第30話 鳴り響くファンファーレ

 画材工房の立ち上げが正式に決まった。規模としては小さいが、状況を見ながら広げていこうと考えている。そのためにも、まずはしっかりした品質で生産できるように準備をしなくてはいけない。

 アールエッティ王国からはキャンバス職人を四人、絵の具職人を六人呼ぶことにした。いずれもその道二十年以上のベテランばかりで、大国に自分たちの技術を伝えるのだと気合い十分と手紙には書かれていた。

 仕入れ担当にも二人来てもらうことにしたが、こちらは材料の輸出に関してビジュオール王国側と細かなやり取りをしてもらうためだ。いずれはビジュオール王国にアールエッティ王国の美術品を輸出する手助けになればとも考えている。


「正式な稼働は春からとして、参考用の画材はいまのうちに運んでもらっておくか」


 それに僕が使う画材も補充しておきたい。いまはスケッチしか描いていないが、子が生まれたら本格的に絵の制作を再開するつもりだ。まずはリュネイル様の肖像画を完成させ、依頼されている絵もどんどん描き進めたい。

 懐妊がわかってからは新規の依頼を断っているが、できればまた受けたいと思っている。絵を描かなくては僕自身の体調がおかしくなるから、ということもあるが、僕の絵を買った貴族や王族たちの間で「アールエッティ王国の絵は嫌な匂いがしない」と噂になっているからだ。

 このまま噂が広まれば、新しく立ち上げる工房の画材のよい宣伝になる。嫌な匂いがしない画材だとわかれば興味を持つ人たちも増えるだろう。


「そうか、参考になる絵を展示するといいかもしれないな」


 工房の一角で完成した画材を売ることを考えているが、そこに僕が描いた絵を飾るのはどうだろうか。実際にどんな絵を描けるのか参考になるだろうし、溶き油の匂いが苦手な人たちに「これは嫌な匂いがしませんよ」と訴えることもできる。


「それなら下絵だけでも用意しておいたほうがいいか」


 大きな絵は邪魔になるだろうから……そうだ、これまで描いてきた花のスケッチから選ぼう。花なら民たちにも身近なものだから絵に興味を持ってもらえるかもしれない。

 よしと思い、早速イーゼルの横に積み上げてあるスケッチの束を手に取った。パラパラめくっていると、後宮に到着した頃に描いたスケッチが目に留まる。


「紫陽花に芙蓉か……懐かしいな」


 思わずそんなことを口にしていた。そういえば、あの頃は発情するためノアール殿下に近づくことばかり考えていたなと思い出す。


「それがいまや、僕は大国ビジュオールの王太子妃候補だ」


 そして、僕のお腹には未来の王太子が宿っている。その子も間もなく生まれるところだ。


「なんというか、あっという間だった気がする」


 いろんなことが短期間に起こったからか、膨らんだお腹を見ても母になる実感はあまりない。Ωだとわかったのもついこの間だったし、妊娠中のΩという実感も半分といったところだ。おかげでつい動きが乱雑になってしまうのを、アフェクシィ殿に何度も注意された。

 考え方も元王太子だったときとあまり変わっていない気がする。二十四年間、王太子として生きてきたのだから仕方がないのだろうが、こんなことで大国の王太子妃になれるのだろうか。


「ノアール殿下を助けるという気持ちは、ますます強くなっているけどな」


 そうだ、この気持ちがあればきっと大丈夫。それよりも、いまは無事に子を生むのが先決だ。子が生まれてからは子育てや工房のことが忙しくなるだろうし、いまできることをやっておかなくては。


「よ……っと」


 スケッチの束を持ってソファに座った。そういえば、椅子やソファに座るときにいまみたいに声を出す癖がついてしまった。歩くときも少しがに股になったような気がする。それでも女性と違って腰が痛くなったり足がひどく疲れたりといったことはほとんどない。そういう状態だから以前と同じように動いてしまうのだろう。

 教本に書かれていたような状態にならないのは、お腹の膨らみが女性よりずっと小さいことと僕が男だからに違いない。男としては貧弱な僕だが、姫君よりは骨太だろうし筋肉もある。だから子の重みに耐えられるのだ。男のΩだからか、ほかにも教本に載っていたことと当てはまらないことがいくつもあった。


