第51話A 在りし日の記憶、水の国
◇◆
青黛の瞳が彼を見下ろす。
彼は少女に見入っていた。その立ち姿に言い尽くせない美しさが溢れていたのは勿論のこと、次々と矢を射るその姿さえも、戦いを思わせない壮麗さを持ち合わせていた。
尤も、ただ美しいだけではない。私が共闘した仲間や幾度となく対峙した敵の数々——彼らと比べても、その魔力操作の精度は特出するものがあった。
「あん、た。名前は」
「うん。ま、教えてもいっか。私はアリア、狩人で精霊の巫女」
今度はアリアが名前を問う。彼は足元に視線を落として、何処か戸惑いながら言葉を返した。
「解らない。自分が人でなかった事以外、何一つとして」
「ふぅん……嘘には聞こえない。此処、最寄りの集落に行くのにも相当手間だし」
獣——リザードマンが捕食衝動を見せるような相手、尋常でない存在なのは明らかだった。にも拘らず、アリアは一切怯えた様子を見せなかった。彼女は彼の視線をなぞるようにして、足元へと視線を落とす。
「本当の名前があるのか無いのか、今は気にしない。でも名前がないのは困るから」
何の因果か、其処に生えていた小さな一つのクローバー。
健気に咲く四葉を見て、アリアは彼に名を与えた。
「シャムロック。いつか自分に相応しい名前を思いついたら変えればいい。だからそれまでは名乗りなさい」
アリアは全てを言い終えると、神妙な様子から一転、屈託のない笑みを浮かべた。
「まっ、長いからシャムって呼ぶけど。在り方は貴方が決めればいいもの」
何処までも深い青色で、濁りのない綺麗な瞳。それに見下ろされて、名前を与えられたのならば。
誰であっても、虜になるのに時間は要らないだろう。
記憶はそれから少し飛ぶ。
龍種特有の成長速度なのか、ロックが人間社会で生きていくための力を身につけるのに時間はそうかからなかった。
加えて印象的だったのはアリアの生活環境について。彼女は集落から離れた山に一人住み、近辺の獣やリザードマンを狩って生活しており、ロック以外の人間が彼女を訪ねることは一度もなかった。
アリアが異質な人間であるということを、彼は薄々察していた。
「……気味悪がらないのか、俺を」
「そうね。私は精霊に選ばれた身だから、神秘の存在には人一倍敏感になってる。
「精霊?」
「この国の統治者よ。厳密には、四つ世界があるんだけど……私たちがいる今は水の国。ウンディーネ様が守護してくださる世界。精霊は人の体を使わないと人の目に映らないから、肉体を交換し続けて生きるのよ。今回、私がその体に選ばれたって訳」
アリアは飄々とした様子で矢筒に矢を装填する。
するとシャムロックは、言葉を選ぶようにしてアリアに問いかけた。
「……肉体を使われて、お前の意識は何処へ行く」
「体を献上したら終わりだよ。でも仕方ない。それが人間に唯一払える、安寧の対価だから」
「怖くねえのか。まだ若いだろ」
「あははっ、生まれたばっかのシャムが言う?」
彼女はきゅっと目を細め、白い歯を見せてニッと笑った。
雨の国でなく水の国、定期的に精霊へと献上される依代としての人間。詳しく聞きたい点は山ほどあったが、これ以上の問答は今の私には望めない。
アリアは遠い目をして、己が運命に対する思いをゆっくりと述べた。
「別に怖くはないんだ、本当にね。……国の外は地獄だから。ドワーフの賊と凶暴化したリザードマンが互いの肉を喰らい合う世界が広がってる。だから私たちは、精霊の守護がなきゃ生きていけない。誰かが対価にならなきゃ駄目。それが私になるんだったら大歓迎。皆が幸せに生きられるなら、それ以上の幸せはないでしょ?」
瞬間、ロックが何を思ったのかは想像に難くない。
それは紛うことなき驚嘆の感情。青銅色の弓を持ち、またも生きるために獣を狩らんとする彼女。明日がすぐに途絶えると知りながら、誰かの為に命を懸け続ける哀れな少女。彼女の極度な自己犠牲は、この世界において眩しすぎた。
だが、だからこそ、だろうか。
龍種シャムロックは、一歩踏み出すことを決意した。
「お前が死ぬのは勿体無い。だから、俺が生きられるようにしてやる」
「……同情は要らないんだけどな」
言葉の裏で拒絶を示したアリアだったが、ロックはそれを意に介さない。
赤い
「お前がウンディーネと接触する日。ウンディーネになった後でも構わん、会わせろ。俺が説き伏せる」
返ってきたのは笑い声だった。
私があの時に対峙した彼女と同じはずで、それなのに一切の邪気がない笑い方。あの精霊に肉体を預ける身だというのに、その恐怖は本当に抱いていないらしかった。
「死んじゃっても責任は取れない。勝手に死なれても助けた意味がないよ。だから、まずはその気にさせてくれる?」
「何だ『その気に』って」
相変わらず飄々と、かといって彼の覚悟を本気で貶す訳でもなく。
巡り合った運命の龍種に、アリアは一つ理想を求めた。
「このまま消えるより、貴方と過ごす方が楽しいと思えることかな。あと、名前を呼んでもらえること」
アリアが見せたその笑みは、輝かんばかりに美しく。
