第62話 邪竜

 私とファルセットは同時に地を蹴った。

 追い風が激しく吹き荒れる。私は鎖を放ち、力のままに手繰り寄せて精霊王に火焔を放った。直後、煌々と燃える炎に包まれた敵をファルセットが斬りつける。

「よく切れる剣があったものだ……!」

 魔法が消えた後、二人は至近距離で睨み合っていた。精霊王は忌々しげに舌を打ち、土の剣を生成して振り下ろす。

 しかしソレは瞬きの間に折られていた。砂へと還っていく剣に精霊王が動揺を見せると同時、ファルセットが袈裟斬りを決める。一秒にも満たぬ間に三度ほど、同じ攻防が繰り広げられた。アルビオンの鎧は三度斬られていた。

 その時精霊王は撤退を選んだ。これまでの攻防の中で初めてのことだった。

『……精霊をよく知る男が神秘の末に作り出した剣だ。アルビオンであっても、精霊ならば斬れるだろうよ』

 サラマンダーの呟きに首肯して、私は大きく息を吸い込む。決着へと傾く趨勢の中で、後退る精霊王へ突進を開始した。

 敵は静かに腕を振るう。すると地面がひび割れて、私を奈落の底へ誘った。しかし同時に放たれる灼熱の鎖——サラマンダーが体を操って、闇の奥底から私を解放してくれた。

『合わせるがいい、エルフの騎士』

「ええ、言われずとも」

 回転する鎖の遠心力で天の高みに至った私は、勢いのままに下降する。

 同時、ファルセットが敵の真正面から斬りかかる。私よりも遥かに速く辿り着いて、ファルセットは剣を振るった。しかし何度も同じ手が通用することはなく、激しく音を立てながら散っていく火花は、敵が受け方を変えたことを物語っていた。

 ファルセットの剣が弾き返されようという直前、私とサラマンダーが精霊王に到達する。

 私は鎖で彼の首を縛りつけ、魔力で体を宙に留めながら後方へと飛んでいく。敵の体勢が僅かに崩れると同時、ファルセットが防御を押し切って袈裟斬りを落とし込んだ。

 そこで鎖を手繰り寄せれば、肉体の制御を失った精霊王が此方へと引っ張られてくる——ノーガードの背中目掛けて、全霊の魔力を放った。

「吹き飛べ!」

 精霊王は爆炎に包み込まれながら、此方に無数の黒い刃を放ってきた。私は肩と腰に傷を負いつつ、どうにか敵を蹴り落とした。同時、太陽の王が攻撃を仕掛ける。間で数回の攻防が繰り広げられた後、二人はまた得物を重ねて静止した。

「騎士風情が何故この国を壊したがる。貴様らも目にした筈だ。平和を享受する愚鈍な民衆を。永遠に果てぬ夢を見る輝かしき人間を」

 精霊王は問う。彼が作り上げた、理想の世界について。

「……夢は所詮虚構に過ぎない。地獄の上に成り立つ楽園など、虚構も甚だしい」

「ならば不完全な現実を見るか。贄を失えば久遠の平和は二度と来ない。それでも、罪を直視するか」

 全ての覚悟を打ち破らんとして、精霊王は最後の問いを投げかける。

 しかし、たとえ如何なる言葉があろうとも、太陽の王は毅然として言葉を返す。

「蓋し、人は罪と共に生きるべきだ。ふと己を顧みた時、その罪を清算して生きてくべきだ。そして背負い過ぎた罪を裁くのが王の責務だ。たとえ未来に、一つの別離だけが残ろうと——遍く生命が等しく生きる為ならば、私は精霊の国を裁定する」

