第29話 進む日常
アールエッティ王国で読んだ教本には、妊娠した妃は様々な体調の変化で役目を果たせない場合があると書いてあった。自分もそうなるのだろうと覚悟していたが、どうやら僕にはそういった変化は起きないらしい。
懐妊がわかった直後に血が薄くなることはあったものの、それも食事を変えたおかげか半月足らずで改善された。気鬱になることもなく、むしろ精力的に仕事に向き合うことができている。これも優秀な医者であるアフェクシィ殿のおかげに違いない。
「ただ、食事だけがなぁ」
昔から何でもおいしく食べる僕だが、ついに揚げ物がまったく食べられなくなった。極端に辛いものや甘いものも受けつけなくなり、しばらくスイーツも口にしていない。そのあたりはアフェクシィ殿が料理長に相談してくれていて、最近は優しい味付けの料理がテーブルに並ぶようになった。
「そういえば、甘い物はまったく駄目なはずなのにこれだけは平気なんだよな」
目の前のカップを見て、思わず笑ってしまった。
カップには新鮮なミルクと卵、それにバニラを使った温かなミルクセーキが入っている。砂糖を使っていない程よい甘さだからか、これだけは毎日飲むことができた。
「もしかして、僕と殿下の香りを混ぜた香りに似ているから平気なんだろうか」
自分で言ったことなのに思わず苦笑してしまった。
そういえば、殿下はこの砂糖が入っていないミルクセーキが小さい頃から大好きだったそうだ。いまでは飲む機会が減ったと話していたが、いつでも飲めるようにと王宮内に大きな鶏小屋まで作ってあるのだという。
「だから毎朝鶏の鳴き声が聞こえるんだな」
おかげで僕もおいしいミルクセーキを飲むことができる。卵もミルクも体によいからと、アフェクシィ殿も勧めてくれた飲み物だ。
「ということは、お腹の子はミルクセーキで育っているということにもなるのか」
つぶやいた言葉に、今度こそ声に出して笑ってしまった。だって、お腹の子は言わば殿下の濃いミルクの香りと僕の甘いバニラの香りの結晶のようなものだ。その子がミルクセーキで育っているなんて、なんだかおかしくなってしまう。
「いや、この子がミルクセーキが好きで、だから僕もミルクセーキが好きになったのかもな」
膨らんだお腹をさすりながら、「父上と母上の香りは、もっといい香りなんだぞ」と話しかけた。そうして目の前にあるカップを手に取り、くんと香りを嗅ぐ。とてもいい香りだとは思うが、やはり僕と殿下の香りには敵わない。
あの濃くて甘い香りは、嗅ぐだけで体いっぱいに幸せが満ちてくる。いつまでも嗅いでいたいし、何度でも溺れたいと願わずにはいられない香りだ。嗅ぐだけで恍惚としてきて、体の奥からじわりと熱が広がり……。
「……っ」
しばらく嗅いでいない濃厚な香りを思い出したからか、下半身がじわっと熱くなってしまった。慌ててカップをテーブルに戻して画材工房の書類を手に取ってみたものの、内容はさっぱり入って来ない。それでも無理やり文字を読み進めようと試みたが無駄なあがきだった。「参ったな」と思いながら窓の外に視線を移す。
懐妊がわかってから半年が過ぎようとしている。空はすっかり冬支度といった色合いで、アールエッティ王国で見ていた長い冬の空を思い出させた。すでにノアール殿下の誕生日も過ぎ、あとは子が生まれるのを待つばかりだ。
そんな僕は、少し前からお腹の奥に熱を感じるようになっていた。大抵は殿下と口づけをしたあとだったが、殿下の濃いミルクの香りを嗅いでも熱くなる。何かよくない兆候ではとアフェクシィ殿に尋ねたところ、それもΩの特徴なのだと聞いて驚いた。
「子がいるというのに、発情に似た状態になるなんてなぁ」
お腹に子がいる間は発情しないが、性欲が消えることはないのだと言われた。平たく言えば、妊娠していてもαを求める本能は抑えきれないということらしい。
「Ωというのは本当にすごいんだな」
アフェクシィ殿からは「交わるのでなければ問題ありませんよ」とも言われた。適度に欲を発散することで心身共に安定するはずだとも聞いている。
この話はノアール殿下も一緒に聞いていた。おかげで、その日の夜から早速あちこちを触られるようになってしまった。殿下いわく「ランシュのためにできることは何でもしよう」ということらしいが、あまり熱心に触られると抑えがきかなくなるというか何というか……。
