第7話 不穏な影

 アイリスたちが決意を新たにして飛空艇に乗船していた頃、ユリイカよりも遥か遠く離れた空の上、黒々しく巨大な雲の中を悠然と進んでいく一つの船があった。


 まるで嵐を閉じ込めたかのような荒々しい雲の中は高密度のエーテルで形成されていて、そのすべてがやがて化け物の餌となるようなおぞましい空間だ。


 本来ならば誰しも避けて近づかないようなそんな雲の中を進むその船は、一見すると飛空艇と同じぐらいの大きさだが、その姿は似ても似つかないものだった。

 

 翼もなければ浮力を生み出す為のプロベラでさえ存在しない。

 錆び付いた黒い鉄板を張り合わせ、不気味なネオンの光を放つその姿は、かつて科学文明時代に『軍艦』と呼ばれていたそれに等しい形をしている。

 

 まさに宙に漂う要塞ともいえるようなその船の中では、この嵐よりも不気味で不穏な影が蠢いていた。


『不服そうだな……アンダーソン』

 

 蝋燭の灯だけが照らす薄暗い室内で、ノイズが入り混じったような男の声が響いた。その声に反応して、室内の片隅で壁に背をつけていた大柄な人物が顔を上げる。


「……当たり前だ。『主』はなぜ今回の仕事を俺によこさなかった?」

 

 怒気を滲ませた声を発しながら、壁に背中を預けていた男が一歩前へと出る。

 筋骨隆々としたその身体はゆうに二メートルは超えているだろう。暗闇の中でも不気味に光るその瞳が向ける先には、大窓を背にして立派な机と椅子が置かれていたが、そこには誰の姿も映っていない。


 代わりにその机の上には、ふくろうの形を模した置物のようなものが置かれていた。


『主は最も適した判断を下されただけだ。……つまりお前だと役不足ということだろう』

「なに?」

 

 大柄な男の怒気が一段と激しさを増す。その瞬間、彼の周囲に存在するエーテルが異様なまでの熱を帯び始めたのだが、今度はそれを制するかのように別のところから声が届く。


「やめなさい。男のくせにみっともないわよ」

 

 男が立つ場所とは反対の壁側、そこにいつの間にか現れていた女が苛立った口調で言う。声音からしてまだ年若そうではあるが、それでも大柄な男に対して気後れしている様子は一切ない。

 すると怒りの矛先を変えた男が相手の顔を睨む。


「みっともないだと? 俺はこの機会を二百年も待っていたんだぞ!」

 

 男の激昂と共に壁を激しく叩きつける衝撃音が暗闇の中で響き渡った。一瞬でも気を抜けばすぐにでも襲いかかってきそうなほどの容赦のない殺気が辺りを包み込む中、今度は部屋の片隅からまた別の声が届く。


「たかだか二百年ごときで何を騒ぎ立てることがあろう。『タイムズスクエア』、それに『リヴァプール』の時にもチャンスはあったが、それを反故したのはお前さん自身だろうに」


 まるで魂が枯れ切ったようなしわがれた老爺の声。

 その声の主は車椅子にでも乗っているのか、錆びついた車輪の音を響かせながらゆっくりと姿を現す。

 すると同じ方向から、今度はクスクスと無邪気に笑う少女たちの声が響いてきた。


「つまりこれは、あなたの自業自得」

「そう。これはあなた自身の自業自得」

 

 場違いなほど幼い声を発しながら、暗闇の中から出てきた二人の少女。いや、二人と呼ぶにはその姿はあまりにも奇妙で異質だった。

 

 髪の長い少女たちのシルエットは瓜二つといえるほど左右対称ではあったが、横並びに並ぶ彼女たちの身体の輪郭は、なぜか横腹から腰の部分にかけて完全に一体化しているのだ。

 それでも少女たちは何一つ不自由なさそうに、器用にそれぞれの両手両足を動かしながら自分たちのいつもの定位置に着く。


「ほほほっ、自業自得。まさしくその言葉がピッタリではないですかアンダーソンくん。主は我々にいつも平等に機会をお与えになる。それを活かせないのはまさに自分自身の失態によるもの」

 

 突如道化のような胡散臭い声が聞こえてきたと思いきや、足元に広がる影の一部分が盛り上がり始めた。

 そしてそれはすぐに人の形を成したかと思うと、中からシルクハットを被った細身の男が現れる。


「まあ心配しなくとも主は寛大だ。すぐに次のチャンスを下さるはずさ。……それにしても」

 

 影の中から現れた男はそこで言葉を止めると、嵐吹き荒れる窓の外を見つめる。そしてまさしく道化のごとくニヤリと笑う。


「この幻影雲の流れを変えるとはかなりのやり手もいたものですねぇ。できれば是非とも

私のコレクションに加えたいところだ」

「はぁ、貴方のコレクションに加えられるぐらいならいっそ自分で腑を切り出して死ぬほうがよっぽどマシね」


 彼の発言に、アンダーソンに最初に噛み付いていた女が嫌悪感を滲ませてそんな言葉を吐き捨てる。

 けれども相手の男は特に苛立った様子もなければ敵意を向けることもなく、むしろ好意的な口調で言葉を続けた。


「ほほっ、相変わらず毒舌もお美しいですね。ミセス・ソフィア」

「あなたこそ、その呼び方で私を呼ぶなんてよっぽど死にたいようね。ミスター・フレディ」

 

 二人の言葉によってさらに場の険悪さと殺気が増していく中、そんな空気に嫌気がさしたのか、会話の流れを変えるかのように老爺が再び口を開く。


「だかストリクスよ、こちらはあの二人に任せるとしてもデッソウの研究施設の方はどうするつもりじゃ? あそこも崩壊を始めてからすでに随分と経つ……そろそろ化けるぞ」

 

 枯れた声音で尋ねる老爺の問いかけに反応するかのように、机の上に置かれている梟の瞳が赤く光った。


『案ずるな……それに関してはヴィルヘルムを向かわせている』

「そうか……なら誰かさんと違って安心じゃな」

 

 老爺は皮肉めいた口調でそう言うと小さく不気味な笑い声を漏らす。

 そんな相手に対してすぐに殺気だった視線を向けるアンダーソンだったが、彼が言葉を発するより前に再びノイズ混じりの声が響いた。


「落ち着けアンダーソン……それに今回の任務はあの二人にとっては故郷となる場所だ」


 だから大人しく譲ってやれ。と先ほどよりも強い口調で言い切るその声に、アンダーソンだけでなくこの場にいる全員が思わず黙り込む。


 するとその沈黙を了承の意と捉えたのか、ノイズ混じりの声の主は最後にこう締め括った。


「主はいつでもお前たちの働きぶりを見て機会をお与えになる。……世界を取り戻すその瞬間に立ち会いたいのなら、それだけは常に忘れるな」

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