第52話A 在りし日の終わり、雨の国
◆
それから、長い時間が過ぎ去った。
アリアとロック、二人の愛は尽きることなく。一方、彼がウンディーネの補佐として不十分な仕事を行うこともない。
精霊と二人の人間が望んだ平和な日々が続いていた。
豪勢な玉座に腰掛けたウンディーネは、グラスに注がれた葡萄酒に口をつけていた。
ふと思い出したように、ウンディーネは言った。
「ロック。火の国に行くから同行しなさい」
「火の国? そりゃ構わんが、なんでわざわざ」
「向こうから呼ばれたのよ。アイツの事は気にいらないけど、用もなく呼ぶ馬鹿でもない。何かある」
どこか遠い目をするウンディーネに、ロックは只ならぬ雰囲気を感じ取ったらしい。
それからすぐ、二人は火の国に発った。
水の国に酷似した造りの宮殿。
彼女のそれが青の装飾で彩られているのなら、火のそれは紅と黄金で彩られた豪華絢爛の居城だった。
毅然とした足取りで歩むウンディーネに従い、シャムロックもまた堂々と進む。
二人の様子に気づいて声を上げたのは、私がよく知る者のかつての姿だった。
「来たか。相変わらず嫌味な顔だ」
「貴方だからよ。さっさと本題に入ってくれるかしら。貴方と無駄話なんて御免なの」
嫌悪感を隠そうともしないウンディーネに対し、サラマンダーは豪快な笑い声を上げた。
炎を体現したような朱い髪は女性にしても長く、切れ長の目や高い鼻も、近しくはあるがあのサラマンダーとは少し違う。その身を黒い鎧に包んでいる為か、今の彼女を凌ぐ強さである為か。髪の長い男性にも見えた。
「挨拶くらいさせよ。……貴様がウンディーネの腹心か。我はサラマンダー、火の精霊王。左をグルナ、右をグルナート。我が両翼だ」
姿の違う火の精霊のもとには、同じく姿の違う——若かりし頃のグルナさんがいた。
二人の会話から察してはいたが、いざ並んでいるとまた特別な驚きが私の胸に去来する。
若きグルナは玉座の傍から離れると、シャムロックへ握手を求めた。
「初めまして。僕はグルナ。直す魔法が得意分野だが、戦闘に関してはからっきしでね。だから本人に代わって紹介するよ。彼はグルナート、この国で二番目に強い魔法使いだ」
グルナート。私には聞き覚えのない名前だが、ロックにとっては忘れられない人物の一人のようだった。
二人は硬い握手を交わした。
「……さて、挨拶も程々に次へ進むとしよう。我が王よ、説明は私の口からなさいますか」
「いや、構わん」
サラマンダーは指を弾いて高い音を響かせる。すると二人の分の椅子と階段が対等な高さに現れた。
「珍しいわね。サジェス・リーブルの遺品か何か?」
「左様。この前、港の職人が持ってきた」
直後、サラマンダーは静かに本題を切り出した。
「この国に安寧が続いて何百年が経ったろうな。魔王に抵抗する者も今やごく少数と聞く。奴の統治は多くの犠牲で成立したが、犠牲が一つの正解を作ろうとさえしている。奴らの安寧は当面続くだろう……だが我々の国は、変革の時を迎えようとしている。気づいているか」
ウンディーネは静かに反応を見せた。
「
火の精霊は首肯する。
「彼奴の国には足りぬモノが多い。奸賊は跋扈し土地は荒れ果て、民草は盗賊へと落ちぶれる。貴様や
「そう。……賊は兵隊にもなりうる。それが明日への確約だとすれば、三国を凌駕する兵力になりうるわ」
サラマンダーは深く頷き、両翼に視線を送りながら言った。
「蓋し決行の時は近かろう。故に同盟の提案だ。我らが組んでおけば、戦争を仕掛けられるリスクは軽減される」
その提案を、ウンディーネは一切の躊躇なく了承した。
「いいわ、早く声明を出しましょう。じゃ今後ともよろしく。ロック、帰るわよ」
「っ、おう。もう帰るのか」
「形ばかりの同盟、ここにいる必要は無いの。何かあれば新聞屋か其処の使者を寄越しなさい」
「や、グルナを連れてゆけ。それで足りる」
彼女の言葉によって、二人にグルナが加わることになった。
同盟の結成と戦いの始まりは同時に行われた。
次の記憶は、かつてロックが話した事実の始まりだった。