「駄目だ、仕事にならない」
もうすぐ夕食の時間だ。殿下からは「仕事は夕食の前まで」と言われている。残っていたミルクセーキを飲み干し、ため息をつきながら書類を片付けることにした。
「あの、殿下、別に今夜は……」
「こんなに香りを放っているのにか?」
「発情しているわけじゃないんですから、そんなに香りがするはずがありません」
「いいや、以前よりも香りが強くなっている」
そう感じるのは、以前はまったく香りがしなかったせいだ。それに、いまはお腹に子がいるから発情することもないし香りが強くなることもない。僕からほんのり香りがしたとしても、それはΩとして自然なことだとアフェクシィ殿も話していた。
「殿下、」
「さぁ、おいで」
大きな枕を背にベッドに腰掛けた殿下が足の間に座るように促してきた。そうして微笑みを浮かべながら見つめられたら、僕には座るという選択肢しかなくなる。
ベッドに上がり、殿下に近づいてから背を向ける。そのまま殿下の胸にもたれかかるように座ったら、膨らんだお腹を労るように撫でられた。
(大きくなったな)
自分では驚くくらいの大きさだと思っているが、一般的な妊婦よりも随分小さいのだという。これも男のΩの特徴だと言われた。男のΩは体の構造上、女性のように生みやすくはできていない。そのせいか十カ月待たずに生まれることが多く、子も小さい体で生まれてくるのだそうだ。そのため、お腹の膨らみ方も小さいのだと聞いた。
「男のΩはいろいろ大変なんだな」と目を瞑りながら考えていると、お腹を撫でていた殿下の手が別の動きをし始めていることに気がついた。慌てて目を開けると、夜着の裾のほうで殿下の手がゴソゴソと動いている。
「殿下」
「無理はさせない」
「だから、今夜は大丈夫だと、……っ」
耳に口づけられて、思わず声を漏らしてしまった。それに気をよくしたのか、殿下の右手がゆっくりと動き始める。
「でん、か……っ」
止めようとすると、今度はうなじに口づけられた。その瞬間、何とも言えない痺れが背中を走り抜けた。触れるような口づけなのに情けなくなるほど感じてしまう。うなじを噛まれた当初より、子ができたいまのほうがより敏感に感じるようになったのは気のせいだろうか。
「相変わらず敏感だな」
「でん、か……っ」
「甘くておいしそうな香りがしている」
「殿下、……っ」
これ以上情けない声が出ないように慌てて唇を噛み締めた。
殿下も敏感になったことに気づいているようで、こうして触れ合うときに頻繁に口づけられるようになった。駄目だと訴えても「おいしそうな香りだ」と言ってくんと鼻を鳴らし、ちゅうっと吸いつく。
「んっ!」
一際強く吸われ、背中がぞくんと震えた。甘い痺れがうなじから背中を伝い、腰を震わせながらお腹の奥を刺激する。これでは子によくないのではと思うのだが、アフェクシィ殿いわく「男性Ωの場合、産道が柔らかくなり子が生まれやすくなると書かれていましたから大丈夫ですよ」とのことだった。
「産道」という言葉に「それはもしや尻の……」と思ったが、すぐに考えを振り払った。生むまで知らなくていいと思っているのに、いろいろ気になってつい尻の心配をしてしまう。そんなに気になるならアフェクシィ殿に尋ねればいいのだろうが、聞いてしまうと生む勇気が萎えてしまいそうでますます尋ねられない。
「ランシュ、余計なことは考えるな」
「ん……っ」
今度は耳を優しく噛まれて吐息が漏れた。そのまま首筋を吸われ、最後にもう一度うなじを吸われる。
(……気持ち、いい……)
思わずそんなことを思ってしまった。子がいるのにこれでいいのかと思わなくもないが、Ωというのはやはり普通と違うのだろうと無理やり納得する。
気がつけばくたりと殿下にもたれかかっていた。快感の波が引くのを感じながら、殿下の「おやすみ」という声が聞こえた気がした。
「最近はおもしろいことが増えて飽きが来ない。これもきみのおかげだな」
「それはどうも」
「おっと、さすがにもう“きみ”は失礼か、王太子妃殿下」
ニヤッと笑う顔に「まだ妃候補ですよ」と書類に視線を落としながら答える。
「もうほとんど王太子妃じゃないか。謙遜する必要はないさ」
