第17話 噛み合わないパ・ド・ドゥ

 二度目の発情後も、僕の日常が変わることはなかった。朝起きて、顔を洗って歯を磨き、軽くスケッチをしてから朝食を食べる。その後、ノアール殿下の執務室に行ってスケッチをしたり、首飾りのデザインについて少し話をするのも同じだ。


(気まずく思っていたのは僕だけだったんだろうな……)


 体が落ち着きスケッチを再開した日は、殿下の執務室への足がかつてないほど重かった。だって、妃にする気はないと言ったも同然の相手と顔を合わせるのだ。それなのに発情だけはしっかりと一緒に過ごしている。気まずくないはずがない。

 しかし、執務室で待っていた殿下はいつもどおりの様子だった。「体は大丈夫か?」と発情のことを聞かれたのは一度だけで、その後は普段どおりの会話や雰囲気に感じられた。

 殿下の態度が何を意味するのか僕にはわからない。王太子時代に閨教育とともにいろいろ学んできたが、ベッドを共にしながらその気がない相手への対処方法は学んでいなかった。だから殿下の態度がおかしいのか普通なのか僕には判断できなかった。

 戸惑う僕をよそに、殿下は時間があれば部屋にやって来た。僕が絵を描いているのを斜め後ろから眺め、ときおり「ふむ」と何か考えているふうなのも同じだ。

 しかし、絵や美術品に関して殿下と話す機会はグッと減った。一緒にベインブルを見て回ることもしていない。


「さすがの僕も、以前とまったく同じというわけにはいかないからな」


 想う相手と結ばれないとわかっているのに、いままでと同じように接することができるほど僕は強くない。それに、いずれは後宮を出なくてはいけない身だ。いまのうちから少しずつ距離を取ったほうがいい。

 そうしないと、後宮を出たあとに新たな嫁ぎ先を見つけるのは……。そこまで考えて軽く頭を振った。いまは、あまり先のことまで考えられそうにない。

 まずはしっかりと気力を取り戻すために絵を描こう。そのためにも新しい画材を部屋に運んでおかなければ。


「……そうか、それほど長く後宮にいられないかもしれないなら、もう画材を送ってもらう必要はないか」


 今朝、アールエッティ王国から新しい画材が届いていると侍女から聞いた。運んでもらうよりも取りに行ったほうが早いと思い、荷物が保管されている後宮の奥へと向かっているのだが、これも今回で終わりになりそうだ。


「画材の件はあとで手紙を書いておくか……」


 ついでに帰国することも伝えておいたほうがいいんだろうが、それはまたつぎの機会にしよう。そう思いながらため息をついたところで、前方から姫君たちがやって来るのが見えた。


(……そうだった。こうして遭遇するのを避けるために、自分で取りに行かないようにしていたんだった)


 いろいろあって、すっかり忘れていた。また殿下と発情を共に過ごしたのだから何かしら言われるんだろうなと覚悟しつつ、「こういう経験も、もうないかもしれないのか」と思うと妙に感慨深くなる。


「あら……」


 後宮で姫君たちに出くわすのは久しぶりだ。さて、何を言われるんだろうかと身構えはしたが、以前のような気鬱は感じない。これが最後になるかもしれないと思うと気持ちに余裕が生まれるのかもしれない。


「もう歩き回れるのかしら」

「今回の発情も殿下と一緒に過ごしたと聞いたわ」

「それなのに、こうして出歩いているということは……」

「殿下が途中で部屋を出られたのか、それとも男性のΩは発情が短いのかしら」

「あら、男性だからかもしれなくってよ。だって、いくらΩでも男性なんて……ねぇ」


 うふふと扇子の向こう側で姫君たちが笑っている。「なるほど、男のΩと女性のΩでは発情の日数が違うのかもしれないのか」と新たな情報に気を取られていると、「それに、前回の発情では懐妊しなかったでしょう」という言葉が聞こえてきた。


