第47話B 露命

 全身に冷たい雨を受けながら、ただひたすら前へと突き進む。その背には僅かな意識で呼吸を繋ぐファルセットがあった。

 しかし目的の場所はない。回復魔法使いとの繋がりを持たない現在、休める場所であればそれ以上に求める物は無かった。

 不規則で弱々しい鼓動と、恐怖すら覚える程の熱を発する人の肌。二つの危険信号が途絶えた時こそが、私に残された時間の終焉となる。

「ファルセット。暫く持ち堪えてくれ。今助ける」

 思いつく限りの言葉でファルセットの意識を繋ぎ止め、一歩一歩に意識を配りながら進んでいく。

 纏う服に生暖かい液体が溢れる感触は、紛れもない死へのサイン。己が心臓の鼓動を早めまいと、私は深く息をついた。

 すると不意に、一つの公園が目に入る。この国では役に立たずとも、屋根と椅子が並ぶ場というだけで、今は十分に価値がある。

「少し揺れるぞ、ファルセット」

「っ……」

 細かな振動が肉体に伝わる。私は横並びの椅子に毛布を一枚引き、その上にそっとファルセットを寝かせた。鞄の中からタオルを一枚取り出して、彼女の顔と髪を拭いてやる。また別の布で出血部を抑えてから、私は持ち合わせる道具の数々とファルセットの状況を確認し始めた。

 しかしいくら魔道具とはいえ、これだけの重傷を回復に運べるだけの性能を持つものは此処に無い。

 私は自らの内に確かな焦りを感じつつも、同時にネリネの言葉を思い出した。

 ——下手な焦りは身を滅ぼす。

「……そうだ、落ち着け。考えれば思い付かないことなんて無いんだから」

 考えろ、と言い聞かす。雷で他者を癒す魔法を。死傷を元の形に回復してやるだけ強力な詠唱を。

 思考を必死に巡らせる中で、浮かんでくるのは重傷を負った者を見た時の記憶。義兄と故郷が滅ぼされたあの時、目の当たりにした鮮烈な滅亡——彼らを助けることが出来るのなら、どのように魔法を組むか。単純に傷を覆い隠すのでは不足する。全ての傷を確実に塞がなければ、死に向かう命は救えない。


 想起するのは懐かしい記憶。殺すことを極めたのは、己の滅亡を恐れるためだった。一撃で絶命させる力を身に付けたのは、やはり滅びたくないからだ。

 故に私の力は他者の命を背負わなかった。誰かの為に命を背負う、その覚悟を決めるこの時までは。

「キミは死なせない。殺すことにしか能がない魔法なら、——!」

 高らかに叫ぶのと同時、右手をファルセットの傷口に向ける。放たれたのは緑を帯びて荒れ狂う白色の稲妻。怨敵を殺める力と何一つ変わらない猛烈の象徴は、患部に触れるその直前、私が唱えた言霊コードによって在り方を変える。


露命繋ぐ小さき一条ソメイユ・アクセル


 光が傷口に触れた。荒い呼吸で虚空を見つめるファルセットが、その時僅かに呻き声を上げる。糸のような細やかさで小さく動いた希望は、溢れんばかりの血を押しとどめ、裂傷を根本から癒してみせた。