そう言ったヴィオレッティ殿下が、温かい紅茶を入れたティーカップを僕の目の前に置いた。王族なのに自分で紅茶を入れるところはノアール殿下と同じだ。そうして隣にミルクポットを置いてくれたもののシュガーポットはない。
(僕が甘いものを受けつけなくなったと聞いたんだろうな)
言動は相変わらずだが、意外にも細かな気遣いができる人だと気づいたのは少し前だ。漏れ聞こえる話では二人の妃にも普段から心配りを欠かさないそうで、絵が好きな妃のためにと僕の絵を何枚も買ってくれた。そういえばアールエッティ王国から帽子の案内本を取り寄せたと聞いたが、それも妃たちのために違いない。
本当はそういう人物なのに、敢えて面倒臭い人を演じているような気がする。とくにノアール殿下の執務室にいるときは嫌味に聞こえる発言も多く、そういった言動が官僚たちに煙たがられているのだろう。なぜそんな態度を取るのかはわからないが、そうせざるを得ない何かがヴィオレッティ殿下にあるということかもしれない。
(そういうのも“生まれながら決まっているαの優劣”のせいかもしれないということか)
これは想像以上に根深いなと思いつつ、温かな紅茶をひと口飲んだ。アフェクシィ殿が用意してくれた妊婦用だという紅茶の味に、チラッとワゴンの上を見る。
執務室で普段使っている真っ白なポットの横に、僕専用だとわかるように花の絵が描かれたポットが置かれていた。先ほどまでは白いポットしかなかったから、僕専用のをワゴンの棚から出して用意してくれたということだ。こうしたさり気ない気遣いが、外交団や親善で訪れる近隣諸国の王族たちの心を掴むのだろう。
(そういえば、体の弱い母君と二人きりだと聞いたな)
それで急きょ王宮で暮らすことになったと、以前ルジャン殿下から聞いた。
父親がいない王族というのは後ろ盾がないということだ。そのうえ病弱な母君を抱えていたということは、小さい頃から母君や周囲に気を遣い、なおかつ王宮での自分の立場を敏感に感じ取っていたことだろう。王妹子息なら直系王族に近い王族αだし、注目もされ続けてきたに違いない。
その結果がこうした気遣いで、それなのに普段は裏腹な人物を演じているのだとしたら……。いつも飄々と見えるヴィオレッティ殿下も苦労してきたのだろうなと想像した。
(それをわざわざ指摘するほど、僕は野暮じゃないが)
この国の王族αを思うとため息が漏れそうになる。それを隠すように再び書類に目を向けた。
今日は画材工房を実際に動かすための人員と、アールエッティ王国から呼ぶ職人の数を調整するためにノアール殿下の執務室を訪れた。あわせて、どのくらいの生産量を目標にするかも考えなくてはいけない。それによって工房の規模も変わるし呼び寄せる職人の数も変わってくる。アールエッティ王国のほうでも、ビジュオール王国に輸出する分の材料を余分に作らなくてはいけない。その量もそろそろ決めたいところだ。
思っているよりやることが多いなと書類を見ていると、「それにしても驚かされた」というヴィオレッティ殿下の声が聞こえてきた。
「まさか、ビジュオール王国に画材専門の工房を作ろうだなんてな。しかも王太子肝いりでだ。官僚たちはいまだに渋っているようだが、ちょうどいいところでルジャンが戻ってきたから、あいつに任せておけば官僚たちも納得するだろう」
「それも妃殿下のおかげだな」と続いた言葉には、さすがに「は?」と首を傾げた。
「ルジャン殿下の件に僕は関わっていませんが」
「直接的にはそうだろうが、間接的にはきみの影響だ。ノアールの変化を見れば一目瞭然だろう」
「僕にはノアール殿下が変わったようには見えませんけど」
僕の返事に、向かい側で紅茶を飲んでいたヴィオレッティ殿下が小さく笑った。
「以前のノアールは、王太子の役目をそつなくこなしているだけだった。それでも問題はなかったんだが、そんな可もなく不可もない王太子なんてつまらないだろう?」
「そういう話ではないと思いますが」
「そういう話になりかけていたんだよ。もう何十年も前からこの国のαたちには不満が溜まっていた。とくに顕著だったのが王制を支えるべき王族αたちの不満だ。それがノアールに向かって爆発しかかっていた。たまたまいまだったと言えなくもないが、ノアールなら刃向かってもいいと思わせる状態だったのも確かだ。あいつには頂点に立つαとしてのオーラがなかったからな」
