第64話 千年の夜明け

 最後の静寂を突き破って、私とファルセットはノームに喰らいつく。

 灼熱の鱗が呪詛のそれと衝突し、他方では太陽の剣とそれが衝突している。均衡は時間の経過と共に崩壊し、此方よりも先にノームの魔法が私を襲う。呪詛を纏った礫が私たちの肉体を叩きつけた。

「っ、この程度……この、程度!」

 無数の岩石に何度も引き剥がされそうになるが、必死の思いで踏ん張り続けた。そうして魔法が止んだ一瞬で、灼熱を纏う黄金の拳をノームの腹に叩き込んだ。

「貴様の首、此処で貰う」

 敵の動きが止まった時、ファルセットが剣を振り下ろす。命中すれば死は必定、故に彼は防御に全力を割かなければならない。

 ノームは両手を頸の後ろに重ね、既の所で刃を止めた。鈍い音が辺りに響いたと思えば、二人の攻防は膠着状態に陥った。彼が反撃の挙動を見せたと同時、サラマンダーが私の肉体を前進させる。勢いよく宙を舞ったこの身体は、邪竜の兜を蹴り抜いた。

「揃いも揃って、鬱陶しい」

 同時、隆起した地面が私を襲う。顎を打ち付けた岩石に目を取られていると、下から三日月型の魔法が襲い来る。鎧が削れて甲高い音が響く中、鎖を駆使して地に舞い戻れば、剣技の応酬に傾れ込む二人の姿が目に入る。

「オォお……!」

 精霊王は言葉にならない唸り声を上げながら、再生したばかりの腕が千切れるのも厭わずにファルセットを攻め立てる。狂気を孕んだ気迫は、彼が正気の範疇から外れた事を如実に示していた。

 飛び跳ねる心臓に急かされたような心持ちがして、私は突進を開始した。そうして接近した私を迎撃するように、無数の杭が生えてくる。それを跳躍して躱すと同時、両の手から火焔を放射した。本来ならばこの一射は、敵を仕留めるには至らぬモノ。しかしモミジの魔力が在る今、これは如何なる鋼鉄も溶かす熱を帯びる。

 呪詛に覆われた邪竜の鱗は、白濁の煙を上げながら溶解を始めた。

「サラマンダー、合わせなさい」

『我に指図するな。戯け』

「さ、せ、るモノかっ」

 ノームは苦悶の声を上げながら、己の周囲に岩石の棘を発生させる。凡ゆる近接技を防がんとするその魔法は、鉄壁の防御と呼ぶに値するものだった。

 だがファルセットの踏み込みは、立てられた棘の全てを瞬きの間に灰燼へと帰させる。

色彩溢れる騎士の舞台セーヌ・トルバドゥール。精霊王よ、貴方の時代は終わるのだ」

 空へ昇る砂を顔に浴びながら、ファルセットは横薙ぎの一閃を振るった。颯が吹き荒れ、黄金の刃がソラを駆ける。

 それでもノームは崩れなかった。己の顔面を犠牲にして、彼は刃を受けてみせたのだ。

「まだ、まだ届かぬぞ軟弱エルフッ」

 火花が散り、ファルセットの剣は流れていく。しかし咄嗟の防御を受けてか、ノームも激しく体勢を崩す。

 その時、私の体は猛る炎に掻き立てられて駆動する。指先に魔力を一点集中、特大の弾丸をお見舞いした。

『貴様の右目、貰ったぞ』

 サラマンダーが不敵に笑う。一撃は右目を中心に、顔の一部を削り取っていた。

 直後、ファルセットが再び踏み込んだ。幾度目かの斬撃が狙うは、ノームの首を落とすこと——がしかし、今度のそれはくうを切った。

『……チッ、今度は空へ逃れるか。時にエルフよ、先の魔法だが』

「常時発動させていたものです。尤も、その必要は消え失せたようですが」

 ファルセットは呟きと共に空を見上げる。失われかけている天蓋の漆黒を取り戻さんと、ノームは崩れかけた肉体の修復も忘れ、切り札の起動を試みていた。

 先ほどメリアに向かって放たれようとしていた、世界を壊し尽くさんとする魔力の掃射。彼の不十分な肉体と不安定な魔力が如何なる威力を及ぼすかは定かでないが、今私たちが何をすべきか、それは明らかなことだった。

