第六節 夜明け

第55話A 月より来るこの一射

 ◇


 決戦が始まって、どれくらいの時間が経っただろう。

 ウンディーネの核を引き摺り出したと思えば、直後にあの時と同じ泥が溢れ出してきて。ファルセットの魔法で増殖を防ぎながら戦っていたものの、それでも長持ちはしなくて。

 溢れ出した怪人を、私はやたらと重たい腕で振り払っていた。


 横には険しい顔で呪詛を消滅させていくメリアと、息を切らしながら剣を全力で振るうファルセットの姿がある。

 私たちの後ろには、大粒の汗を流してソラに弓を向けるロックがいる。

「……最初の灯火プルミエ・フラム

 怪人を我武者羅の炎で焼き払い、進む為の道を無理矢理に作る。

 最早、何も考えていなかった。ウンディーネ一人の死がこれだけの呪いを生み出した、その事実を知ってなお驚けないのは、きっと私だけだ。そうなるに足るだけの人生を歩んできた彼女の苦しみを真正面から受け止めれば、私はきっと戦えない。

 だから、また我武者羅を頼っている。

 怖くはなかった。心の内で激る炎は恐怖だけでなく、己の罪悪感さえも燃やし尽くしてしまったから。


 無数の泥が人型をなし、私たちが減らすよりもハイペースに数を増やしていく。

 私たちが全力を以て護ろうとも、ロックに迫る呪詛を全て退けることはかなわない。流れた矢が彼の腹部を貫いてしまう回数も、戦いが進むにつれて増えていった。

 打突を受けて後退ったファルセットは、焦慮を露わにしながらも、無数の怪人を前にして不敵に笑った。

「ええ、確かにこの程度。いくら数が多かろうと、私を一度も斬れぬようでは高が知れている」

 私は左手をファルセットの肩に置いて、残るいくらかの魔力を渡した。

「焦らなくていいよ。ここからは私が、本気で頑張るところだから」

 片膝をつく騎士を護るように、力強く前へと踏み出す。

「いくよ、サラマンダー」

 ばくばくと跳ねる心臓を掴んで、私はあの言霊コードを呟いた。


火の女イグニス・フェーミナ


 炎の籠が私の全身を包み、焼き焦がす。

 白髪は焦げた紅を帯び、全身を包む黒の防具は熱せられた鉄の色に変わる。

 全身を遍く満たす魔力の代わりに、私は意識の半分を委ねた。

「二度と会うことがないとは思わなかったがな。ウンディーネよ、もうすぐ楽になる時だ」

 体が異次元の速さで呪詛の間を駆け抜けた。私が足を止めた時、敵の金切り声が突然消え去る。少し遅れて、私の背で炎が爆発した。

「涼華、キミは何を」

 呪詛との攻防を繰り広げていたメリアが、驚きを隠しきれない様子で問うてくる。私は意識を掴み取って答えた。

「サラマンダーと共闘することにしたんだ。死にかけだった私を、彼女が助けてくれたから」

「……道理で。キミが信じた者なだけある、やはり強い」

 メリアが息をついた後、反対側の怪人が一斉に獣の如き雄叫びを上げる。

 肉体の主導権が一部サラマンダーに譲渡されて、私たちの意識はソラから落ちてくる汚泥に戻った。

「ロックは、まだみたいだな。時間を稼げるか」

「誰に聞いておる。向こうのエルフが限界だ、助けてやれ。可能ならあの男の元に戻れ。此方は我が請け負ってやる」

 私たち二人に合図を送るようにして、メリアはファルセットの方へと駆けていった。幸い、先の一撃でヘイトは私に向いていたらしい。怪人の群れは私とサラマンダーを睨みつけ、横並びになって迫り来る。

 私が策を講ずるよりも先、火の精霊が何かを思いついたらしい。任せろと言わんばかりの調子で、彼女は私の両手を、音楽の指揮を執るように振り上げてみせた。

「……醜い獣を残したな、ウンディーネ。排斥された精霊の辿る末路は、どちらも同じだったということか」

 指に火を灯し、拳をぎゅっと握る。次に手を開いてみれば、手には真っ赤な鎖があった。

「隷属の為政を強制された貴様と、理性と生命を剥奪されて侵攻の道具に使われたこの我。だがきっと、共にその生涯は恵まれていた」

 鎖が熱を帯びていく。白煙が立ち込め、手の腹が烈火の音色を上げた。

「思い出と共に眠るがいい。これより放つ一撃を以て、お前への手向けとしよう」

 掌は相当に熱いはずなのに、私が痛みを感じることはない。サラマンダーが代わりに受け止めてくれているのだと悟った。

 だから私は、彼女の意を汲み取って腕を下ろす。地に着いた煉獄の鎖は私の意志に従って、怪人たちを囲い込むように伸びていった。

 清算できなかった彼女の思いが、熱い炎となって全身を駆け巡っている。

 共に在る者として、私はありったけの声をソラにぶつけた。

『受けとれ!』

 鎖が、魔物のように唸りを上げる。

 

友に捧ぐ手向けの熱鎖シェーヌ・クリザンテーム


 魔法の発動は刹那に終わる。鎖の内にある全てを、荼毘の炎が燃やし尽くした。

 その言霊コードを自分からの手向けとして、火の精霊は身を翻した。

 

 呪いの方から視線が逸れれば、体勢を立て直すメリアとファルセットの姿が目に入る。二人の視線が空に向かっていた為に、私も倣って天を見上げた。

 激る肉体が、途端に冷めた。

「……一体、何を」

 地面に落ちてきたウンディーネの核。熱を伴って落ちてくるエネルギーの塊は、ロックの真上で停止した。

 同時、全身が総毛立つほどに莫大な魔力が空間を駆けた。

「ファルセットッ!」

 メリアが叫び、ロックが目を剥く。

 精霊の核から真っ黒なエネルギーが射出された。触れるだけで体が抉り取られるような、痛々しい魔力——それは容易く世界を叩き壊し、私たちの簡単な防御など簡単に打ち破ってしまう。