もしかして、ノアール殿下が抱えていた思いが影響していたんだろうか。本当に自分が王太子でいいのか迷っていたとしたら、玉座を狙う者たちにとっては都合がよかったに違いない。
「ノアールはすべてに対して見て見ぬ振りをしていた。それじゃあ、いつか本当に玉座を奪われかねない。そんなことになったらさすがに大変だと思っていたんだ」
「一応、殿下も王族αらしいことは考えていたんですね」
僕の言葉に「失礼な妃殿下だな」とヴィオレッティ殿下が笑った。
「ま、俺は自分の生活が脅かされたらたまらないって思っていただけだがな。そもそも玉座がどうなろうと俺の知ったことじゃない。誰が座っても変わらない玉座に興味もない。やる気のないノアールには苛立つこともあったが、俺に害がなければどうでもいいとも思っていた」
「……やっぱり前言撤回します」
「あはは、きみは正直だな。それにΩらしくもない。だからこそノアールの心を掴んだんだろう。……やはり、ノアールに変化をもたらしたのはきみだ。これまでαらしい威圧を漂わせることはあってもあまりに頼りなかった。それがどうだ。きみが来てからというもの、あいつは確実に変わってきている。やはり、きみにちょっかいをかけて正解だった」
ヴィオレッティ殿下の笑みの種類が変わった気がした。いつもの飄々としたものではなく、心の底から愉快でたまらないといった雰囲気に見える。
「それに、ノアールが本気で頂点に立ってくれれば俺にも都合がいい。うるさい奴らに声をかけられることもなくなるし、なによりおもしろおかしく生きていける。その結果、どうだ。気がつけば俺は王太子付きの側近だ。まったく、毎日がおもしろくて飽きる暇がないよ」
あまりの言葉に、思わずハァとため息をつきそうになった。どこまで本音で語っているのかはわからないが、王太子を支える王族としては十分に変わり者の部類に入るだろう。
「よかったじゃないですか」
とりあえずそう答えると、いつもどおりのニヤッとした笑みが返ってきた。
「あぁ、毎日が想像以上におもしろくて仕方がない。それに、この先もノアールが変わっていくのを見るのも楽しみだ。いや、変わるというより一層αらしくなると言ったほうが正しいか。きみが懐妊したあたりから積極的に動くようになったし、子が生まれるのが近づくにつれてますます意欲的になってきているしな」
「そうなんですか?」
僕にはそこまでノアール殿下が変わったようには見えなかった。もちろん執務のすべてを知っているわけではないから僕にはわからないことのほうが多いが、いずれにしてもノアール殿下の努力の結果のような気がする。
それよりも、そんなに無理をして大丈夫なんだろうか。僕のことばかり心配する殿下だが、殿下のほうこそ無理をしていないかと心配になる。
「ま、俺としてはいい傾向だと思っている。揺るぎないαが君臨してくれれば足元も盤石になるし、俺も楽しく過ごせるからな」
「はぁ」
「何にしても、きみ次第でノアールは変わるということだ」
それがいいことなのか僕にはわからない。ただ、どんな殿下になったとしてもそばで支え助けたいという僕の気持ちは変わらない。
改めて決意を固めていると、立ち上がったヴィオレッティ殿下が近づいてきて椅子の背もたれに手をかけた。どうしたのだろうかと見上げると、スッと顔が近づいてくる。
「ルジャンは二度とノアールには逆らえない。上位αに首根っこを掴まれたαは本能的に逆らえなくなるからだ。そのことにルジャンは気づいていないようだが、そのほうがあいつにはいいだろう。そうなるようにノアールが仕向けたんだろうしな」
「え……?」
「完全に覚醒したノアールは恐ろしいαになる。それを手懐けられるのは、唯一の相手であるΩのきみだけだ」
「あの、」
スッと離れたヴィオレッティ殿下がニヤッと笑った。どういう意味かわからず戸惑っていると、執務室の扉がガチャリと開いてノアール殿下が入ってきた。書類を手にしているということは、応接間での仕事のあとに官僚にも会ってきたのだろう。王太子自ら官僚の元に行くなど、やはり働き過ぎのような気がする。
やはり無理をしているんじゃないかと思いながら殿下を見ると、「大丈夫だ」と言うように優しい笑みを向けられた。それからいつもの表情に戻り、「いたのか」とヴィオレッティ殿下に視線を向ける。
