第五節 決戦前夜

第53話A 勇敢なる約束

 ◇


 記憶の全てが脳を巡る。悪を演じたウンディーネ、そして彼女を心から愛していたシャムロック。

 その慷慨も苦しみも、取り払うには遅すぎて。

「何も、泣かなくたっていい」

 私は思わず涙を流した。

「……だって、こんなの。あまりにも」

 考えれば考えるほど、彼の苦痛の大きさが解ってくる。ウンディーネと対峙したあの時、自分では倒せないと悟った彼は、如何なる感情で戦友に盾を頼んだのだろう。きっと筆舌に尽くし難い無力感が彼の内を巡って、その果てに至った決断だ。

 この未来は避けられなかった。

 そうであっても、あまりに辛い。

「だから決着をつけてやらなきゃならねぇんだ。この国が水の世界であった時から、その意志だけは変わらない。忠義を尽くし、愛したからこそ、……もう、楽にしてやりたい」

 彼の言葉に覇気はなかった。たとえどれだけ求めようとも、力の差という高い壁に阻まれてしまうことを、よくわかっていたからだ。

 きっとロックの想いは浮かばれない。届かなかった無力感を取り戻せる時間と、私たちがこの国に来た時間は酷く噛み合わなかったのだ。

 だから、せめて。

 後悔を無念にさせはしない。

「その想いは、貴方一人で背負わなくっちゃならないものじゃない。……貴方が相談なしにあんな作戦を取ったこと、忘れはしない。だから今度は、一緒に背負いたい。貴方の苦悩を知った者の一人として、その結末に至る助けをしたい。お節介だって、思うかな」

 

 ロックは、どこか遠くを見ていた。未だ降りしきる雨の先に、強く想いを馳せているようだった。

 彼は不意に立ち上がった。影の落ちた紅色の瞳が、私のことをじっと見つめた。

「俺は無力で、敵への恐怖を前に裏切るような男だ。それでも受け入れてくれるなら、……助けて欲しい。どうか、頼む」

 彼は深々と頭を下げた。

 二人を救ってやることは、私にとって土の精霊を倒すのと同じくらい欠かせない責務となった。

「頭を上げて。私たちは同じ龍種で、想いを託つ仲間なんだ。其処に区別はいらないよ」

 最後、私はロックに握手を求めた。

 彼はまだ呆気に取られていたように思う。それでも調子を取り戻すと、明るい笑みを浮かべて私の手を握り返した。

「ああ。……この戦いに終止符を打つぞ」

 記憶を分かち、想いを識る。

 意志の交差によって成り立ったこの約束は、次の日、思いもよらぬ形で果たす必要性に迫られた。

 


 精霊裁定国、五日目。

 もはや雨も届かず、静寂と直黒に包まれた部屋。布団の感触に身を預けていた私は、強い力に叩きつけられたような感覚を受けて目を覚ました。

 珍しく寝坊したのだと、鉛のように重い私の体が如実に語ってくる。

「……これって」

 体の芯に響くような、胸騒ぎを覚えさせる奇妙な感覚。外を包む不気味な静寂が、却って不穏な空気を醸し出していた。

 そのまま階下へ降りていくと、葡萄酒を飲むシャムロックの姿があった。

「げ、朝からお酒?」

「少々値は張るがな、ジュースだよ。酒は気が乗らねぇ時だけだ、ところで飲むか」

「うん、一口ちょうだい。……外で何が?」

 コップに注がれたアメジスト色の液体を流し込む。甘味が喉を駆け巡り、私の頭を冷静にさせた。

 

 時刻だけで言うのなら、既に活動を始めていてもおかしくない時間だ。彼の意志が何処にあったのか、その身を包む真っ黒な外套が全てを物語っている。

「静寂が伝わるか。外に出てみりゃわかるが、もう。お前が目覚める前に魔力同士の衝突が起こって、それを最後に雨が消えた。……恐らく、ウンディーネは」

 私の視界がぐらり、と揺れる。

 ウンディーネを救う約束、彼と分かち合った想い。それを実現する機会が損なわれた。

 その複雑な心境に、私は同情するしかなかった。

 シャムロックは歯を食いしばり、なんとか最後に言葉を紡いだ。

「外を見に行こう。誰かがこの戦いに決着をつけたのなら、見届けるのも俺らの責務だ」



 魔力の大元となった場所は私たちの拠点からだいぶ離れていた。

 そのため、戦いに決着をつけた者と出会うことは出来なかった。辺りには血痕が散見され、削れた地面は激しい戦いの後を知らせている。

「本当に、ウンディーネが? あんなに強かったのに」

「信じられんが事実だ。あの冷たい魔力がどこにもない」

 確かに、水の精霊が放ち続けていた魔力は一切感じられない。ただ、次の瞬間、異様な悪寒と拒否感が私の肌を逆撫でした。

 その存在に、どうして今まで気づかなかったのか。私たちは同時にその存在を認識した。

 空を見上げる。ソラには、銀色に輝くモノがあった。

「ねぇ、ロック。あれは、一体なに」

「解らない。あれがウンディーネだと思っちまう、自分自身すら解らねえ」

 ロックの言葉に首肯する。

 遠いソラにある鋼の巨躯。其処から微かに感じられる不気味な魔力、そして皮膚を削り取られるような嫌悪感と肌の痛み。その根底には、ウンディーネの魔力に酷似する様子が隠れていた。

