第22話 █████

 真っ赤な炎が私の眼前で轟々と燃え盛る。

 とさ、と軽い音がした。黒い煙を体から出して、呻き声を上げるメリアの姿だった。

「実に脆弱よのう、人間。呆けた戦士を庇うなど最も無駄な行為だというのに、よくもまぁ抜け抜けと飛び出せるものよ。身を挺して守られるというのはどんな気分じゃ?」

 頭はずっと真っ白で、その心臓がバクバクと跳ね上がる。——そうだ。敵が目の前にいるのに、足がすくんで動かないなんて言い訳して、私は身を守ろうとすらしなかった。

 最悪なんて言葉でも表現しきれない。恐怖、悔恨、憤怒。あらゆる感情が私の頭をぐわんぐわんと駆け巡って、体を流れる血液が沸騰したように熱い。

 ——メリア、ごめん。私のせいだ。

 悔恨の念はとりわけ強かった。負けないくらい怒りも湧き上がっていた。

 震える心身を制御して立ち上がる。

 私の心の中心では、恐怖を喰らった二つの感情が争いを繰り広げていた。昔にもこんな虚しさとショックを受けたことを思い出して気持ち悪くなり、そのトラウマを怒りが焼き尽くす。様々な後悔が湧き上がり、その度に強い怒りが溢れてくる。

「はっ、はっ……」

 ぼやける視界のピントを合わせた時、サラマンダーと目が合った。

 瞬間、私の戦争に怒りが勝った。

「ふざけないで」

 自分の奥から真っ黒な何かが昇ってくる。

 全身を巡る沸騰した血液。熱い力が右腕に集中して、あの時と同じ真っ黒な鱗が出来上がった。

「……ほう?」

 もう制御できなかった頃の私じゃない。背にある二つの重い感覚は、自ら魔法で呼び出したのではない。魔法で生成するよりも更に大きな、黒いドラゴンの翼だった。

「最悪の気分。私はあなたを赦さない」

 四肢が人間の皮膚のまま真っ黒に染まる。体内に宿った魔力は、私を龍人へと変貌させた。


 サラマンダーに体内のあらゆる意識を向けて、私は問いかける。

「なんでエルフの人たちを襲ったの。あなた、土の精霊の部下じゃないでしょ」

「彼らが脆弱だから。我々に保護される方が、魔王の下より何倍も幸せに生きていける。違うか?」

「魔王のことなんて知らないよ。私はあなたが鏖殺を楽しむ理由が知りたいの」

「聞いておれば人間風情が。いつから火の精霊に物を申す立場になった」

「聞いていれば精霊風情が。我欲で自分の部下も何もかも殺す暴君に、誰が支配されたいのよ」

「小童が支配者に指図するな!」

 

 激昂したサラマンダーの両手から歪な魔力が発せられる。

 どす黒く変色した禍々しい炎が迫ってきて、私はそれらを右の鱗で弾き飛ばした。

「よくわかったよ。あなたがメリアを傷付けたこと、まずは赦さないから」

 体が想像の何倍も疾く動く。意識を攻撃に集中させて突き進むと、次に私が気がついた時には、既にサラマンダーの鳩尾目がけて攻撃が届いていた。

 真っ黒な左手を炎が包む。白い煙がサラマンダーの鳩尾から溢れてきた。

 敵の顔から余裕が消える。怒りを露わにしたサラマンダーは私の体を掴み、呪うように次々と言霊コードを詠唱してきた。無数の炎に包み込まれて、私は体が焼け切れるほどの熱に襲われる。

 それでも苦しみは覚えなかった。絶対に倒すべき外道を前にして芽生えた怒りが、あらゆる攻撃が伴う苦痛をシャットアウトした。

「効かない」

「なッ……違う、違う! 小娘如きに我が力が防がれるなど有り得なイ!」

 言葉にならない叫び声と共に、火の精霊が乗る怪物が暴れ始める。サラマンダーの手から離れた私の目の前に、返り血のこびりついた尻尾が襲い来る。

 世界の動きがとてもスローに見える。自分の思考と体以外、周りの全てが遅く感じられた。

 私は尻尾を右の鱗で受けて掴んだ後、力のままに投げ飛ばした。

 サラマンダーは何が起こったのかもわからない様子で地面を転がっていき、化け物の下敷きとなって苦悶の声を上げる。

「火の精霊。この攻撃は本当に自分の意思?」

 相手の一挙手一投足に注意しながら、私はそんなことを問うてみる。返答次第と思ったのだが、返ってきたのは答えにすらならない低劣なものだった。

「黙れ。このオレこそ精霊サラマンダーだ! 誇り高き我の行動をジャマスルナッ、あああああ!」

 サラマンダーにのしかかった化け物が丸ごと投げ飛ばされ、私に迫り来る。それに衝突して私は確かに吹き飛ばされたが、ふつふつと湧き上がる怒りと憐憫の感情を前にしては、視界の揺らぎ以外に負傷はない。