「それでも子はちゃんと育っている。Ωというのはすごいな」


 あとはどこから子が出てくるかだが、それもいつの間にか気にならなくなっていた。むしろ「どんと来い」という気持ちのほうが強い。こういうのも母になる強さということなのだろう。


「いや、父だとか母だとかは関係ないな。生まれてくる子にとっては、僕と殿下が親というだけだ」


 そう思いながらゆっくりとお腹を撫でる。すると、まるで僕の言葉に賛成するかのようにぽこんと蹴られた。「おぉ、元気だな」と笑いながらスケッチを見ようと一枚めくったとき、頭がグラッと揺れたような気がした。


「あれ?」


 変だなと思って額に手を当てると、今度は自分のバニラの香りがぶわっと広がるのを感じる。発情しているわけでもないのに、まるで発情のときのような濃くて甘い香りにますます頭がクラッとした。


「おかしいな……。それに、僕自身がこんなに香りを感じるなんて……」


 最後の発情で感じたときのように香りを強く感じる。どういうことだと思っていると、「ランシュ、外にまで香りが漂っているが」という殿下の声が聞こえてきた。

 顔を上げると、殿下が扉を開けて入ってくるところだった。「殿下」と声をかけようとして口を開いたが、なぜか自分の声が聞こえない。「おかしいな」と思ったつぎの瞬間、目の前が一瞬暗くなった気がした。目眩かと思って背もたれにもたれかかろうと力を抜く。

 そこまでは覚えているが、急激に自分の香りが強くなったなと感じたところで意識がぷつりと途切れてしまった。




 たしか教本には、出産とは相当な苦しみと痛みを伴うものだと書いてあった。痛みが苦手な僕はそれだけで青ざめたものだが、そのぶん妃を労ろうと真剣に考えた。それがΩになったことで、僕自身が「生みの苦しみ」というものを味わう立場になってしまった。


「だから、かつてないほどの覚悟をしていたんだけどな」


 思わずそんなことを口走ってしまった。小さな声だったが、そばにいたアフェクシィ殿には聞こえたらしい。「どうかされましたか?」と声をかけられた。


「いや、何でもない」

「間もなく清めたお子様が戻っていらっしゃいますよ」


 子が戻って来ると聞いて、生まれてすぐに胸に載せられたときの重みを思い出す。あまりにも頼りない重さで、これで本当に生きていけるのかと心配になった。

 アフェクシィ殿が調べた限りでは、あの小ささでも男のΩが生む子の状態としては標準らしい。そういえば、あんな小さな体なのに驚くほど大きな声で泣いていた。いろいろぼんやりしたままだった僕は、「すごい声だな」と感心することしかできなかった。


「体は大丈夫ですか?」

「あぁ、うん。もっと痛いとか苦しいものだとばかり思っていたんだが、思いのほかそうでもなかったというか……正直、あまり覚えていないんだ」

「それもΩとしては普通のことです。Ωは出産のとき、自らの香りを放出することでαを呼び寄せます。Ωの香りを嗅いだαも香りを出し、その香りを嗅いだΩは苦痛をあまり感じることなく出産すると言われています。わたくしがこれまで立ち会ったΩの出産はすべてそうでした」

「そうか」


 そういうところもαとΩは普通とは違うのか。これでは本当に珍獣のようだなと久しぶりに思った。


「女性のΩは出産後すぐに体が回復しますが、男性のΩがどうなのかはっきりとはわかりません。念のため、しばらくは無理をされないようにしてくださいね」


 少し前に、アフェクシィ殿から「Ωは出産した翌日から歩き回れるのですよ」と教えてもらった。しかも、ふた月後には閨事も解禁になるらしい。たしか妹を産んだときの母上はしばらくベッドから出られなかったはずだが……と思い出すと、さすがは“生む性”だと感心してしまう。