「αと発情を共にしたΩなら、普通は懐妊するものだわ」

「でも、そうはならなかった。やっぱり男性のΩだからじゃないかしら」

「それでは殿下の後宮にいる必要はないわね」

「それとも……ふふ」


 扇子の向こうで笑いながら僕を見ている複数の目と視線が合った。


「子ができないなら安心だと、そういう理由で相手に選ばれたのかもしれなくってよ?」

「まぁ」

「それならわかるわ。殿下があたくしたちの誰とも発情を過ごしてくださらないのは、誰と子を作るか悩んでいらっしゃるからでしょうし」

「最初の子は重要ですものね。生まれる子はαでしょうから、未来の王太子ということですもの」

「もちろん懐妊した方が王妃になるのでしょうし、その点でも悩まれているに違いありませんわ」

「それなら、子ができない男性のΩなら安心というわけね」


 そういう考えもあるのか。殿下の本心はわからないが、そうかもしれない状況ではある。


「あら、懐妊してもどうだったかわからなくってよ」


 その言葉に、小さく笑っていた姫君たちが静かになった。


「どういうことですの?」

「考えてもご覧なさい。子ができたとしても男性なのよ? それでお役目は終わりになる可能性が高いでしょう?」

「それもそうね。それに無事に子が生まれたとしても、男性ではお乳は出ないでしょうし」

「すぐに乳母に預けられるんじゃなくって?」

「それに子を生んだあとも寵愛されるとは思えないわ。これが姫君なら別でしょうけれどねぇ」

「小国の王子様じゃあ、ねぇ」

「よくて、お飾りのご生母様ってところかしら」


 姫君たちが再びクスクスと笑い始める。僕は言われた言葉をじっと噛み締めた。


(……そう考えるのが妥当なのかもしれないな)


 たしかに男である僕にはいろいろ問題がある。そもそも子ができたとしても無事に生めるかわからないし、乳が出るとも思えない。たとえ無事に生まれたとしても、母親になれるかわからない僕に子育てを任せたりはしないだろう。そう考えると、生まれた直後に子は乳母に預けられることになる。

 アールエッティ王国にも乳母はいるが、どちらかといえば子育ての手助けをする役割が大きい。実際に僕も妹も母上のお乳で育ったし、小さいときに寝かしつけてくれたのも行儀作法を教えてくれたのも母上だった。

 しかしここは大国ビジュオール、子育てからしてまったく違う可能性がある。もしかすると懐妊のときから違うかもしれない。


(そもそも生んだあとでお払い箱になる可能性もあるということだ)


 僕が後宮に呼ばれたのは、ノアール殿下に子が一人もいないからだ。子ができれば男のΩは必要なくなる。男性とも関係を持つらしいヴィオレッティ殿下ならわからないが、少なくともノアール殿下にとって子ができたあとも僕と閨を共にする理由はない。


「……あれ?」


 気がついたら自分の部屋の前に来ていた。どうやら考え事をしながら無意識に戻ってしまったらしい。姫君たちにちゃんと挨拶したか記憶にないが、しょうがない。そのくらい姫君たちの指摘は僕の中で大きなものだった。


「……子ができてもできなくても、僕はノアール殿下のそばには居続けられないってことか」


 今回の発情で子ができている可能性は低いだろう。もしできているなら、前回の発情ですでに懐妊しているはずだ。それが発情したΩとαなのだということはわかっている。


「いよいよどうにかしなくてはいけなくなってきたな……」


 部屋に入りながら、ついそんな言葉が漏れてしまった。つぶやいた僕の声は、誰もいない部屋で静かに消えた。




「どうかしたのか?」

「え……?」


 声をかけられてハッとした。


「絵筆があまり進んでいないように見えるが」

「ちょっと……手法を変えようかと考えていまして」

「なるほど」


 苦しい言い訳だが、絵画に詳しくないノアール殿下なら納得してくれるだろう。そんなことを思いながら、絵の具を含ませた筆をキャンバスに載せた。

 メインディッシュの皿よりも二回りほど大きなキャンバスには酔芙蓉が描かれている。殿下の執務室から見える庭の奥にたまたま見つけた花で、咲き始めの朝からしぼむ夕方にかけて色が変化するのがとても美しかった。その様子を描いておきたいと思い、手前は朝の白を、奥に向かうにつれて夕暮れの赤色で塗っている。

 別に塗り方の手法を変えようとは考えていない。もっとも得意とする写実性を追求する描き方で進めているし、この先も変える予定はなかった。それなのに筆が止まってしまうのは、つい今後のことを考えてしまうからだ。


(あとどのくらい、こうやっていられるんだろうな……)


 そんなことを考えるせいで、また筆が止まってしまった。しかしここで筆を置くことはできない。そんなことをすれば殿下に不審がられるだろうし、そこから僕が考えていることを知られてしまうかもしれないからだ。


「もしかして、体調が優れないのではないか?」

「いえ、そんなことはありませんが……」


 再び筆を止めてしまったせいで、殿下がまた気にし始めた。何でもないといつもどおりの口調で答えたが、振り返ると殿下の眉が少し寄っている。


「殿下?」

「……いや、わずかに香っていたランシュの香りが、ここのところほとんどしなくなった気がする」

「香り、ですか?」


 残念ながら自分の香りのことはわからない。殿下が「しない」というのならしないのだろう。


(そういえば、殿下の香りも感じないような……?)


