第65話 友は征く


 ◇


 それから、半日が経った。

 傷を壁にぶつけた痛みで目が覚め、布団の上でのつそつと数分を過ごした後に其処から這い出る。

 それから、例の古本屋を訪れた。

「邪魔するぞ。グルナート」

「ったく、今更何だ。律儀に約束を果たしにきた、なんざ言わないだろうな」

「さてな。返すべきものを返しにきただけだよ」

 机の上に包みを広げ、その中身を手渡した。彼は呆れたような様子を見せたが、同時に何処か満足げな表情かおであった。

「礼は言わんぞ。お前さん等は良くも悪くも、世界の未来を変えたんだから」

「解っている。だが一つ、頼まれてくれないか」

 老人はわざとらしく眉を顰めたが、斯様な態度は気にも留めず——踵を返し、去り際に一言だけ残しておいた。

「女王様をよろしく頼む。あれでも結構、抜けているからな」

「二つの世界を壊してなお、図々しい奴だ」

 解っているよと、一点張りの言葉を言い残す。

 そうして重い扉を開き、外に飛び出したその時。

「……胸を張って進めよ、メリア・アルストロ」

 不思議の感が私を襲う。しかし振り返った時にはもう、扉は固く閉ざされていた。


 ◇


 突然、意識だけが目を覚ました。

 精霊の国を囲んで連なる霊峰。昼下がりを過ぎた太陽は、されど街々を慥かに照らす。

 静寂に包まれた自然の中、サラマンダーは土の山と向き合っていた。突き立てられた十字架は端の方が焦げていて、葡萄酒を浴びたことで紫の雫が滴り落ちている。

「全く、腐るほど抱えていようとは思わなんだ。余らせてしまうのは惜しいが、果汁は拝借していくぞ」

 記憶はてんで覚えていなくとも、体は来訪を確りと憶えていた。彼女はもう一瓶の栓を抜き、葡萄の果実を飲み干した。

「……貴様の切望した未来が、今度こそ訪れるやもしれぬ。この景色の先に」

 そよ風が木々を揺らせば、アメジストの欠片が地面を濡らす。十字架の向こうに眠る二人へと、葡萄の匂いは染み込んでいった。届くことのない思いの吐露は、風に攫われて消えていく。

「二層の地獄は確かに終わったのだ。漸く、夢に至る道が見えたのだ」

 じきに訪れようとする夜には、あの豪快な狩人も、あの優しい宝石商も、精霊の影すらも残らない。手元の瓶も気づけば軽くなっていた。

 火の精霊は最後の別れも口にせず、静かに山を下り始めた。



 小一時間ほどが経過した。

 肉体の制御権を取り戻したところで、拠点に足を踏み入れる。積み上がった荷物の上で読書に耽るメリアと、ベットで寝転がるネリネが私を出迎えてくれた。

「ああ、帰ったのか。おかえり」

「ん。ネリネ、怪我は平気?」

「この調子なら明日の朝には大方癒えると思うわ。何にせよ、数日は療養に使うべきね」

「それがいい。あと、ファルセットは倒壊した宮殿に戻ったよ。会いたいならそちらへ行くといい」

 どこか素っ気ない態度を取りつつも、メリアはその意識をネリネに向けている。今日一日は彼女の傍にいるつもりのようだった。

「ありがと。それじゃ、また後で」


 外に出てみれば、藍色の空に橙の松明が灯っている。どこか生暖かい風は、形容し難い不思議な所感を私の内に覚えさせた。

 暫く歩いて街の中心部へ向かってみると、人々は思い出したように市場を開いていた。浮き足立った様子の衆生からは、精霊王の死に当惑していることが窺える。

 群衆の間をすり抜けながら宮殿の方へ向かうと、街の明かりも喧騒も届かない暗がりに、モミジとファルセットの姿があった。

「どうしたの、二人とも。こんなところで」

「此処の王権を譲り受けたのは私なので、民草にそれを伝えねばと思いまして。王が不在の王国など、格好がつきませんから」

「演出のそうだん、というやつ。今に至るまで、何もしらないような民だから。はじめは威厳から」

 その様子を目の当たりにした時、私は突然淋しくなった。あの熱砂で出会い、今まで共に戦い続けてきた騎士。生真面目なのに何処か抜けていて、誰よりも腹の据わっていた少女。彼女が今、一国の王になろうとしている。無限の別れが訪れようとしている。

 心の内に溢れ返る思いと、喉を駆け巡る言葉の全てを押し殺す。私は微かに笑みを浮かべた。

「ならせめてその時は、傍にいさせて。此処にいない皆の分も、見届けなくちゃ」


 段取りを全て決め終えた後のこと。

 ファルセットは瓦礫の頂点に降り立った。空は夜の色へ変貌を遂げ、人々は王政の崩壊を忘れかける。

 私の眼前には紫の龍種がいた。ファルセットは満足そうに彼女の背を借りた。私も倣った。

 空へ昇ったその巨躯は、橙の光が立ち並ぶ無銘の国、その全景を私たちに見せつける。

 ふと、ファルセットが此方を見た。私は両手を擦り合わせ、掌に炎を生み出した。

 

