第五話 傷を持つ者同士

 目覚めた白香の前で、男が火を焚いていた。

 辺りはすっかり暗くなっていて、白香のそばには樫の太刀が突き立っていた。

「お前……!」

 太刀を取って飛び起きる白香を、男は見つめた。その眼からはもう闘志の火が消え失せていた。

「食うか?」

 男は串にした木の枝に突き刺した獣肉を差し出した。腹の音に目を丸くした白香は、良く焼けたその肉を奪い取ると男から距離を取って貪り食い出した。

「別に取りゃあしないよ」

 男は笑った。そして、白香の胸元を指さした。

「楡沢の主、だな?」

 白香は驚きの声を上げる。

「どうして……?」

「俺は川葉せんよう。お前は兄の仇を討とうとしているんだな?」

 白香は串を投げ捨てて太刀を構えようとした。川葉はそれを手で制した。

「待て。俺はここで天狗と戦おうとする奴を追い払おうとしているだけだ」

「なぜそんなことを」

 男は夜空に目をやった。視線の先には、星空を切り取るような〝うるか山〟の黒い稜線がある。

「天狗に勝つことはできない。無駄死にをするな」


***


 二人は岩の上に立って、夜の〝うるか山〟を見上げた。

「あそこに天狗が……」

 白香がそう呟くと、川葉が厳しい視線を送る。

「言っておくが、お前があそこに行こうとするなら、俺は全力で止めるぞ」

 白香は悔しそうに鼻を鳴らして、その場に腰を下ろした。力比べで負けたのは、兄の雲月以来だった。隣に座る川葉の横顔を盗み見て、ぼそりと呟く。

「お前でも天狗には勝てないのか?」

 川葉は答えなかった。代わりに問い掛けてくる。

「兄が殺されたのか?」

 白香は胸元の黒い爪を握ってうなずいた。

「勇敢な男だったようだな」

「兄は粗暴で口も悪く、すぐに騒動を起こしていた。だけど、集落のみんなを守る思いは強かったんだ」

 少し離れた場所で揺れる焚き火の光が白香の横顔をぼんやりと照らす。川葉はそれを一瞥して、思い詰めたような表情を浮かべるのだった。


***


 白香の素早い斬撃が川葉の頭の上を斬る。一歩を踏み出して、白香の懐に潜り込んだ川葉は柄を握るのとは反対の手で太刀の切っ先を掴んでそのまま打ち上げた。白香は堪らずその一撃を顎で受け止めてしまい、吹き飛んで地面の上に背中をついた。木々の隙間から陽光がこぼれ落ちている。

 彼女の手から離れた黒檀の太刀がどすっと地面に突き刺さる。

「そんなんじゃ駄目だ」

 川葉の手にも黒檀の太刀。彼が二本を削り出して作ったのだ。

「まだまだ」

 白香は顎を拭いながら立ち上がろうとするが、膝を突いてしまう。川葉は白香の手を掴んだ。

「いや、少し休んだ方がいい」


***


「さっきの技、私のを盗んだのか?」

 川の水で渇きを癒した白香が尋ねる。彼女が川葉を捉えた唯一の技だった。

「死を恐れずに一歩踏み出すことで、最良の瞬間を生み出すことができる。あの一瞬でそれをやってのけたんだよ、お前は」

「無我夢中で、よく覚えてない……」

 川葉は口元に笑みを浮かべた。

「お前はまだ心の赴くままに戦っているだけだ。さっきの一撃だって、避けて下さいと言わんばかりだった」

 白香はむすっとして睨みつける。

「そんなことはない!」

「いいや、そんなことある」

 白香がそっぽを向くと、川葉は取り繕うように付け加えた。

「だけど、お前の速さは目を見張るものがある。それを活かすことができれば……」

「天狗を倒せる?」

 身を乗り出す白香の輝く眼に、今度は川葉がそっぽを向いた。

「そんなことは言ってない! 天狗の速さを舐めるな。目を瞑った一瞬で姿を消すことができる……神通力の使い手なんだよ」

 その言葉の端々に心の揺らぎを感じた白香は訊いた。

「天狗のことをよく知ってるのはどうして?」

「俺にもな、妹がいたんだよ」川葉がぽつりと話し始める。「知っているか? 天狗は山の神の化身だ。奴がやることは雨で家が流されたり、雷に打たれるのと同じことなんだ。どうしようもないことなんだよ」

「でも、それじゃあ──」

「頭ではそう理解している。でもな……」川葉は自分の胸に手を当てた。「ここはそう言わないんだよ」

 白香はその言葉を深く心に刻んだ。だが、それでも、彼女の中に燃えるものがあった。

「たとえ山の神でも、大切な人を奪うのを黙って見ていることは、私には絶対にできない」

 真っ直ぐな瞳だった。

 川葉はじっと考えているようだった。長い間考えて、

「いや、でもな……」

 と浮かんだ発想を必死で否定しようとしていた。

「何かあるの?」

「雲を掴むような話さ……」

 白香は口ごもる川葉の胸倉を掴んだ。

「私はもう心に決めてる! たとえ駄目でも、私は行く!」

 川葉はそっと白香の手を握った。

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