青褪めた様子の新聞屋が報せた一報——ノームによるシルフ殺害、風の国の滅亡。その事実を聞いたウンディーネは、苦悩に顔を歪ませながら言った。
「……水の国は難民を一定数まで受け入れる。余剰物資を解放するよう命じなさい」
「賛成しかねるぞ。半端な供給は却って争いの火種を産む」
「私が命じているの。……そもそも、私とあいつが同盟を組んだせいでしょう。その責任くらい取るわ」
責任から来る固い決意を砕くなど出来るわけもない。ロックは拳を硬く握り締めた。
グルナが入ってきたのは、ウンディーネが口を開こうとした時だった。
「失礼。一つ伝言です。数日後に土の精霊に報復を行う。出立の準備をせよと」
サラマンダーは、土の精霊を殺害して土の国を崩壊させ、溢れた民と時間ごと二国で吸収する算段のようだった。
その狙いを見抜いたウンディーネは、額に皺を寄せて呟いた。
「土の国が解き放たれれば情勢が変わる。賊の管理まで考えてるワケ——?」
「ともかく、戦力を整えるのは先決です。ロックと軍備の編成に向かいたい。許可をいただけますか」
水の精霊は焦慮と共に頷いた。
眼下に揃った軍を見据えながら、二人は言葉を交わしていた。
「可能な限り招集したが余裕はない。俺ら次第か」
「そうだね。僕達が無能な官僚でいられるのは、今日が最後ということらしい」
「強くなるのは俺らが先ってか。……だが俺は無色の魔法しか使えない。威力だって高が知れている」
グルナは物静かに首肯した。
「水の国は君が主力さ。そうでなきゃ君は水の精霊の右腕になっていない」
それでも躊躇いを隠しきれないロックに対し、グルナは優しく、彼に勇気を与えるように微笑んだ。
「魔法なら教えるとも。……助け合って生きていく。それが友達というものだ」
友達。彼の記憶にある中で、そう呼べる初めての存在がグルナだった。
それが堪らなく嬉しかった、らしい。
大切な相手への想いを抱きながら、禁忌を犯したものを罰するため、二人は決戦に向けて修練を続けた。
しかし緊張状態にあった精霊の国で、そう長く平穏を保っていられるわけがなかった。
些細な切っ掛けが全ての崩壊をもたらした。
風の国の難民に紛れて火の国に侵入した賊が略奪を開始した。グルナートがそれらを掃討して、サラマンダーは土の精霊に対して宣戦布告。
紅蓮の髪を纏う炎の王は、グルナを除く軍勢総出で戦争を仕掛けた。これに水の国も参戦、初めはロックと三十名ほどが支援した。
結果は地獄そのものだった。
部隊は全滅。グルナートは致命傷を負い戦線離脱、戦闘続行が可能だったのはサラマンダーのみであった。
土の精霊の軍も同様だった。賊は全滅に等しかった。当然だった。土の精霊は、敵味方問わず皆を殺したからだ。
肝心のシャムロックは、……土の精霊と対峙して、彼の脅威に恐怖し逃げ出した。
帰還したロックにウンディーネが怒り狂ったのは言を俟たない。
「何をしに戦いに行ったの、アナタ……! いい!? 戦えない臆病者が一丁前に弓を持たないで!」
失望は誰の目から見ても明らかだった。ロックとウンディーネの信頼関係に亀裂が入り、同時に、戦いの激化に伴って、ロックはアリアに会えなくなった。最後の逢瀬は、この戦いの前日だった。
それから、ロックは戦地に赴く許可を二度と得られなかった。
兵士たちが声を上げ、グルナが作戦を立案し、ウンディーネが戦地に赴かんとする中で、彼は失意の中にあった。一度目の戦闘で土の精霊の実力を味わっておけば、この被害はなかったかもしれない。彼の記憶はそう語る。
それから十度の戦争があった。徐々に参戦する兵士は不要となり、最後には精霊同士の争いとなった。
ある夜、サラマンダーが殺された。土の精霊の強烈な一撃が彼女の鎧を突き破り、その心臓を抉り取った。
次の夜、サラマンダーは肉体を変えて蘇った。魂の残滓を基にして、アリアと同じ境遇の少女を依代とした。私のよく知る、黒髪のサラマンダーだった。
戦争開始から一ヶ月が経っていた。
突然、ウンディーネが帰ってきたことが一度あった。その顔には焦燥が張り付いていた。
「……ウンディーネ」
最早ロックは何も言えなかった。己の力量では敵の足元にも及ばぬこと、未熟な覚悟では足を引っ張るだけのこと、全て理解してしまったためだ。