 サラマンダーの判断で攻撃を防ぎ切れた私やロックに対して、二人の状況は最悪そのものだった。

「うあ……っ」

 瓦礫の山に衝突したメリアが、後頭部から血を流しながら起き上がってくる。その体は到底動けるものではなく、加えてファルセットは、今の一撃で意識を失っていた。

『さっさと攻撃の準備を整えろ、彼奴の核がまたソラへ逃げる!』

 突然の出来事に呆然とする私を、サラマンダーの言葉が現実へと引きずり戻す。反撃を終えたウンディーネの核は再び上昇し、無敵のソラへ逃れようとしていた。

 しかしどちらも間に合わないと、本能的に理解してしまう。

 逃亡に伴って、精霊の核はまた射出の兆候を見せた。二人を救わんと視線を送るも、助けられるのは一人だけ。敵の光線より早く攻撃を避けることは能わず、故に選ばなければならない。

「……今、助けるからっ」

 思考停止は体が許さない。

 私はに手を伸ばし、全速力で移動を開始した。


 しかし、決断を待ってくれる優しさなど敵にはない。

 空の核から放たれた強大な光線が、私の傍をすり抜ける。同時に、体が千切れるほどの激しい衝撃が襲い来る。視界がホワイトアウトし、肉体から感覚が消えていく。

 耳をつん裂くような轟音が、雨の国中に響き渡った。


 数十秒が経過して、衝撃が過ぎ去った時。

 戦いの場となった街並みは、恐ろしいくらいに静かだった。私の仲間以外、他に誰も残っていなかった。

 軋む体を必死に起こせば、自然と空が目に入る。

 同時、メリアが満身創痍の肉体を起こして復帰する。魔力の類は殆ど残っていないというのに、彼女は執念で其処にいた。

 それでも、私たちの視線の先には、メリアの執念を超える想いがあった。故に、私は二の句が継げずにいた。

 あの攻撃を二度も受けながら、ロックは倒れていなかった。弓矢は彼の手に握られている。彼の足元は呪詛が纏わりついてどす黒く変色しており、光線を受けた皮膚は焼け爛れていた。そして、人の皮膚とドラゴンの鱗が混在するところもあれば、消失している部分もあった。

 目覚めた私たちに気付いたのか、彼はゆっくりと口を開く。言葉を一つ発するたびに内臓が悲鳴を上げていることも、その一切を気に留めないまま。

「礼を言う。彼奴は……、アリアは、こんな姿になっちまったが、お陰で俺は、漸く罪を清算できる」

 彼の口辺を垂れる黒い液体は、血なのか呪いなのか解らない。

 でも、一つだけ。哀愁漂うメリアの様子が、今なおギリギリと悲鳴を上げる弓の弦が、彼が隠し続けていた事実——即ち、支払うべき代償の重さを、如実に示していた。

「……きみの弓は、ウンディーネの得物によく似ているな」

「ああ。俺の魔法属性も、この強靭な弓も、ウンディーネから、アリアから識ったものさ」

 彼から貰った記憶を照らし合わせて、私は想う。かつてアリアが持っていた狩猟道具、激昂が契機となって目覚めた未知の属性。どちらも、彼が水の国の狩人から与えられたものだった。

「悪いが喋ってる余裕はねえ、ファルセットがお陀仏しちまう。——ああ、もう怖いなんて言わねえさ。決めてくる」

 もはや彼に痛みなど無いのだろう。

 足元の呪いを踏みつけて、シャムロックはソラを仰ぐ。月の光を一身に受ければ、本来の姿が現れる。

 彼の肉体から龍が飛び出る。彼はその真っ黒な矢を、その真っ黒な太い腕で、弦が千切れんばかりの力で引っ張った。

「置き去りにしたあの後悔、貰ったモノと共に返すよ。だから、お前が夜を支配するのはこれで終わりだ」

 真円を描く黄金の月は、世の何よりも秀麗に輝く。そして、赤く濁った彼の瞳は満月を映す。

 ついに、彼は矢を放った。


月より来るこの一射スピリトゥス・アルクス


 真っ黒な矢は音を立てて真上へと進んでいく。

 だがそれでは、ソラに届かせるのが関の山。矢は精霊の核に黒点を打ったに過ぎなかった。

 

 狩人の願いに応えるように、夜の惑星が光り輝く。核に打たれた黒点目掛けて、月より黄金の矢が放たれた。

 ロックが生み出した漆黒の矢、その質量など比ではない。それは美しいという言葉さえ余る神の一射で、まさに神秘を超えた神秘そのもの。

 黄金の矢は黒点目掛けて堕ちてくる。

 光が、夜を呑んでいく。藍色の空は真っ白に照らされて、支配の時が終わることを告げている。

 瞬間、水の精霊の核が砕け散った。

 砕けた核は光の粒となって、矢の中に組み込まれていく。其処には音の一つもなくて、私は呼吸を忘れていた。

 眩い光が地面に降り立ちついに私たちを飲み込んだ。

 

 照り輝く世界の中で、私は一組の男女を見る。どちらの命も、もう風前の灯だった。

 それでも、二人は笑んでいた。二人は、抱き合っていた。


 矢がなくなって、光が消える。

 夜の終わりを示すように、地平線の向こうから、曙光が昇り始めていた。

 

 光が最後に落ちた場所には、もう、何も残っていなかった。

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