第58話 死を超え、騎士は


 ◆

 

 雨の国での出来事を思い出す。それは、私がグルナさんの過去を知った時のこと。私の体を借りて現れたサラマンダーと、グルナさんが繰り広げた会話だった。

「——老いたのは見かけだけか。その卓越した観察眼、特異な魔法も衰えぬとはな。……二十年の歳月が経とうと、各人には変わらずに持ち続けるものがある。貴様の場合、それが丹念な仕事ぶりだったらしい」

 サラマンダーの言葉を一身に浴びたグルナさんが見せたのは、笑顔だった。其処には様々な感情を見て取ることができたが、就中、満足の意は彼の心に強く感じられた。

 たとえ私の体が王のものでないとしても、節々に感じられる息遣いや視線のやり方が、まさにに他ならないからだろう。

「王よ。貴方は、もう戻らぬのですか」

 全てを奪われた国の老人は、決して自分のことではなく、彼には遠き未来のことを思って、確かに問うた。

 私の口はひとりでに動く。

「我は世界の礎になった身ゆえ、所詮は影法師よ。未来を築くのは今を生きる人間の責務だ」

 彼女の心には諦念もあるに違いなかった。故にこそ、彼女は王たりうる精霊だったのだろうと思った。

 元より説得のつもりもなかったのか、グルナさんは目を瞑り、サラマンダーの前に跪いた。

「ですが、どうか死することのなきように。太陽は貴方の為に在るのですから」

「——ふ。それこそ、どうかな。お前がこの先も義務を果たして生き続けるのであれば、或いは」

 サラマンダーから発せられる台詞を悟っていたのか、老人は毫も驚かずに頷いた。彼女はそれで満足したらしく、私に意識を返還した。心臓がとくんと跳ねる衝撃と共に、私の景色に五感が戻ってくる。グルナさんは暫く跪いたままだったが、橙の魔力が完全に奥まで戻ったのを感じたところで、腰を押さえながら立ち上がった。

「ありがとう、火炎の君よ。君でなければこの結末は迎えられなかった。……ところで一つ、約束してくれるかな」

 何ですか、と言葉を返す。

 思えばこの時の私は、如何なる困難も努力と根性で乗り越えられるものだと取り違えていたのだろう。

「この国を、この世界を頼む。土を除く全ての精霊が死した以上、今の世界を裁く権利は人間にあるのだから」

 グルナは私の手を握って訴えた。

 穏やかな老人の奥にある、為政者としての側面が微かに露呈した。

 私は深く頷いて、皺だらけの手を緩やかに解く。そうして踵を返した時、彼は願うように呟いた。

「……どうか、穏やかな結末を」

 それは戦いの結末だけでなく、遥か先の未来さえも視ているように思われた。


 ◇


 祈りと願いを一身に受けた。だと、いうのに。

 後頭部を打たれたような、強い衝撃が私を襲った。

「そん、な。……そんな」

 鼻をつく狂気的な異臭。硝子や棚に張り付いた血痕とは対照的に、店の主が作り続けた装飾品の数々は、今なお濁ることなく、差し込む光を受けて美しく輝いている。

 店の中心に、床を突き破って土の柱が伸びていた。鋭き杭の先端は、加えて人を、その中身を貫いている。時間が経過した為か、土の精霊が手を加えた為か。紅蓮の内蔵だけが先端に残って、持ち主の骸はだらりと杭に食い込んでいる。

 雨の国の残滓が、私の心を強く締め付けた。

「う、あ、あぁぁぁぁぁ」

 ファルセットが言葉にならない叫びを上げ、震えながら膝をつく。

 其処には、人の死があった。

 壊れそうになる理性を必死に制御して彼の亡骸を通り過ぎる。犯人はもう解りきっていて、私に弔ってあげられる技術はない。そして、友達が動けそうにもないのなら——私が気を保つしかない。選んだのは、これ以上の自分全てを押し殺してしまうことだった。

 重たい体を引き摺るようにして、残された彼の工房へと向かう。土の精霊が見せしめに彼を殺したとして、この関係性を知る以上、剣が無事に残っているとは思えなかった。それでも一縷の望みに懸けて、私は扉を開いた。

「……剣は」

 武具の類は見当たらない。机の上に広がっていたのは、剣を造るのに使用したと思わしき魔道具のみ。

 しかし私の魂は、剣の隠しどころを探し当てた。とくりと跳ねる心臓が私の腕を操ったかと思えば、手には目的の剣が握られていた。サラマンダーだけに解るような仕掛けを施して、グルナさんは土の精霊を欺いたのだ。

 二人にしか成せない思いの託し方に違いなかった。

 今なお浮遊感に苛まれる肉体を引きずって、どうにかファルセットのもとへと戻る。一滴の涙こそ落とさないものの、激しく震える彼女の肩と、強く握られて惨い朱の色に染まった拳が、その心持を強く物語っていた。