「三日間、休戦協定を結んできた。シャム。せめて貴方だけでも国を出なさい。たとえ戦いが終わっても、この国に二度と平和は訪れないわ」
酷く疲れ切った顔で、ウンディーネはそう言った。
自分の国を見捨てるような発言、理想を謳う彼女がする筈もないというのに。ロックには何も出来なくて、まともに言葉を返すことすら難しかった。
これが最後の会話だった。
休戦が約束された三日間、その二日目。
目を覚ましたロックは、ウンディーネがいないことを知ってしまった。
この時、戦いにおいて劣勢を感じていた二人の精霊は、闇討ちを決行するつもりだった。国を渡る手段など、一個人には本来与えられぬもの。しかし精霊の右腕であった彼はその移動が可能だった。
故に、悲劇を目の当たりにすることとなる。
土の国に入った途端、彼の耳に届いたのは剣戟の音だった。それが何を物語るのか、彼は悟った。
音に驚いて逃げる者、怖いもの見たさで立ち止まる者。全員を押し退けながら、ロックは中心地に辿り着いた。
サラマンダーの真紅の瞳が裏返った。その体は袈裟に切られ、無惨な姿となって地に落ちた。
……かつて夢に見た、あの光景だった。
ロックの記憶はボロボロで判然としないらしい。
ただ、ひとつだけ。ウンディーネの心臓を土の精霊が握り潰した時、ロックの力が爆発した。
今の彼を形作る行射の魔法。そして、未だ私たちに見せていない最強にして最大の一撃。それの解放によって、土の精霊からウンディーネを取り返すことには成功した。それでも、彼は死ななかった。
土の精霊による奇跡か、ウンディーネにはまだ息があった。しかしロックは、毫も動けなかった。
「二人に問おう。……救いたいか」
悪魔が声を、掛けてきた。その意味の違いなど知らず、男は頷いた。女は同意の意思を見せた。
「君たちの国は今、滅びた。火も水も近いうちに区分がなくなる。全ての管理は私が行う。だがしかし、君たちの管理下にあった民草がどんな目に遭うのか、想像するだけで辛かろう。失いたくはなかろう」
満身創痍の彼らに返事の余裕はない。土の精霊という巨悪は、悍ましい笑みを浮かべて言った。
「故にウンディーネ、キミに再び為政者の資格を与えよう。案ずることはない、必ず理想の国になる」
「はっ……何を、今更……」
心臓が潰れているというのに、ウンディーネの口はまだ動いた。一縷の望みに体が復活したのかもしれない。
「キミは悪になれ。僕が民の七割を管理する世界、その裏側で三割を虐げろ。そうすれば国の運営に必要なだけの税が集まる。水も火も受け容れよう。誰も苦しむことはない。それで水の国の民が救えるなら、本望だろう?」
誰も、苦しむことはない。土の精霊が人として見ていたのは、七割の民だけだった。
それは完全平和な世界を一方に作り、もう一方に地獄を作る運営法。本来、ウンディーネが最も嫌うはずの在り方。
しかし、彼女は誰よりも民を想っていた。シャムロックの幸せを、誰よりも願っていた。
だから敗者となった彼女に、選択の余地はないわけで。遣る瀬無い様子で水の精霊を見つめるシャムロックは、その光景に声を荒らげることも許されなかった。
諦念を露わに、ウンディーネは黙って頷いた。彼女の頬を伝う大粒の涙が、彼の心に一生消えない傷をつけた。
悪魔は嗤った。全てを嗤って、最後に言った。
「なぜ泣く。喜びたまえ。君の願いは叶うのだから」
——これが、雨の国の始まり。在りし日の終わり。
理想を悉く踏み躙り、希望を嘲笑う帝政の夜明け。
旱の国が始まって、民は再び平和を知って。
地獄の方に生きるものは、もうほとんど死んでしまったというのに。
天国に生きるものは、国の終わりも人の苦しみも、何一つとして知りやしなくて。
敗者の義務と国への愛、今なお果てぬ空虚な理想に囚われて、ウンディーネは悪を演じ続ける。
誰かが救える時は、とうに過ぎた。その過ちを一人で辞めてしまうのは、決して許されぬことだった。
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