見目麗しいお嬢さん方だこと。そこなる白髪のお嬢さんや、一体どちらへ向かわれるんですかい?」

「えと、荷物を片付けられそうな街を探してて」

 何処か遠慮気味に答えた涼華に対して、男は微笑を浮かべた。同時、橇から紅色の菓子を取り出して渡してみせる。

「ソイツが食べられるところでよければ、ここから案内していきますよぉ」

 そう告げるや否や、男は空に向かって唇を吹く。すると食事を終えた猟犬たちは白い煙の中へと一斉に駆け出した。

 男はこれ見よがしにウインクを残し、獣を追いかけるようにして先へと進む。

「あれを頼っていいの? 涼華、貴方何か狙われているわ。変な意味で」

「なにかあったら、ぶっとばす。ちょっと下がっていなさい」

 困ったような笑いを浮かべる涼華に対し、龍種二人は呆れたように溜め息をついた。

 そんな三人の様子を他所に、私は男の背を追いかける。

「ところで、名前を聞いていなかったな。私はメリア・アルストロというが」

 すると特異なエルフの男は、背後を振り返るとともに、口元に笑みを浮かべて呟いた。

「まぁ、お嬢さん達ならいいですかねぇ。あっしはレモンダン。しがない狩人ってヤツです」

 軽く呟いた男の瞳は、宝石のように重々しく、緑色に輝いていた。


 

 大英雄の像が地に沈み、暴風雪の吹き荒れる凍結の国。

 初め、私は侮っていたのだ。この国の頂点に立つ、完全なる女王の事を——。

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