「お子様が戻っていらっしゃいましたら授乳も始めましょう」

「授乳……」


 そうか、母になったということは子に乳を飲ませる必要があるということだ。しかし男の自分に乳が出るものだろうかと自分の胸を見て、「は?」と驚いた。

 気のせいでなければ胸が少し膨らんでいるような気がする。毎日見ていたはずの自分の体なのに、一体いつ膨らんだのだろうか。お腹のことばかり気になって胸のことにはまったく気づかなかった。


(そういえば、殿下がやたらと胸を見ていたような……)


 殿下は僕の胸が少し膨らんでいることに気づいていたのかもしれない。

 もう一度自分の胸を見る。姫君のように豊かではないが、なんというか、成長途中の少女のような感じだ。この胸を殿下に見られていたのかと思うと妙に気恥ずかしくなる。


「男性のΩは半年ほどでお乳が出なくなると書かれていました。出なくなるまでの間はしっかりとお子様にお乳を飲ませてさしあげてください。その後はミルクを飲ませることになるでしょう」


 なるほど、乳母が飲ませるのではなく僕のお乳で育てることになったのか。不意に妹にお乳を飲ませていた母上の姿を思い出した。母上の姿を自分に置き換えると……感慨深すぎてうまく想像できない。


(こんな頼りない膨らみで、本当に子が育つほどのお乳が出るんだろうか)


 夜着の上からそっと胸を触ってみる。頼りない大きさだが、たしかに膨らんでいる。それに乳首のあたりが少し尖っているようにも感じた。


(……お腹が平らになっている)


 いつもは胸よりも膨らんだお腹が先に見えた。だから胸には気づかなかったんだろう。

 ぺたんこになったお腹に、あの小さな子が入っていたのかと思うと不思議な感じがした。しかも、ちゃんと尻を通って生まれてきたのだ。心配になるほど小さな体だったが、あの大きさが尻を……と思うと、いまさらながら恐ろしくなってくる。


(そういえば、子が出てくる瞬間は苦しかったな)


 気がついたときには殿下の濃いミルクの香りに包まれていたからか、ほとんど夢うつつのような状態だった。それがいざ尻を通り抜けようとしたとき、急激な苦しさにバチンと意識が戻った。

 内臓を圧迫されるような苦しさと尻が引き裂かれるような痛みに息が詰まった。生まれて初めて感じる痛みに声も出なかった。あまりの状況に自分がどうなっているのかわからず、何かを必死に掴んでいたような気がする。

 そういえば、途中からキラキラしたものまで見えた。ぼんやりとしか覚えていないが、あれはアールエッティ王国の北側で見られるオーロラに似ていた気がする。もしくは雪が降る朝に見られる細氷だろうか。あまりの美しさに苦しみも痛みも一瞬忘れてしまったくらいだ。


「殿下、お子様が帰ってきましたよ」


 アフェクシィ殿の声にハッとした。顔を上げると、ノアール殿下の後ろに乳母らしき女性が立っている。その女性から真っ白な夜着に身を包まれた子を受け取ったアフェクシィ殿が、半分横になったままの僕の胸にゆっくりと載せてくれた。

 頼りない重さに緊張しつつ、そっと顔を覗き込む。生まれたばかりのときの大声が嘘だったかのように、いまは目を瞑ってすよすよと眠っていた。


「髪の毛は殿下と同じ黒色だ」


 少しだけ生えている髪の毛はノアール殿下と同じ真っ黒だ。それなのに僕の髪のようにふわふわしているのがおもしろい。思わず「ふふっ」と笑ったら、その声が聞こえたのかぱちりと目が開いた。