 それが余計に怒りを買ったのか、サラマンダーは喉が裂けるほどの叫び声で言霊コードを詠唱した。


荒れ狂う精霊の焔ハイデ・ガイスト・ヴルカーン


 サラマンダーの咆哮が辺りに轟いて、砂漠から炎が迫り上がった。

 炎が私を包み込む。

 少しの間黙っていれば焔は消えて、狼狽えるサラマンダーの姿が目に入った。

「待て。なぜ傷一つ付いておらぬ」

「さっきの言葉」

 敵の顔に動揺が生まれる。

 藍色の空を駆け抜けて、私は拳をサラマンダーの腹目がけて叩き込んだ。硬化した右腕が固まった拳は強烈なもので、ただ打つだけでも体を砕く威力になる。

 サラマンダーから距離を取ると同時、私は左手で炎を投げた。

「そっくりそのままお返しする」

「ぬぁアァァァァ!?」

 拳とはこう穿ち、炎とはこう放つ。

 私はサラマンダーに最大の屈辱とダメージを与えた。


 あらゆるものを焼き尽くせるだけの強さと、隅々まで冴え渡る海のように広い理性。

 ドラゴンの装甲を纏った私は二つの力に守護されていた。


 狼狽するサラマンダーが取った次の行動は、今まで目もくれなかった雑兵への指示だった。

、やれ!」

 尸のように動きを停止していたリザードマンたちが、サラマンダーから発せられる禍々しい魔力に当てられて起き上がる。彼らは飛ぶことすらできないはずなのに、魔力に浮かされて私の腕を強く掴んだ。

 今までならば、こんな時にどうすればいいかわからなかっただろう。

 しかし、広く深い理性を手にした今の私には造作もないことだった。


『その手を離せ。私こそ████の█である』


 ただそう告げるだけで、リザードマンはまた意識を手放した。彼らの肌に浮かび上がった禍々しい紋様は消え去って、見慣れた通常の姿が砂漠に横たわる。

 意表を突かれたのだろう。サラマンダーは私を前にして動きを止めた。

「いい加減、本気で来なよ。私はもう手を抜かないから」

 互いの魔力が炎となって燃え盛る。

 止まらない戦いの熱気に包まれた戦場で、空に立てるのは私とサラマンダーだけだった。


 火の精霊は飛び上がり、私の眼前で静止した。

 同時、サラマンダーの様子が変わった。理不尽に命を扱う禍々しさは消え去って、煌びやかな炎を纏う女戦士がそこにいた。

「……いいだろう。あのような醜き姿を見せるなど、失礼に値したな」

 火の精霊は口の端を小さく上げて私を見る。そして、一つの問いを投げてきた。

ドラゴンの力を使う白髪の戦士よ。敢えて問おう……貴様は何故、絶対の支配者を前にしてなお闘う?」


 魔法大戦。多くの者が自分の愛する者のため、騎士としての誇りを守るために闘争する戦い。しかし、私には無我夢中になれるほど愛する人や、命を賭けるだけの矜持は知らない。

 何故のか。

 気など、初めはなかった。苦しむメリアを夢に見て、救いたいと思わなければ、私の物語は始まらなかっただろう。

 先の通り、狂うほどの愛ではない。それでも、メリアとあれこれ言い合いながら旅をして、少しずつ成長していく日々を好いていた。そんな気持ちに伴う実力をつけるため、必死になって足掻いてきた。

 狂愛でも矜持でもないけれど、結局のところ。

 私が変わるきっかけをくれたのは、そう。

「盟友だ。盟友を地獄から救って、一緒に笑い合える世界を作るために私は闘う」

 サラマンダーの心に応えるように、私は彼女の赤い双眸を見た。

 火の精霊は何も言わない。何かを噛み締めるように暫く動きを止めた後、顔を上げて漸く言葉を口にした。

「ふっ——見事。魔王に呑まれし我が心、貴様にならば打ち砕かれても惜しくない」

 同時、サラマンダーの魔力が爆発的に膨れ上がる。砂が煌々と燃え盛って焼けただれ、溶岩がドロドロと流れていく。

 彼女の焔に負けないくらい、私に宿る意志も強いものに違いなかった。

 ドラゴン右手と人の左手。二つに違うだけの魔力を込めて、私は人の手をサラマンダーに向けた。

「来い。その蛮勇を認めよう」

「上等。最大の敬意を持って貴方を斃す」

 私が炎を放ち、サラマンダーがそれに合わせて魔法を詠唱する。

 炎と焔のぶつかり合いが幕を開けた。


 全力の魔法は相殺されて爆風をもたらす。

 凄まじい煙の中に私は飛び込んで、同じく向こうから現れたサラマンダーに右腕を突き出した。私の顔面にもサラマンダーの拳が直撃するが、より深く届いたのは黒い鱗の方だった。

