第46話B 赤い雨


 ◇


 土の精霊と対峙した次の日。私は旅の荷物を纏め終えたところだった。

 最後に宝石の数を確かめる。旅に出る前、復讐の機会を見込んで少しずつ貯めていた宝石は熱砂を出る時点でほぼ底をつき、その後間に合わせで作った宝石も、三つを残して土の精霊との対峙に使い切ってしまった。先日に残った魔力の全てを宝石に使ったにもかかわらず、錬成できたのはたった二つだった。

 

 日付が変わって五時間が経過している。二人が起きてくる気配も、街が目覚める気配も未だなかった。

「さて……何も言わずに出ていくのも良くない。少し時間を潰すか」

 誰にでもなく独りごちて、私は屋上より飛び降りる。重力に従って降下する肉体を魔力で空中に留め、最小限の魔力と身体能力を駆使して空を駆け始めた。

 天に根を張る藍色の星空はその殆どを灼熱に食われ、今にも夜明けを受け入れようとしている。

 かつて私が住んでいた森を思い出させる抒情的な空も、所詮はあの男が作り出した箱庭に過ぎない。それを実感した今、この空を手放しに美しいと称えられるだけの心持ちは無かった。

 旱の国を忘れぬよう、広大な世界を順に巡っていく。無数の山に囲まれて過ごすこちら側の人々は、他人の死も簡単に忘れられるだけの平和を享受しているように思える。これは奴が作り上げた平和に他ならない。賞賛されて然るべき事実だ。

 一方、私は忘れていない。数日前に街で見かけた、雨の国に住まう娘を想った女性のこと。同じ旱の国に生きるからといって、その全てが平和と幸福に満ちた生活を送っているのではない。

 表があれば裏がある。奴が裏の人々を虐げていることを、私は絶対に忘れない。

「……そもそも美しい世界シェーン・ヴェルトとて無数の犠牲の果てに成り立つ。私もの人間に過ぎぬと言うのにな」

 未だ陽は上がり切らず、曇天が去った空はどこか淡白で物足りない。

 微かに残る雨の匂いは、誰かに助けを求めていた。



 精霊の国を周って一時間半が経過した頃。

 頃合いかと思って戻ってきてみれば、拠点の中から音が聞こえる。開け放たれた窓から様子を覗いてみれば、朝食の用意に取り掛かるネリネの姿があった。

「おはよう。朝食作りか、手伝うよ」

「ええ、おはよう。でも大丈夫よ、ゆっくり休んでおいて」

「うん。でも驚いたな。キミが起きる前に出立していたかもしれないのに」

「大体わかるのよ。過度な焦りが身を滅ぼすと、貴方は理論で解っているから」

 窓枠に脚をかけて中へ入り、暇潰しの糧になりそうな一冊を見繕う。前の持ち主が使っていたらしい書物には、幼い頃に読んだ絵本の大本となる歴史書の類も散見された。

「何冊か貰ってもいいかな。特にこの創世記、件の古本屋にもなかった」

「……中身をよく吟味して選ぶことね。そのうち本棚ごと持ち歩くことになるわ」

 魅力を感じた書物を五冊ほど抱える私に、ネリネは呆れたような視線と微笑を向けた。その後すぐ魔道具に向き直って、昨日購入したらしいパンに火を通しながら、彼女はノールックでタオルを投げてくる。

「降りて突き当たりに水汲み場があるわ。手を洗っておいで」

 相変わらず器用な人だ。そんなことを頭の片隅で思いながら、私は邸宅の階段を降りた。

 モミジが起きてきたのは、私が朝食を摂り終えて、旱の国を出立する直前のことだった。


 それから数刻。

 すっかり日の登る中、屋上に例の姿見を持っていき、私たちは集った。

「忘れ物はないな、めりあ」

「本は置いていきなさい。濡れて駄目になるわ」

「わかっている、忘れ物はないし本も置いてきた。キミ達は私の保護者か」

 さも当然と言わんばかりの様子が返ってきて、私は思わず溜め息をつく。

 姿を映さない鏡に向き直り、そのまま一歩踏み出した。

 ぼやける鏡面は私を裏側の世界へと誘ってくる。それが地獄だと知りながら、私の心は戦いに向いていた。

 私は最後に振り返り、変わらぬ二人の様子を見る。

「……では行ってくる。次に戻ってくる時は、きっと雨の国が滅ぶ時だ」

 二人の言葉を待つことなく、私は鏡面に飛び込んだ。

 直後、耳に不快な雨の音が届く。意識はそのまま暗闇に吸い込まれていった。



 

 小雨が私の髪を濡らす。それで雨の国に辿り着いたことを察した。

 少し前にモミジから聞いた話に比べれば、雨勢は幾らか落ち着いている。若干湿っぽくなった荷物を持ち上げて、私は眼下に広がる街を見下ろす。どうやら此処は旱の国と似通った崖らしい。私は恐るることなく飛び降りて、適当な民家の屋根に着地した。

