第40話A 悪戦苦闘

 。この世界の支配者を前にして気を緩める訳はない。ウンディーネは、私の目では捉えられない速度を持っていたのだ。

 ウンディーネが私の正面に回り込むまで、きっと数秒もかかっていない。空想を疑うくらいに速かった。

「アルビオ「させないわよ」

 私が言霊コードを詠唱するよりも先、酷く冷たい水流が手の形となって私の首を絞め上げた。

 呼吸が制限されて力が入らず、それではウンディーネの手を退けることはかなわない。

 ウンディーネは悪魔のように嗜虐的な笑みを浮かべると、身動きの取れぬ私を、顔から地面へと叩きつけた。想像を絶する痛みと共に汚泥が鼻腔を掠め、更には口の中に入ってくる。頭を力強く押さえつけられてうつ伏せになった状態では魔法の詠唱などできず、背後で何が起こっているのかもわからない。

 そんな中、敵の言霊コードが詠唱された。

「取り敢えず、今日は貴方が玩具でいいかしらね。雨の精霊、嗜虐の拷問レーゲン・ガイスト・フェアグニューゲン

 無防備な背中に容赦のない水魔法が叩き込まれた。それは私から悉く魔力を奪い去り、溢れた水は地面を通じて顔に流れ、窒息を誘発してくる。咄嗟にできたのは単純な状況の整理のみで、この瞬間にも攻めてくる無数の水に対処する方法など私にはとても思いつかなかった。

 段々思考が鈍ってきて、酸素の欠如により意識が遠のいていく。

 死さえ意識した私だったが、ウンディーネは突然水責めをやめた。

 私は二つの大きな手によって、いくらか離れたところにある建物まで投げ飛ばされた。

 防御など取れるわけがない。朦朧とする意識の中、壁との衝突は強制的に私の意識を覚醒させ、代償に体力を一気に持ち去った。私は壁から地面へと倒れ伏し、またすぐに汚泥の味を確かめることになる。

「貴方、被虐癖なの? いくら弱いからってまさか何もできないわけじゃないだろうし。私が使える拷問なんてアレくらい。それよりもっと凄い技、見せてくれるんでしょうね」

「——嘘、だ」

 激しく咳き込んで、体の内から水が溢れてくる。感じたことのない気持ち悪さが体を蝕む中、それらに耐えながら、ぼやける視界で眼前のウンディーネを捉えておくことが精一杯の抵抗だった。

 以前、ネリネが言っていた言葉を思い出す。水の魔法を操る彼女は生まれつき繊細だと言っていた。その繊細さがネリネの器用さを作っているのなら、それは緻密であるとも言えるだろう。

 水属性の緻密さと、雨の国を維持するだけの膨大な魔力量。それがあれば、自らの位置を瞬時に変えることもできるのではないだろうか。

 ウンディーネは決して速いわけじゃない。空間を入れ替えているだけなのだ。

 だが、それが判明したところでどうしようもない。

 一撃必殺を得意とする私にとって、この手の相手は不得意分野。どころか、属性不利が重なれば状況を打破する手立てが全くないことになる。

 メリアがここにいてくれたなら……そんな希望を抱いても、私を襲うのは苛烈な暴力に過ぎなかった。

 ウンディーネの放った魔法が二度私を打ちつけた。私が意識を取り戻したのは三度目で、咄嗟に身を投げて難を逃れることに成功する。

 そこで初めて、私はウンディーネの狂気に満ちた顔を見た。

「これでも諦めないんだ。リザードマンより弱い生き物の癖して、人間って頑張るのね」

「ふざけないで——」

 ようやく生まれた攻撃の隙をついてアルビオンを展開し、すぐに装填できるだけの魔力を一気に込めて解き放つ。サラマンダーを倒した時の一撃に比べれば威力は圧倒的に落ちるが、ウンディーネの動きを遅らせるのには十分だった。反撃で飛んでくる無数の魔法を回避して、私は今度こそ空に舞い上がった。

 体を黒い粒子に作り替え、先程と同じようにドラゴンへと変身する。

 私は地上に降り立つウンディーネを見据え、口より無数の礫を乱射していく。巨大な炎の礫は勢いよく降り注ぎ、雨ではかき消されない力を以てウンディーネに襲いかかる。……たとえ街を傷つけることになったとしても、この支配者を逃すわけにはいかなかった。

