第四節 刃
第50話A 心の罅
祓われた呪いが、雨の国に如何なる影響を及ぼしたのか。一つ明らかだったのは、常に災害級の量を落とし続けていた真っ黒な雲が薄くなり、降り注ぐ雨の量が大幅に減少したことだ。
「……本当に、呪いが」
「確実に成功だ。俺らが感じられるのは雨の量だけだが、この雨を落としているのは水の精霊だ。呪詛を魔力源の一部に回している奴が受けた被害は想像以上に大きいだろうさ」
精霊狩りのロックが言うのだから、きっとその言葉に間違いはないのだろう。
私はファルセットに視線を送る。肩で息をしていた彼女は、私に気づくと屈託のない爽やかな笑みを浮かべ、その親指でグッドサインを作ってみせた。
ロックは首をすくめながら、次の言葉を付け加える。
「最も、千年分全て祓えるとは予想外だがな。常人の精神力なら、三十人でとっくに限界だ」
「そうだね。私はファルセットに触れるので精一杯だった」
「私に出来ることならば厭わないと決めましたから。それに、私一人でも押し潰される寸前でしたよ。二人の助力あってこそです」
ファルセットは顔を上げ、私とロックに屈託のない笑みを向ける。
本人にはとても言えないが、呪いに打ち勝った時のファルセットよりも、この無垢な笑顔を私は好む。叶うことなら、ファルセットにはずっとこの笑顔でいて欲しかった。
だが、望みは時として最悪の形で裏目に出る。
「直接屠られたいなんて正気の沙汰じゃない。そんなに自殺がお望みなら、川にでも飛び込めばすぐに殺めてあげたのに」
瞬間、全身が警告を発する。
私の耳に届いたのは、紛うことなき
「嬢ちゃん避けろ!」
拙い。奴の青い瞳が私を捉えるのと同時、高密度に出来上がった魔力の輪が私を取り囲んだ。
残る一割の魔力では防ぎようがない。攻撃をノーガードで受けかけたところで、ロックが間に割って入り、私の体を上空に吹き飛ばした。
「折角死ぬのなら精一杯苦しみなさい。たとえ貴方でもそれがいいわ。
生命を殺すことに特化した水の輪が、ロックの肉体を勢いよく締め上げる。
彼の体は螺旋の水流に引き上げられて僅かに上昇した。
「ロック、無事?」
「問題ない。ファルセット、頃合いだ」
ロックは対処を知っていたらしく、顔色一つ変えずに螺旋から抜け出した。
直後に地面へと降り立った私を、鋭い水の刃が襲った。私は咄嗟に身を引いて攻撃を逃れ、ロックの後ろへと引き下がる。
「鼠の癖して足掻くのね。でも死に損ないとストーカーに興味はないわ。……お祓いは貴方の仕業でしょう、赤い女」
ウンディーネの冷たい視線がファルセットに向けられる。
呪詛を前にした時と同等の顔つきで、ファルセットは装飾の失われた剣を構えた。
「訂正するがいい。誰と誰が鼠だと言った」
それでも、水の精霊がファルセットの言葉に返事を寄越すことはなかった。
「駄目ね。貴方くらいの実力があっても、呪いを祓ったくらいじゃ勝てないって解らないか」
「あれだけの人が遺した想いを道具として扱っておきながら、実力が高いと自惚れるか。恥を知れ」
「威勢は百人前ね。でも、そうでなくっちゃ痛めつける甲斐もない。呪いを祓ったご褒美に、貴方を千一年目の呪いに組み込んであげるわ」
ウンディーネは両腕を顔の前で組み、禍々しい蒼黒の魔力を展開した。一方のファルセットも私の託した魔力を全開に解き放って対抗する。
私はロックの前に出て、最前線の様子を必死に窺う。体内に残る一割の魔力では援護が精一杯だが、敵の行動はある程度なら読むことができる。ロックの魔力が残っていればと思い、私は背後の彼に声を掛けた。
「貴方は前に出られる?」
視線はあくまで敵から逸らさず、私はロックに問いかける。
しかし緊張状態が暫く続く中、彼からの返事が来ることはなかった。
「……ロック?」
私が振り返ると同時、彼の腕が私の首に伸びる。
疲労と味方へ見せていた隙を衝かれ、私は一切抵抗できずに持ち上げられた。
「ちょっと! っく、ファルセット!」
ロックはなおも言葉を返さない。
最前線でウンディーネと睨み合うファルセットは、こちらを振り返ることなく、ただ一つ言い残した。
「涼華、すみません。ですが今は、この行動が最適解です。詳しいことを私の口から語る時間はない。全てはロックから聞いてください」
言葉を聞いても、その意図は理解出来なかった。
けれど、私の知らないところで事が進んで、相談なしにこの結論に至っている事だけは明らかだった。
「ふざけないでッ、ちゃんと説明して。これから戦うって時に、どうして離れなくちゃならないのっ」
「避けようのない話だったと今は理解してください。ではロック、一秒たりとも無駄になさらぬよう」