 あまりに変わってしまった風体。手の届かないソラに座す狂気。

 が、ロックの愛した人物、その成れの果てなのだとしたら。

 不図視線を送った先にある彼の拳は、金剛石も砕けそうなくらい強く握られていた。

 

「……涼華か?」


 その時、私たちに声を掛ける者がいた。

 振り返らずして記憶が理解する。シェーン・ヴェルトで初めて出会った者の、誰よりも落ち着かせてくれる優しい声音。

 彼女の言葉を聞いた途端、私の神経はみるみるうちに冷静さを取り戻した。

 強い力に突き動かされ、私は背後に視線を向ける。

「メリア……、ファルセット」

 其処には、絶望を希望に塗り替えてくれるような、頼もしい二人の姿があった。


 それからすぐに拠点へと戻り、私たちは二人を迎え入れた。

 メリアとロックが双方軽い挨拶を済ませた後、会話は情報共有と作戦会議に流れていく。

「あのウンディーネを倒すとは呆れた嬢ちゃんだ。全く見習いたいモンだね」

 メリアはファルセットを見つけて治療し、ウンディーネを自らの手で倒したのだという。信じられないという驚きと、メリアならば実現できるだろうといった妙な信頼が私の中を駆け巡る。

「今の奴は一人じゃ倒せないよ。頭の中で試みたが、どうやっても奴に届く一撃は作れない。ロック、涼華。キミたち龍種の力で攻撃を届けることは可能だろうか」

「……アルビオンでも、届くかどうか」

 あの位置なら、攻撃は真上かほぼそれに近い角度での発射になる。

 真上に魔法を放てばどうなるか、イメージで言うなら銃が近い。上空に撃った弾は消えるわけじゃない。魔力も同様で、無理やり形を保ち続けるだけの気力と圧倒的な操作の精度がなければ、制御しきれずに魔力の雨を降らせてしまうだけだ。

「とにかく高度を上げて真正面から蹴散らす、というのは? 真正面からならば届くでしょう」

「出来なくはないな。涼華を射ることは可能だが、相当な負荷が掛かる。宇宙に急接近して魔法を撃ち、反動を無視して地面に叩き落とすことになる。普通の人間じゃ精神も肉体も保たないぞ」

 三人の視線が私に向く。其処に強制の意思はないし、きっと私が断ればすぐに他の方法を考えてくれるだろう。

 途端に、恐怖が体を支配した。三人の戦いを、思い出してしまったからだ。

 命を懸けて呪詛を裁定したファルセット。魂の衝突によって水の精霊を退けたメリア。そして、たった一人で何十年も苦しみと対峙し続けるシャムロック。

 己が内に問いかける。果たして私は、皆の想いに報いられているだろうか。

 答えは、己が内から返ってきた。

『足りぬ。報いたくば命を懸けろ』

 火の精霊が脳裏に映る。

 一切の迷いを許さないと言わんばかりに力強く、彼女は声高に激励する。

『あの時の後悔を取り戻せ。今こそ貴様が信頼に応えるべき時だ』

 他の誰にも成せない現実を、私の手で実現させる。その責任の重さを考えると、私の足は竦んで動かなくなる。

 私は決して勇者じゃない。三人がそうしたのに倣い、運命を背負って戦える——そうは思えない。

 だって、私は何処まで行こうとも、ちっぽけな人間に過ぎないから。

『勇者などと較べるな。千人以上が死した魔王への戦いに、貴様は事実挑んでいる。そして我を打ち破ったのだ。……折れることなく立ち上がれ。さすれば貴様は約束を果たせる。我が必ず導くと、約束する』

 サラマンダーの顔が脳裏にくっきりと浮かんだ。

 きっと、この先の約束を果たすためには我武者羅に突き進むだけじゃ足りない。三人のように、何か強い信念がなければ立ち続けることは出来ないのだろう。

 だから、彼女が傍にいてくれる、その事実が私を勇気づけてくれた。

 雨の国にある全ての戦力が集結した。もう、一歩も退く理由はなかった。

 故に私は、自然に彼らと約束を交わした。



「……わかった。ソラの上で、ウンディーネと決着をつけよう」

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