故に彼の記憶は語る。この時、自分はアリアに惚れたのだと。
それから、アリアの体にウンディーネが降りてきた。
記憶は其処まで飛躍した。彼が彼女と過ごした時間は自分だけのもので、他者に語る気は無いらしかった。
集落から離れた静かな山の中、小さな祠に祀られて再生を待つ水の精霊。村を出る前、父に指示された日付を迎えて、アリアは祠に肉体を捧げた。その場には誰も居合わせず、アリアは静かに一度目の生を終えた。
真っ黒な髪に少しばかりの水色を混じえ、飄々とした雰囲気の中に明哲さを兼ね備えたような顔つきとなって——より支配者に相応しい相貌で現れた
「水の精霊。お前が依代とした女は俺のモノだ。独り占めは認めない」
「素敵な騎士さんだけど残念ね。精霊の巫女が生を捧げるのは当然のこと。アリアという村娘が進んでそれを選んだのなら尚更よ。その様子じゃ、集落の住人でもない。……私、護る通りの無い相手を生かすほどの優しさは無いけど」
聡明で強き国の王に対し、シャムロックは猛然と反駁した。
「あの人間が生きられない世界に価値は無い。あいつの生きる世界の為なら、他なんざ糞食らえだ」
無形の魔力が激しく昂り、精霊の山を荒々しい風が吹き抜けた。
脅す行為を彼が選ぶ道理はない。ウンディーネが認めなければ、ロックは本当に世界を壊したに違いなかった。
その狂信的な愛情を、水の賢王は数度の会話で見抜いたようだった。
「気が変わった、とでも言えばいいのかしら。話を聴く価値はありそうね」
二人が同時に殺気を解けば、後に険悪な空気は残らない。話し合いは円滑に進んだ。
畢竟、ウンディーネは肉体の使用権を一時間だけアリアに認めることにした。
……既にその点において、私はウンディーネに違和感を覚えていた。悪性に溢れた彼女が、他者の、それも市民の意見に耳を傾け、譲歩の姿勢さえ見せている。先の違和感と同様だ。
今、私の存在は無いに等しい。ただ、正しく顔が存在しているのなら、きっと酷い顔をしていたに違いない。
シャムロックがウンディーネ、アリアの両名から認められたのは言うまでもない。
改めて国の統治者として迎え入れられたウンディーネに、その右腕となって就いたシャムロック。外や他の精霊との関わりに日々を追われながらも、彼らの逢瀬は毎日必ず約束されていた。
その僅かな間だけ時を同じくした二人は、さりとて想いを尽かすことなく、互いを貪るように愛し合った。その記憶も、当然ながら彼だけのモノだ。私は彼の記憶を事実としてのみ知った。
シャムロックが私に見せてくれたのは、交わりの無いある夜の会話だけだった。
「……なぁ、ウンディーネ」
「様くらいつけなさいよね。アリアの時とは大違いよね」
「アンタはアンタ、アリアはアリアだろう。似ていても別だ」
「本当、アリアが惚れた意味が解らない。……それで、何。話しておきたいことって」
藍色のキャンバスを満天の星が彩っている。
生暖かい空気が流れる中、精霊と従者が住まう宮殿の屋根で二人は語った。
「アンタは何故俺を雇った。アンタに文句を言ったあの日、俺はアリアと出会って一年程度だった。なのに、アリアもそうだ……得体の知れない奇妙な俺を、魔法すら碌に使えない俺を、何故疑いなく手元における」
その時シャムロックに去来したのは、自分が肉体を持った時のこと。彼を襲ったリザードマンは酷く飢えていて、きっと彼を喰らうつもりだった。弱い存在も奇妙な存在も、この世界においては情け容赦なく切り捨てられる定めにある。
なのに、何故か。彼の問いに対してウンディーネが返したのは、あまりに優しい言葉だった。
「逸れものは肉になる。これが魔王の定めた世界の掟。だけど全世界が同じ掟なんてつまらないでしょう? せめて私の国くらいは、どんな生き方だって生きられる場所にしたいのよ。私たち精霊は、そうなれずに滅んでしまった」
空を駆ける黄金の星から、隣に座るシャムロックの横顔へと視線を向けて、ウンディーネは微笑を浮かべた。
「水の国は楽園であってほしい。苦しむヤツは見てて気持ちが悪いから、作らせない。だから貴方の異質さは別に関係ない。それに応えた少女がいたから、私もアンタに応えたのよ」
「あぁ、よく似ている。アリアが死を恐れなかった理由も、アンタとそっくりだった」
「当然。視座が一緒の人間じゃなきゃ、体を貸しはしないもの」
アリアとウンディーネ。安寧を求める優しき二人は、きっと同じ星空を見上げていた。
故にロックも、その願いが叶うことを星に祈るのだった。
◆
……これはあまりに古びた記憶。彼が己の奥底から引っ張り出した、十数年前の大切な思い出。
でも、記憶は全てを同時に語る。
だから私は、今後二人に訪れる運命の全てを、このセピアの映像が終わった時に知ってしまった。
変えようのない未来、避けようのない悪夢。今なお終わることのない裁定。
それは、人の罰というにはあまりに辛すぎるモノだった。
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