「目はランシュに似ているな」

「僕より少し濃い色ですね」


 そっと覗き込む殿下の様子が初々しく感じられて、つい「ふふっ」と笑ってしまった。そんな僕を空色の目がじぃっと見ている。

 不意に子が目を細めた。一瞬泣くのかと思ったが、ふあと口を大きく開けてあくびをしただけだった。そうして空色の目を閉じて、ぷすぅと小さく鼻を鳴らす。


「こんなに小さくても、ちゃんと生きているんだな」


 思わずそんなことを口にしていた。そう言ってしまうくらい、なぜか“生きているのだ”ということを強く感じた。同時に生まれる瞬間のキラキラした眩しいものが脳裏に蘇る。


「そうか、それでキラキラしたものが見えたのか」


 あれは命が誕生する瞬間を僕なりに感じ取って見えたものに違いない。教本にはそんなものが見えるとは書かれていなかったが、急にそんな気がしてきた。

 改めて腕の中の子を見る。すよすよ寝ている姿がキラキラ眩しく見えてきた。


「……まるで、殿下と僕を合わせたような色合いだな」


 艶やかな黒色に綺麗な空色は、まさしく二人を合わせた色だ。そんな眩いばかりのキラキラした宝物を僕は生んだのだ。そう思うとますます胸が熱くなる。


「がんばってくれてありがとう」

「殿下」


 見上げると、額にチュッと口づけされた。


「子が無事に生まれたのもうれしいが、ランシュが無事でホッとしている」

「僕は子どもの頃から体だけは丈夫なんです。それに、ずっと殿下の香りがしていたので安心できました」


 そう答えた僕に殿下がふわりと微笑んだ。あぁ、殿下の微笑みもキラキラと眩しい。この子も殿下も僕にとっては大切な宝物だ。そう思った僕の耳に、遠くで鳴り響くファンファーレが聞こえたような気がした。




 シエラが生まれて十日が経った。


「シエラ」


 呼びかけると自分の名前だとわかるのか、ぱちりと目を開けて僕を見る。そうしてにぱぁと笑うのがとてもかわいい。これはずっと見ていられるなぁと思いながら、シエラが寝ているベッドの横の椅子に座る。最近ではもっぱらここが僕の定位置になった。

 シエラは男の子だ。生まれたばかりでまだわからないが、αであることは間違いないだろう。ビジュオール王国の王族αは小さいときにわかることが多いとノアール殿下が話していたから、いつ確定してもおかしくない。


「αだとわかったら、シエラも思い悩むことが増えるんだろうな」


 ただの男だった僕にはαが抱える悩みはわからない。王太子としての責任も僕よりずっと重くのし掛かるはずだ。だからこそ、僕はこの子を助けたいと思っている。ノアール殿下と相談しながら、二人でこの子の未来を切り開いてやりたい。


「僕と父上がしっかり見守っているからな」


 そうつぶやいて柔らかな頬を指先でつつくと、またにぱぁと笑ってくれた。


「ランシュはシエラに夢中だな」

「殿下」


 部屋に入ってきた殿下の後ろに、昼食を載せたワゴンを押す侍女たちがいる。どうやら僕は午前中のほとんどの時間をシエラを眺めることに費やしてしまったらしい。


「さぁ、昼食にしよう」

「はい」


 近づいてきた殿下が額にチュッと口づけた。子を生んでからというもの、こういう接触が増えたような気がする。もちろんうれしいと思っているが、人目がある場所だとやはり照れくさい。

 額を指先ですりすり撫でてからテーブルの前に座ると、「陛下から式の話があった」と告げられた。


「日にちが決まったんですか?」

「ふた月後になった」


 ふた月後か。その頃なら僕の体力も戻っているだろうし、シエラも乳母に預ければ問題ないだろう。あとは婚礼用の服を調整するだけか。


(以前のものでは胸回りがきつそうだからな)


 少女のような膨らみしかないが、それでも以前のものではきつくなっているはずだ。となると上だけ作り替えることになるのだろうが……。


(胸が少し膨らんだ男性用の婚礼服なんて、笑いものにならないか?)


 僕の婚礼服は殿下のものと対のデザインだ。殿下の美しい骨格がわかるようなすらりとした美しい婚礼服だが、その段階で僕には馬子にも衣装状態だった。あれで胸が少し膨らんだデザインになると……。


(ますます笑われそうな気がしないでもない)


 そんなことを思いながらスープを一口食べる。シエラを生む前と違い、しっかりとした味付けが妙においしく感じる。子を生む前と後で味覚が変わるなんて不思議なものだなと思っていると、殿下が「その式だが……」と少し口ごもった。