 サラマンダーは軽く吹き飛んだものの、すぐさま体勢を立て直して魔法を詠唱する。


其は天に咲う、火精の大輪ファイヤーヴェルク・ガイスト・ラウホ


 輝きを伴う魔法が超速で迫り来る。炎の種は私の眼前で煙を発して、その直後に焔の大輪を咲かせて爆発した。

 あまりの眩しさに私の視界が奪われたその時、全身を包む灼熱と腹に響く重いものを感じた。

「ぐ……う、あ、アアアアア!」

 叫び声を上げたのは私ではない。攻撃を数度命中させて優位に立ったはずのサラマンダーが、空を裂くほどに強い叫び声を上げていたのだ。

 歪な魔力の正体を私は知らないが、サラマンダーの中にあった狂気の真実がこれだったのではないかと思う。

 それでも私が攻撃の手を緩めることはない。火の精霊は全てを悟った上で私の蛮勇を認めたのだから。

「だあああああ!」

 鱗に覆われた右の拳を強く握って意識を全て集中させる。呻き声を上げるサラマンダーの顔面を、一切の容赦なく私は殴りつけた。

 血が私の顔面に跳ね返る。赤く染まった視界の中、半ば自分の力に驚愕しながらも炎を解き放った。


最初の灯火プルミエ・フラム


 殆ど言葉にならない詠唱と共に私の左腕が暴れ出し、サラマンダーの爆撃にも負けないだけの炎が放出される。

 完全詠唱でもなんでもない、ただ一つの宣言に過ぎない。しかし、もたらされたのはあまりに大きすぎる力だった。炎はサラマンダーの肉体を燃やし、一切の防御を許さずに装具を焼き切った。

「はははははは! それでいい、それでイイ……!」

 最大級の炎に包まれたサラマンダーは、最後にどちらのものともわからぬ笑みを浮かべた。

 直後に現れた紫の魔力と共に、火の精霊は炎を振り切り、私たちのいる空中から更に天井へと上昇した。

「ッ!」

 直後のことだった。私は燃え盛る藍色の空で、サラマンダーの暴走を目にした。

 

「け、決着ヲつけようぞッ……アア゛ッ、これで、コレデ終わりニ」

 サラマンダーの白目は黒く変色し、肉体からはあまりに禍々しい魔力が溢れ出す。何かに争うあの悲鳴が一体何に対するものだったのか、完全に理解した。サラマンダーの意識と肉体は、本人以外の何者かに蹂躙されていた。

 

 気がつけば私たちは、エルフの砂漠が一望できるほどに高い場所に到達していた。目につくのは依然として確固たる守りを誇る王の城と、向こう側で輝く赤い炎ヴァンクール碧い槍ネリネ

 魔力が一点に集中するのをすぐそこで感じ取った私が視線を飛ばすと、その先には、王都に向けられた人差し指。炎と闇の魔力が瞬く間に広がって、王都を一撃で消し飛ばすに足る魔法が展開される。

 駄目だ。

「うあああああ!」

「邪魔を、邪魔ヲスルナ!」

 サラマンダーの声に何者かの声が重なる。精霊としての誇りを守ってあげるために止めないと。今全てを守れる者は、この空に在る私以外には存在しない。

 私は王都を背にして、今にも放たれんとする魔法を受ける準備をする。


 ただ庇うだけじゃ抑えられない。恐らく先ほどまでの比にならない一撃が飛んでくる。抑えられるのはサラマンダーごと弾き飛ばせるだけの力、すなわち超強大な魔法。

 ドラゴンの姿になるのも一つの手段だが、肉体に相当な負担がかかる。苦痛に耐えた上に魔力を使い切れる可能性は正直に言って低いだろう。

「このオレにも抑えられんのだ……いくら貴様とて耐えられぬッ、ニゲろ」

 サラマンダーは私を守るため、必死の形相で撤退を求めてくる。絶対悪じゃないとわかった彼女を傷つけるのは嫌だ。どうにかして魔力の支配から救ってあげたい。

 であれば、なんとか受け切る方法だけを探す? いや、それはもっと駄目だ。私の知る四人がここに万全の状態でいなくては、私の我は通せないだろう。

 刹那に脳裏を過ぎったのは、怯える私を全力で庇って瀕死に陥ったメリアの姿。千年続く魔王の支配にも決して屈する素振りを見せず、毎日を必死に生きるエルフや人間たち。

 幾千にも輝く明るい希望を捨て去ってしまう。そんな未来、私は選ばない。

 たとえ目の前の苦しむ人物に、力を向けることになったとしても。


 鱗を纏う右の腕をサラマンダーに向ける。足りない。

 真っ黒に染まった左の腕を添える。今思いつく、最大限の炎魔法は使える。それでもきっと足りない。

「どうか私に、世界を救うきぼうの力を」

 █████はじまりの龍

 この姿を最大限に利用して、たったの一撃で全てを覆す魔法。

 


「うあ゛あああああ」

 サラマンダーの指先から、王都を消し炭にするだけの力が解き放たれる。

 真っ直ぐに狙いを定めて、堕ちてくる二色の魔力に向かって詠唱する。

「この戦い、全ての罪は私が背負う。だからどうか、想いに応えて——!」

 世界を壊し、守り抜く。

 その一撃、始まりの龍の名前を口ずさんだ。


『アルビオン』


 瞬間、私の肉体に在する全ての魔力が放出される。

 星にも届く勢いで、その一撃は空を翔んだ。

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