「……先決は合流だろうが、それより先に情報を掴むべきか」

 朝に旱の国で巡った場と眼前の景色を照合して、自分がいる大体の位置を悟る。

 往来に誰もいないことを確かめ、私は屋根から飛び降りる。旱が乾かした分を濡らし切れていないのか、地面は硬く乾いた感触がした。

 視線を正面に向けた時、其処には川があった。私はそれを目印として探索を始めた。

 現在の時刻は不明。ただ声を発しても言葉は一切返ってこず、立ち並ぶ建物の窓にも灯りはない。

 尤も、人々が眠っているにしてはどこか不気味な雰囲気が漂っている。喧騒のただ中にいるような魔力のざわめきも、普段は微かに感じられる生命力の類も一切ない。

 死者の国と言われても納得がいく悍ましい世界。これが裏かと、誰にでもなく呟いた。

 眼前に横たわる川を飛び越えた後、私は下流に向かって歩き出した。


 灯りの数は場によって様々で、多数の光が見えたこともあったが、依然として外を歩く者はいない。

 三十分ほどの散策を続けても成果が得られず、私は苛立ちと焦りを覚えていた。

 その時、一つの悪寒が肌に突き刺さる。川の向こう側に視線を送ると、狂気的な目に酷く膨張した肉体——魔王の手に落ちた悪鬼の手下——リザードマンが、灯りの点いた家のドアノブに手をかけていた。

「待て」

 思考を超越して肉体が動く。私はリザードマンの肩に手をかけ、引き倒すと共に顔面を蹴り抜いた。

 駆使した肉体は魔力を纏わずとも相当な速さを伴って敵を地に叩き落とした。私は淡々と右手に魔力を充填し、生成した握槌ハンドアックスを奴に向ける。

「答えろ。この家に何の目的がある」

 明確な殺意を仕掛けたためか、奴は怯えと敵意を剥き出しにした。

 この者が何を喚いていたのかは解らない。ただ、この家の住人でないことだけは理解した。私はそれ以上何も言わず、右手の得物で敵の首を刎ねた。

「……嫌な臭いだ」

 私はそのまま踵を返し、リザードマンが開くはずだったドアノブに手をかける。

 ……鼻腔を掠める血の臭いは、家の外で倒れる奴が発していたものだと思った。ただ、気づかなかったのは私の感覚が鈍った為だろう。ドアを挟んだ向こう側に、心胆を寒からしめるような光景が広がっていた。

 男性が机に突っ伏している。ライトブラウンの机は赤黒に染まっており、その足では子供が眠っていた。その皮膚からは色が抜け落ち、骨が見えるほどに、痩せこけていた。

 目の前の光景とて見慣れているはずなのに、いくら経っても二の句が継げない。

 これは死への恐怖ではない。力無く項垂れる彼らと、賑やかに暮らす旱の国の人間を見比べて、筆舌に尽くし難い吐き気を覚えただけのことだった。

 同時に込み上げてくるのは、雨の国で戦う二人への心配。

 私には、涼華がこの光景を見て正気を保てるとは到底思えなかった。

「斯様な地獄、巡る方が間違いか。気がれる」

 目的は二人の捜索へと戻った。

 失意と衝撃のまま、知りもしない追悼の作法を想像して、私は二人分の生命を弔った。


 脳裏に焼きついた先の記憶を払拭せんと、私は無我夢中で地を駆ける。異様なほどに跳ねる心臓を押さえつけ、何処かに見慣れた顔がないかを探した。灯りの有無など、もう気にしていなかった。

 諸々合わせて一時間ほど進み続け、私の放浪は漸く終わりを告げることになる。

 私は川の分岐点に辿り着いた。雨量が少ないためだろうか、陸の近くにいれば十分に身を預けてとどまれるくらいに水流は弱まっていた。

 分かれ道の一つに人影を見つけなければ、私は素通りしていたに違いない。

「う……」

 先ほど目の当たりにした子供のような姿勢の、赤い髪の騎士だった。

 戦いに邪魔だからと結ばれていた髪の毛は解けている。その赤色が落ちてきたのかと錯覚するほどに濃い朱の鮮血を、少女は余すことなく全身に纏っていた。

「ファルセット!」

 あまりの光景に戦慄すると同時、私はファルセットを川から引き上げる。

 穏やかな水流に乗って、彼女の赤色が流れていく。当の本人に意識はなく、顔面蒼白に加えて呼吸も不規則だった。死はファルセットの目前に迫っていた。

 だが、どうすればいい。私は殺すための魔法しか知らない。このままでは、死にゆく彼女を見送ることしかできない。

 

 不調と苦悩に揺らぐ頭を回転させるも、絶望以外の結論は現れてくれなかった。

「……こうなれば」

 凄惨な赤い雨が私の視界を覆い尽くす。

 それでも未だ、心が折れるには至らない。赤黒く汚れたこの手を用いて、私はファルセットを背負って立った。

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