 ウンディーネは背中より生えた巨大な二つの手を駆使して炎の礫を払い除けて、ドラゴンを落とそうと舞い上がってくる。

「巫山戯ているのはそっちでしょう。税の納入を妨害するなんてどこの蛮族——いえ、龍種なら納得がいく。貴方、余計に忌まわしいわ」

 瞬間、またウンディーネの体が消失した。

 突然目の前に現れた彼女は私に殴りかかってくるも、この質量があれば吹き飛ばされることはない。相性不利に厳しさを覚える部分もあるが、ウンディーネの相手をしているのは他でもない私自身なのだ。ここで退くことも泣き言を呟くことも、何の解決にもならないのだから戦うしかない。目の前に現れた支配者へ体当たりを狙った私だが、ウンディーネの消失が僅かに早く突進は命中に至らない。

 直後、私の視界が恐ろしい揺れを起こして僅かに地面と接触する。

 翼を駆使して墜落からは逃れたものの、上を取られてはやはり不利だ。一陣の風ガストを使って飛翔すれば、まだ逆転の余地は残っているはず——。

 そんな思考すら許さずに、水の精霊は笑い声を上げた。不快な嘲笑だった。

「この領域内で私に勝ちたければ、大英雄でも連れてくることね。螺旋の嵐スピラル・タンペット

 その詠唱と同時、降りしきる雨が時間でも止まったかのように静止する。幾千もの水滴が不気味な世界を作り上げたかと思えば、ウンディーネの指示に従うようにそれぞれが一つとなり、螺旋状になって私を包囲した。

 それは降っていた雨が止まって一つの形になっただけに違いない。しかしこの大雨、毎秒地面へと降り立つ水の量は計り知れない。それらが全て一つとなり、私の体を力強く締め上げてきた。

 ドラゴンの力でも解けないくらいにきつく縛られて、身動きが完全に封じられてしまう。螺旋になって私を拘束するその水は、変身を解けば間違いなく逃れられるだろう。しかし人間の体ではこの竜巻とさえ呼べる水流には耐えられないし、仮に逃れられたとしても再びドラゴンの体に変身できる保証はない。きっと人間の姿に戻った瞬間にウンディーネに体を射抜かれて終わりだ。

「貴方は楽に死なせない。徹底的な拷問の後、もう二度と後続の出ないようさらし首にでもしてあげようかしら」

 螺旋は常に流れていて、あらゆる力を受け流してしまう。巨大な川が私に縛り付いているようなものなのだ。素手で川を破壊できる力はない。

 必死に選んだ抵抗の手段は、ウンディーネに顔を向けて魔力の塊を解き放つことだけだった。しかしそれは彼女の頬を掠めただけで、決定打になりはしない。

「縛られているだけでも厳しいでしょうに、よく戦うわね。でも貴方じゃ私には勝てない。たとえ天地がひっくり返ろうとも。……ってさっきも言ったわね」

 ウンディーネが力強く私を縛り付ける。体が破壊されていく感覚を知って、この体でも太刀打ちできないことを悟った。

 もはや私一人で勝てる相手ではないことくらい、全力を賭したのだから感じられる。

 だから私は前言撤回、せめて最後に一度、最後の悪あがきをしてみせることにした。

「まだだっ……一陣の風ガスト一陣の風ガスト一陣の風ガスト!」

 翼さえも取り除き、左手を除く体の全てを人間の状態に戻した。空中で解き放たれた私は肉体強化の魔法を三連射し、反撃も回避の隙も与えずにウンディーネの眼前まで迫っていく。

「何っ」

 すると、初めてウンディーネの顔から余裕が消えた。

 私は左手に残った魔力に自分の全力を投入し、彼女の腹にその手を当てる。

「——アルビオン」

 手のひらから敵の腹部にかけて、体を焼き切らんばかりの力と共に魔力が溢れていく。巨大な駆動音が轟いたかと思えば、私の顔に真っ赤な返り血が降りかかった。ウンディーネの腹を吹き飛ばせたのは間違いないようだ。


 しかし、当然それだけでは済まされない。

 私の右腹部に強烈な痛みが走った。何か鋭利なもので抉られたのだろう。一方ウンディーネにとってこの一撃は軽いようで、奴の顔にはまだ尽きぬ笑みが残されていた。

「あはははは! やっぱり面白いわ、人間。でも奇跡なんて連続しないのよ。さようなら」

 それは、あまりに致命的だった。

 建物を遥かに越える上空で魔力が尽きてしまった。空に留まる術を失って、私の体はゆっくり宙へと吸い込まれていく。

 地面との距離が迫る中、出血と痛みの衝撃で私は意識を失った。

 この日、完全な敗北を味わった。

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