「大事な王太子妃殿下の護衛代わりですよ」
「おまえがいなくてもランシュに手出しできる者はいない」
「知っていますとも。あなたがそう望めばそうなるでしょうからね」
ノアール殿下はいつもどおりの冷静な表情で、それを見るヴィオレッティ殿下も普段どおりの飄々とした笑みを浮かべている。それなのに、いつもより空気が張り詰めているように感じるのは気のせいだろうか。
「さて、俺は王太子殿下に震え上がったであろう外交団たちを癒やしに行くとしますか」
「人聞きの悪いことを言う」
「おや、違いましたか?」
「さぁな」
「王太子殿下自ら出張ったんですから、シリュス王国もあれこれ言ってはこなくなるでしょうね。これでペイルル殿は正式にルジャンの妃というわけだ。この婚姻は我が国にとってもシリュス王国にとっても悪くない。なにより王太子殿下の望むとおりになった」
「行くならさっさと行ってこい」
「はいはい」
立ったまま残りの紅茶を飲み干したヴィオレッティ殿下が、「俺も優秀なαに首根っこを掴まれているαの一人なのさ」と僕に囁いてから部屋を出て行った。
ヴィオレッティ殿下が執務室を出て行った後もこの言葉がやけに気になった。αのことはよくわからないが、ノアール殿下が王太子らしくなったという理解でいいのだろうか。
それにしても“首根っこを掴まれた”とはどういうことだろう。まるでノアール殿下がヴィオレッティ殿下の弱みにつけ込んでいるように聞こえるが、王太子であるノアール殿下がそんなことをする必要はない。そもそも王太子として命令すれば済む話だからだ。それにヴィオレッティ殿下は望んで王太子付きになったようだし、ルジャン殿下も自らの意志でそばにいると話していた。
(覚醒というのもよくわからないし、ノアール殿下が恐ろしいαになるというのもよくわからないな)
殿下は国のためによき王太子であろうと努力している。長く思い悩んできた気持ちを少しずつ整理し、前を向いて進んでいるように僕には見えた。それが、ヴィオレッティ殿下には違うように見えているということなんだろうか。
(……やっぱりよくわからないな)
αのことをよく知らない僕にはわからないことが多い。わからないままにしておくのはよくないことだと思うが、いまは子のことを優先しよう。それに正式な王太子妃の立場になれば、否が応でも王族αのことは学ばなくてはいけなくなる。そのときにαの優劣や能力についても学べばいい。
そんなことを考えながら、気がつけば何度もお腹を撫でていた。最近はこうして無意識にお腹を撫でることが増えたが、こういうのも子ができたからだと思うと感慨深い。
(そういえば、もういつ生まれてもおかしくないと言われたな)
七カ月を過ぎたばかりだが、男のΩは早産がほとんどだということで後宮ではすでに準備万端だった。アフェクシィ殿が調べた限りでは半年で生まれたという事例もあったそうだから、そろそろ覚悟をしていたほうがいいだろう。
「ランシュ、大丈夫か?」
「え?」
「腹を撫でているが、気になることでもあるのか?」
「あ、いえ、そろそろ生まれてもおかしくない時期になったなと考えていただけです」
「もう七カ月か。男のΩは早産だと言うから、わたしもより一層気を配るようにしなければな」
「殿下は気を配りすぎだと思いますよ」
「愛する妃のためなら当然だ」
そう言った殿下が僕の額にチュッと口づけた。そうして「紅茶が冷めたな」と言って新しく入れ直してくれる姿はいつもどおりだ。
やはり殿下は何も変わっていない。いや、僕に対しては一層心配性になり、執務に関しては王太子として積極的に執務をこなしているように見える。ヴィオレッティ殿下の言葉は気になるが、僕は目の前にいる殿下を素直に感じたいと思った。
(たとえどんな殿下になったとしても、僕が慕っている殿下に違いはない)
僕は一生をかけて殿下を助けていく。殿下の隣に立ち、国のために働き一緒にどんな壁でも乗り越えてみせる。それが僕の役目で、僕にしかできないことだと思っていた。
改めてそう決意した僕に「こっちも忘れないでよ」と言いたいのか、小さな膨らみのお腹を子がぽこりと蹴った。
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