「どうかしたんですか?」

「式にはシエラも連れて行くことになった」

「はい?」


 ふた口目のスプーンを止め、殿下を見る。


「シエラもですか?」

「王太子妃となったランシュと、つぎの王太子を同時にお披露目するそうだ」


 殿下の眉が少し寄っているということは納得していないのだろう。もしかしたら国王と一悶着あったのかもしれない。少し考え、スプーンを置いてから殿下を見た。


「僕はかまいません。シエラのほうは、途中で泣かないことを祈るばかりですが」

「そのことも陛下に話した。そもそも三月みつきの赤児を式典に参加させるなど、どうかしている」


 たしかに少し早い気もするが、僕はもっと早かったなと思い出す。


「そういえば、僕はひと月のときにお披露目されたらしいです」

「そうなのか?」

「アールエッティ王国は小国ですから、お披露目と言っても身内だけのパーティーみたいなものだったらしいですが」


 僕の言葉に殿下が寄せていた眉を緩めた。少し遠くを見るような眼差しは、もしかして僕が赤ん坊だった頃を想像しているのだろうか。もしそうだとして、殿下の口元が微笑んでいるのは何を想像してなのか少し気になる。


「もちろんビジュオール王国とは規模が違うので比較はできませんが、きっと大丈夫ですよ」

「ランシュがそう言うと、不思議と大丈夫なような気がしてくるな」

「あはは、ありがとうございます。あとは僕の婚礼服をどうするかですが」

「婚礼服?」


 そうか、殿下は気づいていないのか。


「ふた月後でも、僕の胸はいまのままだと思います。以前の婚礼服では少しきついのではないかと思うんですが……あの、殿下?」


 殿下の目が凝視するように僕の胸を見ている。別に見られて困ることはないが、なんというか、あまり真剣に見つめられ続けるとさすがに恥ずかしい。


「殿下?」

「……あぁ、うん、そうだな。その辺りは手配しておこう」


 そう言いながらも殿下の視線は僕の胸に留まったままだ。やっぱり男の僕の胸が膨らむなんて変だと思っているんだろう。その後も何度も胸に視線を感じながら食事を続けた。

 食後にシエラの授乳が待っていたのだが、珍しく殿下がその様子を見ていた。これまで授乳のときは決して僕のほうを見なかったのに、急にどうしたのだろうか。しかも熱心というか熱心というか、とにかく胸をじっと見つめてくるのだ。

 このときを境に、殿下は僕が授乳を始めると毎回熱心に見つめるようになった。


 翌日、早速婚礼服の再調整が始まった。あわせて結婚式について学ぶ時間も設けられた。本来なら長い式典らしいが、シエラがまだ小さいということもあり短縮されると聞いた。


「ええと、殿下と僕が招待客たちの間を歩いて、ここで言葉と書類への記入、それから殿下の言葉、あぁ違った。その前にシエラを受け取って、それから殿下の言葉か」


 大まかな流れは僕の立太子の式典と少し似ている。これなら何とかなりそうだ。あとは招待客の数や会場の規模に圧倒されないようにするだけだ。


「国内の王族貴族だけでも百人を超えるそうだからなぁ」


 さすがは大国ビジュオールだ。アールエッティ王国ならその半分もいない。そこに近隣諸国からの招待客が数百人来るというのだから、四年に一度の芸術祭よりも規模が大きいことになる。


「失敗しないようにしないとな」


 思わず武者震いしそうになるが、意気込みすぎるのはよくない。それに僕の緊張がシエラに伝わってもよくないはずだ。そのために何度も手順を確認し、しっかり頭に叩き込んでもいる。

「あとはシエラが泣かないといいんだが」と思いながらノアール殿下の執務室に続く廊下を曲がったときだった。


「……陛下」


 驚いた。殿下の執務室の扉前に国王が立っていた。距離的にはベインブルの扉のほうが近いが、まさかベインブルを見に来たわけではないだろう。

 Ω専用の首飾りを入れた箱を抱え直し、慌てて右手を胸に当てる。すると「かまわん」という低い声が聞こえてきた。箱を落とさないように両手で抱え直してから、頭を下げて国王の顔を見る。


