第二話 追放
雲月は集落の中でも比べる者がいないほどの力自慢だった。それを鼻にかけていたこともあり、白香にとっては手放しに誇れるようなことではなかった。
そんな兄の無残な姿。命は
白香の頭上から、雨粒が落ちてきた。
***
「あいつめ!」
雲月はある時、鼻を鳴らしながら帰ってきたことがあった。
「どうしたの?」
恐る恐る白香が尋ねると、集落から少し離れた桑畑で大男に会ったのだという。その上から見下ろすような佇まいが兄の心に火をつけたらしい。
「お前はどこから来たんだ?」
そう問いかけても、男は無言のままだ。兄は怒声を上げながら男に飛び掛かった。兄は力比べが好きで、何かと相撲で勝敗をつけたがった。ところが、男と組み合った次の瞬間には兄の身体は宙を舞って、地面に叩きつけられた。そこで兄は気を失ったそうだ。
「あの野郎、今度会ったら俺が叩き潰してやる」
兄は集落で一番の大男だ。白香はそこが気になっていた。兄が大男というからには、相当の巨漢だ。
雲月の話を聞きつけたのか、集落の長がやって来て大男の出で立ちについて訊くと、紅の衣に赤い顔、高い鼻だったと兄は答えた。長は
「天狗じゃ。背中には鷹のような翼が隠されておったはずじゃ」
***
雲月の死体のそばには、抜け落ちた鳥の羽根が落ちていた。
──天狗がやったんだ。
その思いが白香の中で強くなる。力比べを仕掛けた雲月を天狗が殺したというその考えに、彼女は打ち震えた。
雨を吸ってぐっしょりと重くなった毛皮を引きずるようにして、彼女は無残な兄の死体のそばに立った。もう物言わぬ、あの奔放な兄はここにはいない。白香の顔を濡らすものがなんなのか、彼女自身にも分からなかった。
雲月の首から下げられた大きな黒い爪の首飾りがしとどにその胸の上に転がっている。そっと手を伸ばす。
──
集落からほど近い沢を住処にしていた熊だった。それを雲月は仕留めたのだ。だから、この首飾りは勇敢なる彼の生きた証だ。黒い爪を手に取って、白香は自分の首にかけた。兄の形見はずしりと重かった。
***
大雨の中を集落に戻った白香は兄の死を報告した。
「天狗だ」
誰かが言った。遠くの〝うるか山〟に棲むという天狗はたまに人里に下りてきて凶事を働く、と。
「雲月を葬ってやろう。場所は?」
そう問われて、白香は答えられなかった。
「いいよ。兄はきっと、戦って死んだ。それが本望だったんだ」
濡れそぼつ彼女は背中でそう言った。
「お前の兄貴を獣の餌にするつもりか?」
なんと言われようと、白香は頑なに口を閉ざした。木と葉でできた家に帰って、凍えるような中、火も焚かずに膝を抱いて涙を流した。葉の屋根を打つ雨の音が彼女の嗚咽を覆い隠す。
兄のことだから、きっとあの災いの地に面白半分で出かけたに違いない。そこで天狗と遭遇したのだ。力の差は歴然。兄は四肢をもぎ取られてしまった。
白香の脳裏を兄の思い出が幾重にもよぎる。そのたびに、自分にとっての兄がかけがえのない存在であることを思い知った。両親を失った白香には、彼しかいなかったのだ。
──許さない。
白香は兄の形見を握りしめた。
──お前は女のくせに狩りの才能がある。
彼女は顔を上げた。その眼は暗闇の中で燃えるように怒りを湛えていた。
そこへ、
「ちょっといいかな」
と、集落の長が姿を現した。その高い鼻がくんくんと動く。白香の前に腰を下ろした長は全てを見透かすような眼を彼女に向けた。
「災いの地へ行ったな?」
息を飲んですぐに応じる。
「いいえ! 私は──」
「忌むべき瘴気のにおいがする」
泣き腫らした目を見開いて、白香は身を強張らせた。災いの地に足を踏み込んだ者がどうすべきなのか知っていたからだ。
長は小さな、しかし、雨音の隙間を縫うような声で言った。
「皆の者には黙っておく。夜明けまでに出て行くがいい。みんなお前が仇を討ちに出たと思うだろう」
長は立ち上がって家を出て行った。
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