第三話 途上の戦い
遠くの山の稜線から日が昇るのを、尾根に突き出る大岩の上から眺めた。雨は昨夜止んで、雲はたなびいていた。朝日が顔を出す方から西へ眼をやる。白香が後にした集落から細い煙が立ち上っていた。今頃は自分がいないことにみんなが気づき始めているだろう。
その集落から北の方は空気がくすんでいるように見える。災いの地がある方向だ。
胸元の黒い爪を握りしめて、白香は覚悟を決めたように大岩の上で立ち上がった。東の方に反り立つ山影がある。あれが〝うるか山〟だ。
捕まえた兎を焼いた跡を見下ろし、白香はふっと息を吐く。微かに息が白く目に映った。もう朝晩の空気には深い秋の気配を嗅ぎ取ることができる。
白香は大岩から飛び降りて、斜面を駆けた。その背中には、樫の木から切り出した不格好な太刀が。彼女が夜通し猪の牙の首飾りで削り出したものだ。
尾根を風のように下って、川沿いを東の方へ走る。途中、川の水を飲んで休憩を挟みながら、白香は〝うるか山〟との距離を詰めていった。
***
陽が落ちて、木立の中に現れた岩肌のそばで火を焚いた。
白香が近くの川から獲ってきた魚を焼いていると、茂みの向こうでこちらを窺う眼が光り出した。葉を掻き分け、小枝を踏み折る音がする。
白香はそばに立てかけていた樫の太刀にそっと手を伸ばして、ゆっくりと立ち上がった。
茂みから躍り出たのは、白香の何倍もの重さがありそうな猪だった。すでに鼻息荒く、後ろ足で地面を蹴って凄まじい速さで白香に突進してきた。それを素早くかわすと、白香は言った。
「お前の縄張りだったのか」
猪の眼は爆ぜる炎をうけてぎらりと光った。怒りで我を忘れているようだった。再び突風のように白香に襲い掛かる。彼女は地面に樫の太刀突き立てて、それを支えにして真上に飛んだ。頑丈な太刀に鼻っ面から突っ込んで、猪はぶるぶると頭を振る。着地した白香は太刀を引き抜いて、猪の側頭部に叩き込んだ。細腕からは想像できないほどの衝撃で猪は転がったが、すぐに立ち上がって鼻水を撒き散らした。
「諦めなさいよ!」
牙を剥き出して突っ込んでくる巨体を横に転がって回避して、白香は駆け抜けた猪の尻に向かって脚力を最大に突っ込んだ。
瞬く間に猪の背後に到達し、その後ろ姿に大きく振りかぶった太刀をぶち込んだ。
ぎっ、という悲鳴を上げて、猪が振り返る。まだ諦めないというように後ろ足で地面を掻いている。研ぎ澄まされた上向きの牙が白香の足元に飛び込んできた。振り上げる牙を太刀で受け止めた白香は、軽く吹き飛ばされて柔らかい地面の上に投げ出された。
地鳴りのような足音が迫って、白香が飛び跳ねたその場所を猪が怒涛のように駆け抜けていった。
──好戦的すぎる。
猪と一戦交えたことは何度もあったが、鼻っ面を何度か叩けば退散していった。白香は自分の身体を見下ろした。災いの地の空気を纏っているからなのかもしれない。溜息をついて、向かってくる猪の鼻の穴に目掛けて渾身の突きを放った。
彼女の前方に敷き詰められていた黄色い落ち葉が突風に巻き込まれて木立の向こうに飛び去る。少し離れた場所の焚き火も掻き消えた。凄まじい爆発音と鳥たちの飛び立つ音の中、白香は猪の鼻から太刀をずるりと引き抜いた。巨体が倒れる。
太刀を振って血を飛ばした白香は暗闇の中で猪に背を向けて静かに言った。
「だから諦めてって言ったのよ」
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