第八節 精霊王
第61話 アルビオン
笑い声はけたたましく響き渡り、紅の空を、精霊の国を震わせる。
何がそんなに可笑しいのかと、問う必要は其処にない。精霊王は口角を上げたまま、自身の勝利を疑わない様子で呟いた。
「最初から、キミのそれが欲しかった。……不平等だとは思わないかね」
言葉が切られると同時、口調が先の悍ましきモノに戻る。
精霊王は土の剣を膝で折り、嫉妬と憎悪に顔を歪ませながら呟いた。
「同じ黒龍に喰われた身だというのに、アルビオンの九割以上はキミが有しているなどと。だが奇跡を讃えるべきか、ソレは十割揃って漸く完成するモノ。伊桜は一度リザードマンの手で殺されている。それでも今此処に在るのは、その一割未満があったからだ。尤も、キミほどの価値はないがネ」
「相手にするな、涼華。しっとなんて、あまりにくだらない」
モミジが私を庇うようにして前に出る。
今度の精霊王は、私以外の顔も見ていた。だが、彼があらゆる存在に対して送る視線は、全て厭悪から成る奇妙で歪みきった感情の発露に過ぎなかった。
瞬間、総毛立つ感覚が私を身震いさせる。
全身が余すことなく放つ危険信号。私たちの間にあった圧倒的な力の差は、また広げられることになる。
「完璧な国が欲しい。支配者としての力が欲しい。まずは一つ目だ。風晴クンの肉を喰らおう。故にこそ、前菜諸君にはご退場いただきたいネ」
精霊王が右手を天に翳せば、紅の空から一条の呪詛が堕ちてくる。
『——
水の精霊が抱えていたものの十倍はあろうかと思われる量の呪詛。それが精霊王を飲み込むと同時、私と同系統の魔力が宮殿を激しく震わせた。
呪詛が飛散し、痺れるほどの魔力が辺りを駆け巡る。
嵐の中心に立つ男は真っ黒な装甲に身を包んでいた。それは
直後、メリアが雄叫びを上げながら精霊王に突進する。雷を纏う蹴りは落雷の体現——しかし、同じ力を持つ者だから理解してしまう。あの一撃では、足りないと。
「それで?」
精霊王はメリアの脚を掴み、高速で地面に叩きつける。頭が割れるような衝撃を受け、彼女は苦悶の声を上げた。
「わたしに当ててもかまわない。とにかく攻撃を」
蹴り飛ばされて地面を転がるメリアと入れ替わり、モミジが精霊王の喉元に喰らいつく。放たれた黒き刃を紙一重で躱すと同時、彼女は後方に跳躍する。そのまま、空中で最大級の一撃が炸裂した。
同時、私は溜めた魔力を爆発させた。
「……おどろいた。これでも届かないか」
また紅が舞い上がる。モミジが放った光魔法は確かに強力な一撃だった——にも拘らず、精霊王のカウンターを止めるには至らない。精霊王の腕についた呪詛と鱗が、彼女の脚を深く傷つけていたのだ。
「しかし、
『
彼の周りに出来上がった岩石は汚泥によって黒く染まり、呪詛の発現としてモミジを襲った。私は一歩踏み出してアルビオンの一撃を放つが、それすらも精霊王は先の
「くっ……!」
右腕の砲台では間に合わないと踏んだ私は、左の腕を眼前に構える。そうして仕上がった鱗の盾で巨塊を受け止めた時、空を一筋の雷が駆けた。
メリアはモミジを押し退けて精霊王に蹴りを入れる。鳩尾に一撃を受けて体勢を崩した敵に対し、メリアは再び蹴りを叩き込んだ。
「ファルセットの復帰まで僅かだ、合わせてくれ!」
負傷したモミジが後衛に下がるのと同時、私とメリアが距離を詰める。
先行して精霊王の眼前に迫り、
「キミは後ろで指を咥えていたまえよ」
零度の視線が熱を帯びた傷に突き刺さる。
しかしその時、精霊王の視線は空に移った。私は半歩引き下がって、同じように空を見上げる。後衛、或いは援護に回るべきモミジが、次なる魔法を誰よりも速く展開していた。
「受けるがいい、愚かな精霊。
魔法陣が無数の隕石を叩き落とす。精霊王は不敵な笑みを浮かべながら落石を躱し、流れるように呪詛の砲丸を投げつけた。モミジがそれを回避するのと、精霊王が制空権に至るのは同時のことだった。
「チッ!」
何度目か、また陣形が壊されかける。
負傷による肉体の痛みか、モミジは空中で動きを止める。対する敵の両手には、命を奪うための刃が二つ握られていた。
間に合わない。予感を確かなものにするように、かの王は卑しく笑った。
「まずは一人目。先に地獄へ行くといい」
「
しかし。
精霊王の凶刃がモミジを切り裂くよりも速く、緑の閃光が空を裂いた。刹那的な光の疾走に遅れてやってきたのは、国中に響かんとする落雷の音だった。
そして、黒い腕の片方が地面に落ちる。辺りになお響く音は、一撃の重さを物語っていた。
「——
メリアが、苦しげに笑っている。
故に私は、全身全霊の力を以て跳躍した。本来ならば致命に値しないその魔法は、精霊王が空にいたことで絶大なる効力を発揮した。
ならば、彼が地面から己の肉体を取り込むより、私が追撃を放つ方が遥かに速い。