「承知した。こちらは俺が責任を取るさ」
目の前には、弱体化を感じさせない程に冷たい魔力を解き放つウンディーネがいる。私の渡した魔力が残っているとはいえ、万全でないファルセット一人では到底敵わない。
ただ、それよりも。
此処に来て初めて、私は自分の思いをファルセットに打ち明けた。向こうも語ってくれたから、信頼を感じてくれているのだと思っていた。
だのに、何の相談もしてくれなかった。
その事実が私を強く傷つけた。何かが、——大事なモノが、壊れてしまいそうだった。
「嬢ちゃん、口を閉じろ。舌を噛むぞ」
「……嫌」
言ったところで意味がないのは解っているが、この場から離れることは、裏切りを認め、自分の信念にさえ嘘をついてしまうようで、許せなかった。
「私の決断です、涼華。此処はどうか先に。他ならぬ貴方の義務は其れにあるのですから」
ファルセットが気を遣って言葉を選んだということは考えるまでもない。
たとえ問い詰めたくっても、そうしようものならば、この関係には修復できない
私は、自らの崩壊を認めるしかなかった。
「……お願い」
眼前の騎士が、胸を撫で下ろしたような気がした。
黒い龍種は何も言わない。魔力を魔法に換えて、自身と私を遠くに射った。
視界はぼやけ、騎士の姿は遠くなる。
私たちが消え去る頃にはもう、戦いは始まっていたように思われた。
拠点に戻って熱が冷めると、次に無力さが私を襲った。
「どうしてファルセットを置き去りにしたの。それ、元々考慮に入れてたってことだよね」
怒らずにはいられなかった。ただ、私の反応も全部読まれているようでやるせなかった。
ロックは私から目を逸らさない。自らのこめかみを抑えながら、茜色の瞳を私に向けて、声を絞り出すように言葉を返した。
「呪いを祓う話をした時、約束した。もし先んじて嬢ちゃんに伝えれば、絶対に反対の言葉が返ってくる。だから怒りを買ったとしても、目的をいち早く達成させるためには必要だと」
「はは。何それ」
先には伝えない。それは悪い意味での私に対する理解。
悪意のない彼らの判断は、如何なる攻撃よりも深く私の心に傷をつけた。
「私、そんな信頼できないか。……そっかぁ」
努めて明るく声を出して、私は必死に天井を見上げる。目頭が熱くなっていくにつれて、ぶつけたかった筈の感情は、全てが虚しく霧散していった。
するとロックは勢いよく立ち上がり、私の震える拳を取った。
訳も分からず落ちる涙が、彼の堅い掌に落ちた。ただ、目の前の彼も、どこか切ない顔をしていた。
「ウンディーネが来ることは解っていた。だがたとえ誰であっても、ファルセット以外に話す余裕はなかった。……俺には時間が無かった。時間が無いから、嬢ちゃんと論を戦わせる心の余裕がなかった」
時間も心の余裕もない。
ファルセットが口走った言葉と重なるものを感じて、私は思わず聞き返していた。
「——時間が無いって、一体」
言葉の前に、ロックは落ち着いた様子で座り直す。その後、彼は私の前に右手を持ってきた。
「それを裏切りの贖罪の一つとさせてくれ。俺が人と成ってから見てきた全て、包み隠さずお前に見せる。……それでもこの裏切りが許せないと言うのなら、俺はあいつの分も責任を取る」
時間が無い。そう告げるのだから、彼は言葉にしないだろう。
悟ってすぐ、私は右手を彼に重ねた。その動作の意味は知らなかったが、同じ龍種としての感覚か。この動作が記憶を共有するものだと、直感的に理解した。
触れて一秒と経たぬうち、彼の記憶が流れ込んできた。
◆
視界の端に差し込む炎で、目を覚ます。
その時彼は洞窟にいて、その裸体は未だ漆黒の鱗に包まれていた。
炎は自然のモノではない。彼の正面に立つ、どこか狂気じみた眼を持った巨体——それが持ち合わせる松明が、彼の顔面を照らしたに過ぎなかった。
彼は言葉を知っていた。
彼は生き方を心得ていた。それは人の生き方に非ず。
故に、本能が彼を人にした。
「おれは」
生まれながらに成人の肉体を持ち、人ならざる皮膚で身を守る。そんな彼の誕生は、死に始まって終わるはずだった。
獣は獲物を喰らわんと拳を振り上げる。この時既に、彼は死の危機に瀕していた。
獣の脇に突き刺さった矢が、その生命活動を停止させるまでは。
「——嘘、人?」
寸分違わず、無数の矢が獣を射殺す。あまりに精巧なその技術は、人となった
黒い髪に
この端的で明瞭な記憶が、龍種シャムロックの起源だった。
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