 嘆きたい気持ちを必死に抑え、自分をどうにか言い聞かせる。そして、ファルセットの前に剣を突き立てた。

 剣には、鞘がない。

 それでも、雨の残り香漂う木材の上に成立した黄金の剣は、御斎話に登場する聖剣と比べても遜色ない輝きを誇っていた。直感的に、シャムロックの魔法と近しいものを感じた。ゆえにこそ、この剣には鞘が無いのだと推定した。

 黄金の輝きに当てられて、ファルセットは緩やかに顔を上げる。私は柄から手を離した。

「この世界に来た以上、もう止まることは出来ない。——私にはまだ、命を懸けて紡ぐほどの想いが解らない。だけど無駄にしちゃならないことは解る。だから、無力感も心の痛みも、……全部抱え込んで行かなくちゃ」

 私は一歩、死の方へ引き下がった。

 生の光を一身に浴びて、ファルセットは立ち上がる。堅い決意のもとに死の方へと一歩進み、ついに剣を手に取った。

 床から剣を引き抜いて、騎士は告げる。

「……非礼を詫びさせてください。貴方も、私のように悲しむものだと思っていた。ですが貴方は、私が思うより何倍も強い人だった」

 黄金の輝きが私すらも照らす。もはや声は要らなかった。

 あらゆる言葉の代わりとして、私は深く頷いた。

「ありがとう、涼華。神秘の宿るこの剣ならば、私は一つ高みへ至れる。これは、貴方がいなくては辿り着けなかった極地だ」

 魔力が静かに収束し、彼女の肉体へ帰っていく。剣が自身のものになった時、ファルセットの纏う雰囲気は大人びて、兄を思わせる面影を宿した。

 奇跡を目の当たりにしたからだろうか。私は我武者羅に、どうにかその死を乗り越えられたような気がするのだ。

「……行こう。もう少しすれば、きっと誰かが気づいてくれる」

 私はファルセットを横切って店の出入り口へと向かう。一度だけ、彼女の方を振り返った。

 もう二度と此処には戻らない。二度と、彼と相対することは無い。

 だからこそ、此処に残った彼の罪は、私が清算するべきなのだ。

 ファルセットが深く頷いたのを見て、漸く踵を返すことに成功する。唇は湿って、鉄のにおいがした。


 ◇


 涼華たちがグルナ氏の店へ向かっている間のこと。

 とネリネは、モミジを相手に模擬戦闘を実施していた。その仔細に関して、語るべき点は無いので割愛することとする。

 一度目の模擬戦を終えた後。拠点の貯蔵庫に蓄えられていた水を両手に抱え、モミジが拠点の庭に戻ってきた。

「ありがとう。しかし、結構な量を持ってきたな」

「こんごを考えるなら、取りに行くより、らくでしょ」

 モミジは水で満たされた樽を幾つか置いて、そのうちの一つを開けた。

「一斉に仕掛けるだけが戦いじゃないってことね。前線で戦う相手を入れ替えて挑むとか」

 ネリネがカップに水を汲み、手渡してくれる。それを一口味わった後で私は答えた。

「成程、いい考えだと思う。それならファルセットを納得させることも出来そうだ」

「なら、青いのはずっと後ろがいい。おまえの回復魔法がないと、倒す前に力尽く」

 ネリネは少々不服そうに頷いた。それでいて仕事を完璧に熟すのが彼女だと解っているから、心配も無用だが。

「詳しくは全員の揃っている時に決めよう。幸い、全員が前に出られる実力を有しているしな」

 モミジが憂色を濃くして同意を口にする。その表情に彼女らしくない不安の芽が萌しているような気がしたので、私は其処を突いてみることにした。

「……何か不安でも?」

 モミジは言い渋ることもなく、すんなりと口を開いた。

「ふたりのこと。とくに、ファルセット。あの子にとって土の精霊は、たとえころしても満たされない相手。——復讐は永遠に終わらない。その痛みは壊れそうなほど識っている。だから、どんな結末にいたっても、救われないんじゃないかって」

 どんな結末に至っても救われない。それが、一人の死では償えない喪失に対する復讐であるがために。

 酷く達観しているように思われたモミジだが、同時にあったのは、ファルセットの痛みを知っているという意味深長な言葉。だがその意味を問いただすよりも早く、彼女は続ける。

「メリアがいない時に、聞いた。あの子にとって、これが最後の戦いだと。……わたしは涼華の味方だけど、それでも」

 モミジの手は震えていた。その顔は、言うべきでないことを言わねばならぬ煩悶と、言わねばならないことを言う時の決意が入り混じっていた。

 

「わたしにとって一番大事なのは、ほかの誰でもなくって。——あの子ファルセットを失うことは、わたしにとって、死ぬのとおなじことなんだ」

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