「ファルセット、サラマンダー。あれを止めよう」

「ええ、ですが未然に防ぐには遅すぎたようだ。故に、あれを超えるだけの力を以って弾き返す」

『面倒なことを。行くぞ、涼華』

 体は激しく唸りを上げて、精霊を撃ち落とさんと奮起する。これまで放ってきたどんな一撃よりも大きな魔法を、自分が持ち合わせる言霊コードに落とし込んで発射すれば——幾ら強い魔法であっても、跳ね返すことができる。

 止めの一撃を装填するノームと、隣で最後の一撃を狙うファルセット。

 三つの魔力が渦を成して、知らず宮殿は崩壊を始めていた。

『……少し、間に合わないか』

 だが攻撃に乗り出すのは、無情にもノームが先だった。

「喰ラエ」


土の精霊、久遠の建国テール・イストワール・ファブニール


 漆黒の空が紅に染まり、星々は無限の隕石となって絶えず此方に堕ちてくる。

 それでも、攻撃が私たちに到達する、ほんの少し直前で——ファルセットの魔法が発動された。

got、一条の星を見よ《star》」

 王の刃は暴風を纏い、ソラの全てを弾き返さんと奮闘する。風は煉獄のホシを喰らい、時にその侵入を許す。魔力と魔力が衝突する凄まじい熱量に、私は肌が焼けていく感覚を悟った。

 しかし、絶対に止まりはしない。皆が作り上げてくれたこの我武者羅に、恐れなどは要らないのだから。

炎の精霊、火の女エルガー・ガイスト・ヴルカーン!」

 風を後ろから押すように、炎が両手から飛び立っていく。隕石が堕ちるよりも早く、絶対に誰も死なせぬように。

 魔法は徐々に趨勢を強め、ノームの攻撃を砕いていく。

 私か彼女か、誰かが叫んだ。消えていくのはお前一人だ。


 魔力は完全に消失し、辺りに立ち込めた煙が晴れる。

 漆黒の空は未だ残るが、地平線の向こうには僅かな輝きが見えている。世界の黎明はもう近い。

 残りの魔力が尽きることはない。だが短時間で魔法を放ち続け、精霊王からの攻撃を受け続けた肉体は、決して余裕のある状態とは言えなかった。

 

 息を切らして言葉を詰まらせ、眼前の事実に驚愕しなければならないなど——想像しうる最悪の事態とも呼べただろう。

「本当に、危なかった。後、あと一手防御が遅れていれば……あれで終わりだった」

 ノームは、まだ立っていた。その声を恐怖に震わせながらも、ほんの僅かに優位を握っていた。

「此処まで来るといい加減、集中力も落ちてくるだろう」

「ッ、涼華いけない」

 ファルセットの叫び声で異変に気づいた私だったが、それでは少し遅かった。突如として背後から、心臓を狙わんとする邪竜の杭が現れた。体が動くのが少しでも遅かったなら、今頃勝負は決していた。

 背に突き刺さった一撃は鎧を突き破り、激しい痛みを齎した。

「だい、じょうぶ。まだ、戦えるから」

「あぁ、本当に不便だった。殺し合いながら複数個体が維持できれば、おまえたちを恐レルこともなかったのに」

 最後の執念を以てノームは此方に迫り来る。最後の力を振り絞ってファルセットは斬りかかるが、邪竜の打撃を受けてしまえば最も容易く吹き飛ばされてしまう。彼女は痛々しく地面を転がり、少し離れたところで停止した。