 この前の発情のときには満腹になるほど濃厚なミルクの香りを嗅いだ。それこそ、しばらく焼き菓子を見るだけで殿下の熱を思い出すほどだった。それが、いまはまったく感じられない。


(まぁ、発情は終わったようだし、きっとこういうものなんだろう)


 それに、しょっちゅう感じられてもそれはそれで困る。後宮を出れば二度と嗅ぐことができなくなる香りなのだから、いまから嗅げない状況に慣れておいたほうがいい。

 ぼんやりとそんなことを考えながら絵筆を一旦置こうとしたとき、目の前に手が現れて驚いた。その手が額に触れ、まるで熱を測るように覆い被さる。


「あ、の……殿下、」

「熱はないようだが……いや、少し熱いか?」


 それは殿下に触れられているせいです……なんて言えるはずがない。せわしくなる鼓動を必死に落ち着かせながら、ただじっと手が離れるのを待つ。


「熱ではないなら、発情後だからか……?」


 先ほどの言い訳で納得してもらえなかったのだろうか。それとも、僕を心配して……?


(……そんなわけはないか)


 妃にするつもりがない男のΩを気にかけても仕方がない。それでも発情後だからと気遣ってくれているのだろう。その優しさが、いまはうれしさよりも痛みとして胸に突き刺さる。


「発情で体調を崩すことはないと思うが、男のΩはわからない部分が多い。気をつけることだ」

「ありがとうございます」

「それに今回は五日ほど続いたからな。体力が落ちていても不思議じゃない」

「……五日、」

「そうだ。途中、少し寝たり水を飲んだりはしたが、ほとんど交わりっぱなしだったから……傷がないことは確認しているが、どこか痛めていたりするか?」

「い……え、大丈夫、です」


 なんと、今回は五日も発情していたとは。どうりで尻に太いものが入ったままのような感覚がなかなか取れなかったわけだ。いまも発情のことを思い出しただけで尻がむずむずしてくる。尻だけじゃない。その奥も、むしろお腹の深いところが痺れるような感覚になって……って、僕は一体何を思い出しているんだ。

 慌てて記憶を封じようとしたが、ところどころしか覚えていないはずの殿下の熱が思い出されて体がカッと熱くなった。


「何もないならいいが、無理はしないことだ。大事な体なんだから十分労ってほしい」

「……ありがとう、ございます」


 どうしてそんな言葉をかけるのだろうか。もしかして、僕が孕んだと思っているとか……? そんなこと……そうあってほしいとあんなに願っていたのに、いまは子ができるほうがつらいに違いないと思えて苦しくなる。


「…………もしかして、発情のときのことを覚えているのか?」

「え……?」

「わたしに……頼み事をしていたことは、覚えているか?」


 もちろん覚えている。あれは僕のΩとしての覚悟が言葉になったものだ。しかし、覚えていると答えてもいいものか……。


(Ωからねだるのはよくないのかもしれない。それなら……)


「……気持ちよかったことは、覚えているんですが……」


 僕の言葉に、殿下が少しホッとしたような表情を浮かべた。


「そうか。いや、一度目のときも覚えていないと言っていたから、そうではないかとは思っていた」

「僕は何か……おかしなことを口走ってしまったんでしょうか」

「いや、大丈夫だ。それに、余計なことを口にしたのはわたしのほうで……あぁいや、何でもない」


 僕が噛んでほしいと何度も訴えたことを殿下は言わなかった。つまり、なかったことにしているということだ。


(……やっぱり、妃にするつもりはないってことだな)


 これで踏ん切りがついた。その気がない殿下のそばにいつまでもいるわけにはいかない。このままではアールエッティ王国のためにならないし、何より僕自身がつらくなるばかりだ。


「体調におかしなところはありません。僕は大丈夫です」


 声は震えていなかっただろうか。普段どおりの表情だっただろうか。そんな心配をしている僕の髪に、なぜか殿下がそっと触れてきた。そうして手櫛で撫でるように一度、二度と手を動かす。