「一度につき傷一つか。……十分だ」

 私は無数の傷口を魔力で包み込み、その動作を繰り返す。川に流された為だろうか——傷が多量の血を流しており、宝石一つを消費することで漸く治しうる怪我の容態だった。

 それだけの魔力が尽き、詠唱が終了し、その血を拭い続けた布が真っ赤に染まり切った頃。

 ファルセットは平生と変わらない様子で、穏やかに息を立てて眠った。生と死の狭間を彷徨っていた彼女は、生の側に戻ってきた。

 手持ちの魔力が殆ど尽きた為か、命を預かる特有の緊張から解き放たれた為か。瞬間、私は思わずその場にへたり込んだ。

「流石に、気を張りすぎたか。ファルセットが起きなくては話にならないが……この状況は一体」

 誰にでもなく独り言ちて、私は周囲の空気を目一杯吸い込む。

 魔力を寄越してファルセットを目覚めたせたのは、それから数分が経過した後のことになった。



 目覚めたファルセットに従って、適当な廃墟を宿場に選んだ後の話。

 木々をべて起こした火のもと、私達は情報交換を行っていた。

「何はともあれ、無事で良かった。君達が雨の国を訪れたのは三日前で相違ないな」

「その通りです。涼華と別れたのは昨日の晩ですから、現在の動向は解りません。ただ、こちらの戦いは既に佳境へと差し掛かっています」

「先の傷はその際に負ったもので相違ないな」

 私の問いかけを受けて、ファルセットは途端に神妙な顔つきを見せる。己が味わった屈辱を思い出したのか、そこには激しい怒りが見え隠れしていた。

「敵は精霊だろう」

 持ってきた保存食を火の前に広げて適当に焼き、私はそれをファルセットに投げる。

「私は向こうから助っ人として来たんだ。詳細を教えてくれるか」

「承知しました。……涼華と私がそれぞれ一度、彼奴と刃を交えました。しかしどちらでも奴を仕留め切るには至らず、その二度で、簡単には癒えぬ傷を負わされています」

 私は続けて仔細を問う。するとファルセットは徐に食料へと手を伸ばしながら、驚異的な奴の特徴、並びに戦いの結末を語り始めた。

「この国のメカニズムさえも支配する奴が力の源としていたのは、単なる魔力に加えて、千年間蓄え続けられた呪いでした。奴との決戦を迎える前、私達はそれを裁く戦いに向かったのです。結果は成功に終わり、——雨が弱まったのもこれが理由ですが、ウンディーネは確かに弱体化しました。しかし奴はその日に襲撃を仕掛けてきた。……涼華ともう一人の協力者を逃してから、私は奴と戦闘しました」

 食事の封を開けて一口目を喰らい、視線を再び彼女へと戻す。

 ファルセットは空の鞘に視線を落とした。

「本気の奴が放った攻撃は外れません。能力などではなく、ただ単純に。奴と対峙しようものなら、……まるで狩られる獣の如く、気がつけば窮地に陥っているのです。あの時とて、剣で時間を稼がねば逃げきれなかったでしょう」

 治療の際に見た無数の裂傷を思い出す。それは確かに命を壊す部位を狙って走っていた。傷が急所を削り切っていなかったのは、大方ファルセットの反射神経が長けているおかげだと推測するが。

「ウンディーネが使う魔法の類は何だ。察するに飛び道具が多いと見たが、斯様な切り傷は弓矢のそれではあるまい。刃でも飛ばしてくるのか」

「その通りです。加えて奴の肉体は。川には効力が及ばないようですが、奴の不意打ちから逃れるにはそうするしかないのです」

「成程。魔力量が少ないのなら兎も角、そちらも通常の魔法使いを遥かに凌駕するとはな。まるで弱点がない」

 そう言い切ると同時、私は保存食を獣の如く食いちぎる。私が一切の焦りや驚きを見せなかった為か、ファルセットは軽く目を見開いた。

「……何か勝機が?」

「ああ。そうでなくては此処に来た意味がない。誰を狩ろうと思ったのか、其の身に刻み込んでやる」

 聞いて揃えたウンディーネのイメージと、手元に残る宝石の数。加えて、丸一日の準備の末に作り出した搦手と切り札——それらを照合すれば、勝利の道筋は必然と見えてくる。

真逆まさかとは思いますが、今から倒しに行くつもりですか。いくら策があるにしても無茶だ」

「だが距離を考慮するに、涼華たちと合流するのは難しい。キミが奴の標的である以上、万全でないのに外を彷徨くべきではない。ともすれば、取るべき手段はただ一つの筈だ」

 語気を強めて念を押すと、ファルセットはどこか気圧された様子で、躊躇いがちに反駁した。

「ウンディーネは決して簡単な相手ではない。幾ら貴方とて一人では」

「理解の上だ。引けぬ戦いが世に存在することくらい、キミも承知しているだろう」

 辺りを沈黙が包み込む。

 ファルセットが胸の内で如何なる葛藤と戦っているのかは想像に難くない。しかし、信頼故に理解できる事もある。

 直後、彼女はゆっくりと口を開いた。

「必ず勝利を持ち帰ってください。それが約束できるのなら、私は何も言わない」

「……キミならそう言ってくれると思っていた」

 空の袋を火に焚べて、鞄から懐へと宝石を移して立ち上がる。

 揺らめく炎から手負いの彼女に、そして外の雨へと視線を向ける。踵を返して立ち止まった私は、最後に一つ言葉を残して——また一歩、踏み出した。

「すぐに帰るさ。必ずな」

 殺す為の力と治すための力。此処で得た二つの手段が、昂る感情が、全て莫大な魔力に変わっていくのがわかる。

 外に出れば雨が私の全身を濡らす。雲に覆われた真っ黒な空は、紛うことなき地獄だった。

「必ずだ。必ず、彼奴を殺してやる」

 露命を想う。掛け替えの無い友を奪おうとした獣に対して、もはや何の思いも抱けなかった。

 傷を癒して命を救う。

 新たに掴んだ魔法の形を、理性ごと魔力が包み込んだ。

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