「ノアール殿下なら、まだ応接間にいらっしゃると思います」

「知っている」


 つまり、殿下が不在だと知っているのにわざわざここまで来たということだ。しかも侍従一人連れていない。


「それは?」


 国王が僕の持つ箱に視線を向けた。一瞬どうしようか迷ったものの、少しだけ近づいてから蓋を開ける。


「Ω専用の新しい首飾りです。いくつか完成品が届いたので、ノアール殿下に確認していただこうと思いまして」


 国王の言葉はない。ただ静かに並んでいる首飾りを見ている。


「画材工房を立ち上げると聞いたが」


 そう言いながら視線が上がった。僕を見る眼差しは静かだが、背筋にピリッとした緊張感が走る。


「はい。僕は絵画を、芸術をもっと身近に感じてほしいと思っています。よい作品を目にすれば興味を持ってもらえるでしょうし、よい道具があれば自ら制作しようと思う人たちが出てくるかもしれません。そのきっかけとなる工房になればと思っています」

「我がビジュオール王国にアールエッティ王国の考えを持ち込むということか」


 静かな声だが、首筋が一瞬にして粟立った。


「そうではありませんが……いえ、正直に申し上げれば多少の下心は抱いています。貧乏な祖国のために僕ができることは何でもやりたいと思っているのもたしかです。ですが、芸術を身近に感じ、愛してほしいと思っているのも本心です。我が子にも、シエラにもそういう気持ちを持ってほしいと願っています」


 僕の返事に国王の表情は変わらない。ただじっと僕を見つめ、それから手元の箱の中身を見る。


「物作りというのは、国を治めることに通じる。芸術のことはわからんが、人の心を豊かにするという点では人にとっても国にとってもよいのかもしれぬ」


 国王の目が再び僕を見た。


「貴殿のような人物だからノアールは心を開いたのかもしれん。正直で純粋でけがれがない。王宮では久しく見ない存在だ。なるほど、リュネイルが可愛がるわけだ」


 これは褒められていると受け取るべきなんだろうか。


(正直で純粋、というわけでもないんだけどな。それにけがれがないなんて、さすがにそんなふうには見えないと思うんだが……)


 欲は十分持っているし、画家として人一倍自尊心が高いことも自覚している。今回の画材工房の立ち上げも半分は自分の欲のためのようなものだ。それなのに過分に褒められては、さすがに居心地が悪い。

 礼を告げるべきか迷っていると、国王の口元がわずかに緩んだように見えた。


「そういう表情を浮かべるところがけがれがないというのだ。それに“僕”と言うのも腹の底を隠していないように聞こえる」


 指摘されてハッとした。「僕」と口にするのが日常になっていたせいで、うっかりしていた。そういえば、以前国王の執務室でも「僕」と口にしてしまったような……。

 慌てて「失礼しました」と頭を下げようとしたが、「よい」と止められた。気のせいでなければ、先ほどよりも若干声が柔らかくなったように感じる。


「ノアールは久しぶりに我が国に現れた上位αだ。それがようやく覚醒しつつある」


 静かな国王の黒目がつるりと光った。


「王太子としても精力的に動くようになった。いずれも貴殿の存在がきっかけになったのだろう。貴殿はおそらく上位Ωなのだろうな」

「え……?」

「リュネイルが子に会いたがっている。落ち着いたら月桃宮に顔を見せるといい」


 返事をする前に国王がくるりと背を向けた。そのまま廊下の角を曲がり姿を消す。


「上位、Ω……?」


 以前、ヴィオレッティ殿下が「上位α」と口にしたが、それのΩ版ということだろうか。αやΩのことを未だに詳しく理解できていない僕には何のことかさっぱりだが、国王の口調からは悪いことのようには聞こえなかった。


「それに、いまのはノアール殿下を認めているような感じだったよな」


 やはり国王は冷たい人ではないのだ。殿下のことも嫌っているようには感じなかったし、思ったとおり不器用な人なのかもしれない。


「それなら、いつかわかり合えるときがくるかもな」


 そこまでいかなくても、せめて誤解が解ければと思う。それだけでも殿下の心に光が差すような気がする。

 そんなことを考えながら箱の蓋を閉じ、執務室の扉を開けた。正面の大きな窓からは春の香りがし始めた日差しが降り注いでいる。思わず目を細めた僕の耳に、結婚式の練習らしきファンファーレの音が聞こえてきた。

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