時を経て、ここを統べる者

山野エル

第一話 兄の死

 少女は風のように木々の間を駆ける。

 獣の皮をなびかせて走るその姿は雄々しくあったが、同時に儚さもたなびかせていた。それは彼女の眼に一抹の不安が宿っていたからかもしれない。

 彼女の行く手、木々の向こうに透けて見える空を覆う厚い雲が鈍色に垂れ込めている。


 兄──雲月うんげつが姿を消した。


 あれだけ猛々しかった兄。騒動ばかり引き起こす迷惑な男だったが、いざいなくなると心細く感じるものだ。

 あてがあったわけではない。だが、少女の足は自然と大地を蹴っていた。

 まるで導かれるように川を飛び越え、倒れた木をくぐり、動物たちの縄張りの隙間を縫って行った。


 ──無事でいて、兄さん。


 白香びゃっこうは祈りを込めた。


***


 息が切れるのも忘れて駆け抜けた先に、黒欅くろけやきと呼ばれる道標が見えてきた。なんでも、かつてここに雷が落ちたらしい。そのせいで、一本だけ真っ黒に焦げた欅が立っている。

 燃え尽きた木肌の割れ目から細い枝が伸びようとしているのを見て、白香は息を飲んだ。途端に、喉の奥がむずがゆくなり、咳き込んでしまう。

 息を整えて一歩ずつ踏み出す彼女の足取りは、一歩ごとに背中に石を背負わされるかのようにして、終いには黒欅のそばで止まってしまった。


 ──決して足を踏み入れるでないぞ。


 白香の脳裏に集落の長の言葉が滲み出る。ここから先は、災いの地だ。

 しかし、白香はひとり首を振る。

 雲月が足を延ばすような場所はすでに探し尽くした。だから、一歩を踏み出さねばならない。

 胸が高鳴るのを感じながら、猪の牙に紐を通した胸元の首飾りに手を触れる。


 ──お前は女のくせに狩りの才能がある。


 兄の憎らしい言葉だったが、今ではそれも恋しい。

 遠雷が雲の向こうを震わせて、空っぽの白香の腹がびりびりと共鳴した。

 行かねばならない……その思いで白香は再び走り出した。


***


 災いの地だからだろうか、彼女には辺りの景色が色褪せているように見えた。揺れる木々の青い葉も、黒々とした土も、控えめに咲く花々も、何か灰色のもやがかかっているようだった。息苦しいのは、走り続けてきたせいだけではないのかもしれない。

 兄は身体が大きかった。そして、熊の毛皮で作った灰色の衣をまとっている。白香は瞼の裏に焼きついたその姿を求めて、駆けずり回り、木々の間、茂みの中、岩の向こうに目を向けた。


 ──どこなの、兄さん?


 頭上に垂れ込めた雲はより暗さを増し、それが彼女の心に濃い影を落としていく。

「兄さん!」

 何度もそう声を張り上げた。喉がひび割れているかのような痛みを堪えながら、白香は兄の名前を口にした。

 次第に遠くの山が迫って来て、彼女を拒絶するようなごつごつとした岩肌の崖が立ちはだかった。


 くすんだ空気の中、白香の眼に深紅の何かが飛び込んでくる。

 崖の下に、それは転がっていた。白香は震える膝をものともせずに走った。そうであってほしくない、と願いながら。


 兄が倒れていた。

 もう決して起き上がることはないのは、白香の目にも明らかだった。四肢がなく、右腕が少し離れたところに転がっているのが見えるだけだ。文字通り生気のない雲月の虚ろな目が暗い空を見上げていた。彼のそばには夕陽を閉じ込めたような色の細かい石が散らばっている。

 足の付け根より先からすっと血の気が引いて、白香はその場に膝を突いた。

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