第53話B 黎明
◇
月は地平線の向こうに沈んでいく。
気絶したままのファルセットに一通りの治療を施し、遠くの空き家から適当な毛布数枚を拝借して寝かせてやった後のこと。
体に色濃く残る疲労に耐えながら、私は荒れ果てた大地の上で、無心に空を見上げていた。
隣には、涼華がいる。彼女の視線は空ではなく、その荒涼とした大地にあった。
いつも真っ直ぐで凛としている戦士の姿は何処にもない。
焼け焦げた大地の上に拳を叩きつけて泣きじゃくる、年相応の少女が其処にいた。涼華は肩を震わせながら、何度も何度も、自分の無力さを嘆き続けていた。
彼女の中に在るサラマンダーが何も言わなかったから、私も同じように口を閉じる。誰が何を言おうとも涼華の心を癒すことは出来ないだろうし、無理矢理前に進ませてやるのも難しいから。
誰もいなくなった戦いの跡を、紅の曙光が無情に照らす。シャムロックが持っていた精霊の弓も、あの強固な矢筒も消え去ってしまっている。一つの戦いが終わったのだという現実が、改めて私の心に去来した。
涼華が泣き止むまで、私は暁の空を見上げていた。
太陽が少しずつ迫ってきて、旱の国が始まろうという時のこと。
遥か遠くを眺める涼華に、私はふと視線を送った。今なお消えぬ涙の痕と震える唇は、彼女がシャムロックという狩人の死を如何に重たく受け止めていたかを物語っている。
腐り切った我々の世界だからこそ、涼華の優しさは何よりも輝いていた。
故にその狩人も、最後には、涼華に真実を語ってやろうという気になっていたのだろうと思う。
——全ての戦いが終わった後なら、涼華には教えてもいい。
他言無用と念を押してきた後で、ロックはこう言い直した。故に私は、隠されてきたその真実を、包み隠さず曝け出してみせるのだ。
「なぁ、涼華。……雨の国の最後を見届けた者として、私は言うよ」
「メリア。一体、何?」
狩人が命を賭して放った一射が、この空を取り戻した。
私は彼に思いを馳せ、有りの儘に全てを語る。
「ロックが水の精霊を解放したあの一撃は、代償を支払わなければ成立しない魔法。言うなれば、『神秘を超えた神秘』。故に彼は、遠きソラから力を借りることができた。だが空など人間には届くはずのない世界だ。肉体に対する負荷だとか、そんな簡単な代償では到底支払いきれぬものだ」
涼華の瞳がこちらを捉えた。曙光はみるみるうちに夜を喰らい始め、その残涙を美しく照らす。
「幸いしたのは、ロックが二つの命を持っていること。……つまり、龍種であること。彼は自身が人間の姿でいられる時間の全てを支払った。そう、私たちが入国する頃に、一度目の契約を」
「時間がないって言ってたのは、もしかして」
私は静かに首肯する。
「あの一撃の練度を高めて大規模な技にするため、彼は最初から、己が魂を前払いしていた。一日も欠かさずにつぎ込んで、ロックは自分がいつ死ぬかも解らない状態だった。だから最後は、もう一つの寿命も重ねて用いたのだろう」
非情な現実だと言わざるを得ない。
一撃のためだけに数えきれぬ年月を支払い続けていたというのに、弓矢を作り出すのにもまた命を要求されるなど。
生命の軽視だと怒る権利を、涼華はきっと持っている。そういう世界に生きた彼女だからこそ、怒るのだと私は思っていた。
しかし、未だ潤む彼女の瞳には、その表情には、怒りの欠片も見られなかった。
「キミは、怒らないのか」
恐らく涼華は、頷いた。
「……命を捨てて何かを成し遂げるなんて、認めたくない。自分だけは自分を軽んじちゃいけない。なのに……っ、さ。私が一度怒ったのに、ロックはまた同じ事をした。凄く優しい人だから、自分を軽んじた。そこまでの覚悟……否定、できないんだけど、でも」
つう、と頬を雫が伝う。
歯を食いしばって、その煩悶に耐えながら。涼華はまた、落涙した。
喪失感、裏切られた事実、己が信念の脆弱さ。届かないと思うからこそ、涼華はまだ泣くのだろう。
「……うん。夜明けにはまだ、ほんの少し時間が必要だ。その間は、私が絶対にきみを守るよ」