『チッ、余計なことをしてくれる』

「お前がソレを言うか、出来損ないの精霊風情」

 必死になって肉体を支える私の防御を、サラマンダーごとノームは崩す。一度集中の途切れた肉体は、途端に痛烈な悲鳴を上げて抵抗を見せ始めていた。

「無駄な抵抗だったな。贄の対象が変わっただけじゃないか」

『抜かせ……、其れに貴様は此処まで追い詰められた。未来を作る、人間に』

 それでも火の精霊は諦めない。死んだものとして、今を生きる人類のために立ち上がっている。

 だから決して、私も退くわけにはいかなかった。


「う、ああぁっ」


 その時。

 戦場に立つ全員の虚を衝いて、雄叫びを上げる者が一人。

 此方に駆ける彼女に向かって、ノームは無数の杭を生成する。地から突き出す岩石の先端は確実にその皮膚を裂き、瞬きの間に彼女を痛ましい姿へと変えていく。其処には、私と彼以上の戦力差がある。にも拘らず、彼女は——メリアは、自分が力尽きることも恐れず、遂にノームの懐に辿り着いた。

 眼前で鮮血が舞う。得物が敵の肉を刺した。

「弓兵でもない癖に、今更何を。ああ、お前が一番愚鈍だったな」

 彼の言葉とは裏腹に、呪詛の鎧は破られていた。

 何故か。それが、矢と呼ぶにはあまりに太い形状だったから。

 それが

 精霊王は気付けなかった。

「……アルクス」

 その一射を代行した少女の肉体はとうに限界を迎えている。故にその詠唱は、殆ど誰の耳にも届かなかった。

 しかし、彼の腹部に浮かび上がった小さな黒点。

 たった一つ、それだけの事実が未来を変える。

 漆黒の空が叩き割れた。

「なっ」

 漆黒のドラゴンが大地からノームを攫う。筋骨隆々としたドラゴンの肉体は彼の抵抗をものともせず、刺々しき邪竜の鱗を圧倒的な咬合力で打ち砕いていく。ドラゴンの上顎を装甲の棘が貫くこともあったが、彼は絶対に口を開かなかった。

「貴様、貴様貴様貴様貴様ァ!」

 黒点だけを目印に、理性なき龍種は邪竜の鎧を砕き続ける。

 その時、輝かしい太陽が姿を顕さんとしていた。もはや紅の星々は消え去り、暁色の空は世界の夜明けを訴えている。

「あと一撃です。涼華、共に決めてくれますか」

 最後の力を振り絞って、太陽の王が立ち上がる。

 眩しい記憶の数々が脳裏を過ぎった。私は、歯を食いしばらなくては耐えられそうもなかった。

「……うん。これで終わりだ」

 出力しきれるだけ全ての魔力を放出して、私とファルセットは決着の一撃を放たんとする。気を抜けば途切れてしまいそうなほど脆弱な接続の中、サラマンダーを呼び起こした。

 両手を炎が埋め尽くす。彼女の剣を暴風が覆い尽くす。

 最後の一撃を前にして、誰かが言葉を発することはない。其処には魔法を落とし込む為の言霊コードも要らない。何をどうすべきかは、全て解っている。

 射出準備が仕上がった時、ノームは龍種の牙から逃れていた。

 最早その肉体に、全てを蹂躙し、地獄を作り上げた王の様相など微塵もない。

「邪魔をっ、邪魔を邪魔を邪魔をォッ! お前たち如きにっ、この俺が」

『否。確かに夜は明けたのだ。精霊の国は、終わるのだ』

 誰にでもなくサラマンダーは呟いた。

 ノームは最後の反撃を試みたが、もう遅い。今度は私たちの方が早かった。

 両の手からは煉獄が、彼女の剣からは烈風が放たれる。

 二つの魔法は確かに精霊王を飲み込んだ。熱が鱗を焼き尽くし、塵となった肉体を風が攫う。

 この手がからになった時、空には誰も残らない。


 精霊王は、消滅した。

 

「……私たちの、勝ちだ」

 私は右手をソラに掲げた。ファルセットもきっと、そうしていた。

 漆黒の天蓋は崩れ去り、地平線の向こうから現れた炎の惑星が燦々と世界を照らし尽くす。

 

 千年の夜が、此処に明けた。

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