叫びながら、アルビオンの両手を解く。そうしてまた唱えるのは、サラマンダーとの同調魔法。灼熱が肉体を包み込み、赤い鎧が肉体を纏う。かつてない優勢に肉体が激るのを自覚しつつ、私は
『
怒りと共に放った魔法は山のような炎を生み出し、黒い男をいとも容易く包み込む。
無理やり空へと押し上げられた精霊王を二度と地面には返すまいと、私は空中で踏みとどまりながら、魔力を炎に変換し続ける。紅に染まる視界の中で、私は限界も恐れず只管に攻撃を続けた。
「モミジ、今のうちに後衛へ下がれ。治療のタイミングを見誤るな」
「まだ、たたかえる。わかるだろう。……あの子が戻るまでが正念場だ」
二人の会話が聞こえた直後、炎の出力が限界を迎える。ガス欠に達したかのように魔力は途切れ、煙の奥からは余裕を崩した精霊王が現れる。
彼は私の片腕を掴むと、狂気の内に怒気を込めて低く呟いた。
「イケナイ子だ、手足はいらないだろう。最初から捥いであげればよかったネ」
直後、腕に激しい痛みが走る。字義通りに四肢を千切らんとするその力技は、されどメリアとモミジによって止められた。二人は私の頭を綺麗に飛び超え、精霊王の後頭部を狙って魔力の乗った脚をぶつけた。
眼前で光が弾け、私は後方に軽く飛ばされる。一方の敵は地面へと堕ちていき、焼け爛れた肉体と半端な鱗を硬い地面に擦り付けた。
傷だらけになった肉体を引き摺りながら、精霊王は体を震わせて立ち上がった。
その顔に先ほどまでの余裕はない。だが、未だに尽きる気配を見せない莫大な魔力は、戦いの終わりが遠いことを私たちに報せていた。
メリアとモミジが先行し、私が遅れて地に降りる。
私は右腕に鱗を作り出し、止めの一撃を放つ用意をした。それに合わせ、メリアとモミジも大技を放つ準備に入る。
勝利への兆しは、確かに私たちの眼前まで迫っていたことだろう。
しかし精霊王の口元に笑みが戻ってきた時、全てが虚構であるということを思い知らされた。
「っ、二人とも逃げて——!」
その違和感に誰よりも早く気づいた私は、前のめりに空へと逃げる。直後、宮殿の崩壊を錯覚させるような地響きが辺りに轟いた。
私の横で二度、地面が割れた。片方を見れば地割れの正体は簡単に察することができる。それは宝石商を殺めたのと同じかつ、それ以上の大きさを持った土の杭だった。私の背後にそれは無い。
ふと視線を向けてみれば、この男は下劣な笑みを浮かべていた。
「あああぁ、いい表情だ。これで震えていてくれるカナ、キミは傷つけたくないんだ」
彼の言葉の背景に、二人が上げる苦悶の呻き声が紛れている。
許すことなど出来る訳もない。それでも、打ち破れるだけの魔力は無い。此方を見上げて笑う精霊王に対して、唇を噛み締めるのが関の山だった。
だが、一つだけ。
私たちに失態があったとするのなら、敵の底力を細かく計算せずに見誤ったこと。
なら、敵はどうか。
「皮肉なものですね。サラマンダーよ」
静かな魔力の一閃が、精霊を斬る。
「貴方が一番、よく解っていた」
——そしてこの男も、此方の底力を見誤っていた。
精霊王の肉体を風の刃が袈裟に斬り裂く。その攻撃には一切の気配がなく、故に私すら反応できなかった。
剣士の中心には魔力の渦が出来上がっている。私は徐々に高度を下げて、その背後に降り立った。
「……驚いた。全然違うじゃないか、ソレ」
千切られた肉体を宮殿の床で繋ぎ合わせると、男は額から一筋の汗を垂らして呟いた。
精霊の王を名乗る男の前には、熱砂の騎士だった者がいた。
騎士は、灼熱を宿す宝石のような輝きを誇る長い髪を持っていた。
彼女が纏う衣は、漆黒と黄金によって彩られていた。
「貴様の野望など興味もないが、それに囚われて我々を侮るようでは気づけまい」
「——その、姿は?」
また光が燃えている。暴風の中心に在る彼女は、もはや熱砂の騎士ではない。
太陽の王。
ファルセットは、至るべき極地へと辿り着いたに違いなかった。故にその正体を、私は悟った。
「これは追憶の剣故に成立した一時の奇跡。そして、——私が在るべき、最後の姿」
王の背丈は普段よりも伸びている。
死した宝石商の神秘に、己が払った神秘の合算。それが此処に、究極に至ったファルセットを生み出した。
「一体、何を払ったの」
「昔から、時間だけは持て余していましたから。百年程で、いつか至るはずの未来が見られると言うのなら、あまりに安い」
「……気味の悪い一族ダ。寿命を削ってまで勝ちたいか」
「貴様はそれが出来ぬから、残りの寿命を全て無駄にする」
太陽の王は剣を構え、精霊王を睨みつける。私は王に並び立って、軋む肉体に最後の魔力を巡らせた。
すると彼女は一度だけ、見慣れた面影の残る柔和な笑みを浮かべた。
かつて精霊がそうしたように、エルフは堂々と名乗りを上げた。
「我が名はファルセット・ジャルベール。この国の王権は、私が貰う」
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