「——聞け、精霊の民よ!」


 太陽の王が声高に叫ぶ。

 遥かな天から大地にかけて、彼女の言葉が響き渡る。突然の出来事に人々が集まるまで、そう時間はかからなかった。

「精霊王が倒れたのは、最早周知の事実でしょう。悪政は決壊し、在るべき姿へ還る時が訪れたのです。思い出しなさい。忘却しきった隣人のことを」

 ファルセットの放った言葉は、楽園の裏にあった地獄を想起させた。降り頻る雨の中、世界の土台に選ばれた隣人の家——その存在は遠かれど、今確かに、彼らの街の中にあった。

「一体どれだけの民草が、あの惨劇より生き延びたのか。それは未だ知り得ぬこと。しかし貴方達は、楽園を騙る地獄の成立に加担していた。己が罪の重さを、思い出しなさい」

 ファルセットは伏し目になり、暫くの間口を閉じた。その僅かな感情の機微が、人々の心に訴えかけた直後——彼女はまた、語気を強めて呟いた。

「故に私が此処にいる。精霊王を討ち取った者の一人として、と共に歩む為に」

 彼女の演説は人々の心を掴むだけの力を持っていた。しかし彼らを変えるには、まだ足りなかった。群衆は空に不安げな視線を送っていた。未来に控える不穏な気配に、絶望するかのように。

 だが、だからこそ。

 最後の一押しを飾るのは、だった。

 

『略奪者か英雄か。さては何方も真理であるか。もしお前たちに保証が必要なのだとすれば、それは我にしか出来ぬ事よな』

 

 体を暖かな炎が包む。体の主導権をサラマンダーに譲った直後、ソラが炎の輝きに満たされた。

『我は火の王を称した者。なればこそ、求るところは察せられるか——王無きお前たちに選択を強いる。それは二つ、隷属か自死』

 残酷な選択だと、私は思う。しかしサラマンダーは心得ていた。

 

『だが其れは決して地獄などではない。此処には砂漠の邪竜を打ち倒し、と共に邪悪を打ち倒した王がいる。未来に地獄などあるものか。実直に立ち上がれ。その一点に於いて、誰よりも強い精霊の民よ』

 

 かつて己が従えた民と、同じ世界に生きた者。

 なればこそ、彼らはきっと立ち上がれるのだと。

 人々は依然として黙っていた。けれど彼らが纏う空気は、純然たる人間のものに戻っていた。

 紫の龍種は雄叫びを上げる。そうして集まった視線に応えるように、ファルセットは腕を掲げた。

 私は確かに、新たな国の始まりを見届けた。



 それから数日、療養のための時間を過ごした。

 ……国を出る時がやって来た。

 必要な荷物を最低限に纏めた後、私たちは街の外縁にいた。踵を返して真っ直ぐ進めば、すぐにあの山々が出迎えてくれることだろう。私とメリアを先頭に、後ろにはネリネとモミジがいる。

「ファルセットはいいのかしら、紫の」

「まずは、おまえたちに恩返し。あの子はつよい。いざとなれば頼れる相手もいるから」

「心強いよ、とっても。次はどこに行くの?」

「順当に進むなら、次は氷の大陸だが——その前に、最後だぞ」

 いち早く予感に気づいたメリアは後方へと視線を向ける。すると橋の向こうから、荷車を引き摺ってファルセットが現れた。肢体を包む鮮やかな紅の衣服が風に靡くと、荷台は私の前で止まった。

「これをどうぞ。車輪は魔力で勝手に動きますから、食糧の管理に使ってください。行商にコートも売らせたので、必要な設備の幾つかは揃っているかと」

「ありがとう、助かるよ。この恩は忘れない」

「いえ、恩だなんて。寧ろ礼を言うのは此方です」

 礼という言葉を告げた時、ファルセットは口を閉じた。そうして徐に私を見た。

 目を合わせた彼女の顔は、いつもと同じ優しいもの——だけれど少し、淋しそうで。

「あ、っと、ファルセット」

 何故だか言葉が出てこない。伝えたいことは山ほどあった。しかし会うか否かすら決めあぐねていたのだから、突然上手くいくわけもない。故に彼女も、特別言葉を贈ることはしなかった。

「涼華。握手をしてくれますか」

 雪のように真っ白な手が差し出される。何も言えぬままその手を握った時、脳裏は哀情の類に満ち溢れた。言葉にしてしまうのは忍びない物寂しさは、私の心を打ちつける。

 やはり、何かを言うことは出来そうにもなかった。

 ファルセットは何処か切なそうに微笑を浮かべ、握手を解いた。同じように、メリアとも握手を交わしていた。

「皆、ご武運を。世界が如何に広かったとしても、私はまた、貴方たちに会いたいと思う。ですから涼華、メリア。友達として言いたいことがある」

 最後の言葉が紡がれる、ほんの一瞬。ファルセットは一度だけ、同い年の少女のように振る舞った。

「——今度は、土産話を持ち寄りましょう。たとえ幾ら年が経ったとしても。これで終わりには、したくないんです」

 目頭が少し熱を帯びた。

 それでも涙を流すには、聳える未来が長すぎた。



 一歩ずつ地面を踏み締めるたびに、友の姿は遠くなっていく。


 精霊の山を龍種の翼が飛び越えた時、ついに一つ目の戦いは幕を閉じた。

 休む間もなく迫る次の戦場は、必ず私を慄かせるに違いない。

 だが、私は風が吹くたびに、友を思い出すことができるのだろう。



 ——第三章『万年凍結焦土』へ続く。

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