私は涼華を抱きとめた。
月が沈み、太陽が空に根ざすまでの僅かな間——私は、涼華と其処にいた。
もう何もない矢の落下点を、ただ眺めていた。
シャムロックが過ごしていた二階建ての家、そこで涼華とファルセットは寝泊まりしていた。
数時間の仮眠を取って目を覚ました私は、ベッドの上で窓の外を眺めるファルセットと顔を合わせた。
「傷は癒えたか、ファルセット」
「ええ、お陰様で。……やはり、眠れはしませんね」
全くだと呟いて首肯する。
我々が人である以上、犠牲が心持ちに及ぼす影響は決して軽くない。加えて、これより挑むのは精霊の国において頂点に立ったとされる土の精霊。心身の疲労と極度の緊張は、少なからず私たちを蝕んでいた。
ファルセットは力無く笑った後、神妙な顔つきになって続けた。
「涼華は、無事ですか。簡単に癒せる傷ではありませんから」
「キミの言う通りだ。人の死は、数時間で忘れられるものじゃない。きっと全快には時間が要る」
だが、斯様な状況に陥ろうとも、運命というものは無情に進む。
故に私たちは行かねばならない。
苦しむ仲間がいるのだとしたら、引っ張っていくのが私に出来ることなのだから。
「我々が強く在ればいい。あと数時間もすれば、旱の国にいる仲間たちが起きてくるからな」
覚悟を確かにそう告げて、私は出立の準備を進め始める。
ファルセットが此方を見ているような気がしたので振り返ってみると、彼女は同時に問うてきた。
「現地の協力者ですか? いえ、ネリネ殿以外に思い当たる人物がいなかったものですから」
「現地といえばそうだが、少し違う。かつて砂漠で対峙した魔龍——モミジが、助太刀に来てくれた」
ファルセットは確かに驚きを見せた。尤も、あの時確かに打ち破ったはずのモミジが再び私たちの前に現れ、協力関係を築いているとなれば当然のこと。
しかし彼女の様子は、そんな表面的な者ではなく、どこか深い域に在るようだった。
「……どうした、ファルセット?」
「っ、いえ、何でもありません。魔龍モミジが味方となれば、確かに如何なる相手よりも強力です。後ほど合流しましょう。もう少し休みますので、後ほど」
取り繕えない焦りを見せて、私が言葉を返す前、ファルセットはベッドの中へと隠れてしまった。
まだ解決すべき話が残っているらしい。私はわざとらしく溜め息をついて、二人の休む寝室を降りた。
誰もいない、真っ暗な一階に立つ。
洗いかけの食器が散らばるキッチンから少し離れたところには、乱雑に脱ぎ散らかされた衣服の類が積み上がるソファが置いてあった。微かに露呈する毛布は、ロックが其処で眠っていたことを示していた。
彼が居たままの姿にしておくか逡巡した私だったが、——我々は二度と戻らないだろうから、見えるところくらいは片付けておくことにした。
毛布と衣服を仕分けて暫く、やっとのことでソファの底が見えてくる。衣類に紛れて硬い感触を覚えた私はそれを掴み、服の中から引っ張り上げる。
現れたのは、真っ白な布に包まれた細長い道具だった。内側にまた別の手触りがあったので布を解いてみれば、道具の正体と一枚の手紙が私の前に現れた。
くしゃくしゃの紙に乗る黒鉛は達筆で、何処かウンディーネを思い出させる印象の字だった。
——未来の誰かに向けて、この矢を射る。
その一言だけが遺されていた。それでも、真意を理解するには一文で事足りた。
「……本当に、粋な男だ」
彼の遺産を包み直し、預かっておくことを選んだ。
片付けを終えて荷物を纏めれば、それで残りの時間かはあっという間に過ぎ去った。
手持ち無沙汰になった私は屋根の上にいた。たった数個の宝石を握りしめて、私はまた空を見ていた。
もう、夜はいない。
久遠の平穏を奪われた精霊の国は、ぎらぎら輝く巨大な炎の
本能で理解した。精霊裁定国最後の戦いが、眼前に迫っているのだと。
「……奴は必ず、我々の手で」
ぎゅっと唇を噛み締めた。
そうして、朝が来た。
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