 ファルセットは又剣を押し切った。又精霊王は後退り、どこか気怠げに膝をつく。

 私は地面に降り立って、ファルセットの隣に立つ。極地へ至った王の瞳は焦げた灰の色をしていた。

 精霊王は埃を払って立ち上がり、私たちを見据えながら口にした。

「覚悟だけでこの領域に辿り着いたお前たちを賞賛し、否定しよう。久遠の平和を維持する為に」

 その時、直感が働いた。

 まだこの男には、何かあると。


 全てを裏付けるように、精霊王から魔力が溢れ出していく。

「命を吸えば世界は続く。アルビオンを地に埋めれば、途絶えることなき楽園が生まれるだろう」

 同時、土の精霊の肉体から波のような汚濁が溢れ出した。水の精霊が持ち合わせていたモノと同様の呪詛はアルビオンの鎧に食らいつき、彼の装甲を只管に溶かしていく。

 私が伊桜の顔を見たのは、この時が最後だった。

「——fevnirファヴニール

 アルビオンは呪詛によって溶かし尽くされ、黒い装甲は濃い紫に変色する。

 新たなる王に喝采を浴びせるように、空は暗黒に姿を変えた。そうして残った紅の星々が、対峙する私たちを睨みつける。

 禍々しき姿となって、精霊王は人の器を捨てた。其処で、ドラゴンが人の形をしていた。

「貴様、まだ力を隠していたのか」

「あの精霊が見せたのと同じ姿サ……。だからこの姿は気がれそうになる。キミ達が呪詛裁定を成し遂げた為、余計にね」

 次の瞬間、邪竜が動く。

 魔力が通り抜けた事だけが解った。肩に置かれた硬い手の感覚が、敵の移動速度を物語る。

「此方も長くは使いたくない。さっさと死んでもらおう」

「くっ!?」

 体が前方へ吹き飛んだ。制御を失った肉体は重力に従うしかなくて、立ち上がれたのは何度か地面に叩きつけられ、転がった後のことだった。

 直後、鈍痛が私を襲う。邪竜を纏った精霊の砲丸が腹部に直撃していた。

 体勢が大きく崩れたことで、火の女イグニス・フェーミナの維持に失敗する。無防備な肉体に止めの一撃が叩き込まれようとするその直前、ファルセットが精霊王の攻撃を受け止めた。

「足掻くものだ。キミのその姿とて、限界も近いだろうに」

「勘違いも甚だしいな。貴様が此処に在る限り、私が倒れることなどあるものか……!」

「精神だけは一丁前だが……、未来からの借り物などで、を仕留められるとは思わないことだ」

 先ほどまでの状況であれば、二人の力量は確かに均衡を保っていた。ファルセットは、確かに精霊王に食らいつき、同じだけの力量を以て得物をぶつけ合っていた。

 しかし、邪竜は彼女を凌駕してしまった。呪詛を纏った装甲は精霊殺しの剣すら弾き、その腕は攻撃を押し返してしまう。

「ファルセットに、手を出すな……ッ」

 軋む体を必死に動かし、再びサラマンダーを呼び起こす。今出しうる全速力で邪竜ノームに向かって駆けていく私だったが、満身創痍の肉体で万全の敵を捉えられるほど甘くはない。

 眼前で闇が弾けた。

 私に向かって呪詛が放たれる。それは勢いだけでファルセットを吹き飛ばし、この肉体を瞬きの間に飲み込んだ。

「ぐ、うッ」

 両国の呪詛は祓い切ったはずなのに、それは単体で全てを凌いでくる。私の脳内を遍く満たすのは、絶えず吹き荒れる悲鳴の嵐と、人々の嘆きを愉しむ男の声。

 何度も意識を奪われそうになる中で、絶えず踏み留まり続けることができたのは、サラマンダーがいたお陰だった。

 私は膝をついて深く息を吐く。その場で耐え続けていると、じきに呪詛は姿を消した。

 だが一分にも満たない隙が、戦況を最悪の展開に進めてしまう。

「アア、おかえり。生憎、もう終わったよ」

 邪竜が此方を振り返る。

 静かな世界に落下音が響き渡った。即ち、それが示す事実はただ一つ。

「こんな、ことが」

 全盛期の力を宿したファルセットが、邪竜に傷一つ付けられずに、敗れ去った。

 この男の在る領域は、あまりに桁違いのものだった。

「届かないと言っただろう。何故もっと早く気づけないんだ、風晴くん」

『……憐れむのは貴様の自由だがな。人を心の底から見下し、早合点する癖が治らぬようでは、貴様とて高が知れている』

 肉体に焼け付くような痛みが走る。無理に魔力を作り上げた反動は重く、一人が肩代わりするのは難しい。今にも千切れそうな指先を忌むべき敵の顔へと向けて、私たちは呟いた。

 

「まだ、終わっちゃいない」

 

 瞬間。

 紺碧の真槍が眼前を駆け抜ける。秒速で投擲された其れには一切の予備動作がなく、邪竜の虚を衝くには十分すぎる火力と速度だった。

 直後、槍を追うように二つの光が戦場へと舞い戻る。

 緑の雷電を宿すメリアと、眩い光を纏ったモミジが、万全の状態で私の眼前に立っていた。

 少し遅れて、ネリネが前衛に参戦した。

「一度下がりなさい。最後の策、こいつが持っているみたいよ」

「涼華、わたしと一緒にこっちへ。その間に、メリアと青いのにはぼうえいを」

「……さっき迄とは比べ物にならない。それでも」

「涼華」

 私の言葉を遮ってネリネが声を張る。両の手に握られた紺碧の真槍は、何にも劣らぬ輝きを放っていた。

「守ることなら、私は誰にだって劣らないわ。だから信じて、己の責務を果たしなさい」

 同時、メリアは懐から分厚い本を取り出した。それは酷く古びていながら、尽きることのない力強さを感じさせる魔道具だった。その時、私の胸中には懐かしい感触が蘇っていた。

「ネリネの言う通りだ。此方にはまだ、幾つか切り札が残っている」

 その表情かおに一切の嘘はない。裏切られることはないと、そう解っていたから——私は二人に希望を託すことができたのだ。

「分かった。必ず、戻るから」

 二人は首肯し、邪竜に視線を向ける。

 私たちが駆け出した時、戦いは再び幕を開けた。

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