「発情の間も思っていたが、こんなに美しい銀の髪は初めてだ。手触りも柔らかくて、まるで極上の絹糸のようだな。何度触れても飽きることがない」


 その言葉には何も答えられなかった。まるで慈しむような殿下の黒目から逃れるように、そっとキャンバスへと視線を戻した。




「まさか、これを使う日が来るなんてなぁ」


 鞄から取り出した瓶を持って、ゆらゆらと目の前で揺らしてみる。揺れているのは、僕がアールエッティ王国を出立する前日に妹のルーシアがくれた香水瓶だ。愛の女神を模した瓶は曲線が多用されていてとても美しい。さすがルーシアのデザインだと鼻高々になる。

 そんな香水瓶の中身を聞いたときは「使うことなんてあるのかなぁ」なんて思っていた。それなのに僕はいま、この香水を使おうと考えている。


「……うーん、嗅いでも本物に近いのかどうかわからないな」


 ポンプを取りつけてシュッと一押し振り撒いた香水は、ほんのり甘く感じられた。

 ルーシアいわく、これはαに効果てき面な“疑似Ωの発情の香り”なんだそうだ。αでもΩでもない彼女に、どうしてそんなものが調香できたのかわからない。しかし以前から懇意にしているΩの姫君に確認しながら作ったと話していたから、それなりに根拠と自信があるのだろう。


「……うん、それなら何とかなるはず」


 僕はこの香水を、ノアール殿下に試そうと考えいてる。


 首を噛まれていないとわかったあと、体が回復するまでの間にいろんなことを考えた。王太子時代にもこんなに考えたことはないというくらい考え、同じくらい悩んだ。

 国のことを考えるなら、妃になれないノアール殿下の元からさっさと離れて新しい嫁ぎ先を探すべきだ。しかし、ノアール殿下以外のαに……と考えるだけで寒気がする。こんな状態では、きっと他のαに嫁ぐことは難しいだろう。


「まぁ、時間が経てば可能かもしれないが」


 そう、つぎに進むためにも僕には時間が必要だ。ということは、できるだけ早く後宮から出たほうがいいということでもある。

 そう結論づけた僕は、すぐに準備を始めた。

 といっても、持ち込んだ画材や追加で送ってもらった画材を鞄にしまうだけだから、帰国の準備はすぐに済む。鞄に収まりきらないものはすでに国に送り返しているし、用意はほとんど終わっていると言ってもいい。

 まだ鞄にしまっていないのは、酔芙蓉のキャンバスに絵筆や一部の絵の具、それに描き終わっている黄色い薔薇の絵だけだ。

 ベッドの脇に立てたイーゼルを見る。一枚は酔芙蓉の絵で、もう一枚はステンドグラスのように描いた黄色の薔薇の絵だ。この薔薇は殿下の意見を聞きながら初めて違う手法で描き上げた作品で、僕にとって思い出深い一枚になった。


「殿下には、いろいろとよくしていただいた。だから、置いていくこの二枚はお礼なんだ」


 そんなことを言いながら、心の中では「二枚の絵を見るたびに僕のことを思い出してもらえるのでは」なんてことを思っていた。我ながらどうしようもないなと笑いたくなるが、殿下にも僕のことを覚えていてほしいと願わずにはいられなかった。

 こんなふうに帰国の準備をしながら、ノアール殿下への気持ちを少しずつ整理しているところだ。殿下のことは絶対に忘れられないだろうが、国のため、自分のためを考えると早く思い出にしてしまったほうがいい。そうして帰国し、しばらくは画家として活動したあと改めて隣国のαに打診して嫁ぐ準備をしよう。

 それまでの間は、ヴィオレッティ殿下が買ってくれた数枚の絵の代金で何とかしのぐしかない。


「というか、まさかあのヴィオレッティ殿下が僕の絵を買うとはな」


 てっきり芸術には興味がないのだと思っていた。いや、ノアール殿下が「ヴィオの母親は絵が好きなんだ」と話していたから、母君のために買ったのかもしれない。二人の妃も絵を見るのが好きだそうだから、贈り物にした可能性もある。


「おかげで臨時収入にしては大きな金額になった。財務大臣からの手紙にも、しばらく何とかなりそうだと書いてあったから大丈夫だろう」


 それに僕の支度金も相当な金額だった。あれは妃になれなかったとしても返却しなくてよいと親書に書かれていたもので、財政破綻を免れることができた最大の収入になった。

 となれば、あとは僕だけだ。いつまでも未練がましい気持ちを抱いていても仕方がない。それに、最後にしっかりと殿下のことを焼きつけてから帰国すると決めたんだ。


「この香水を使えば、僕が発情していると勘違いしてくれるはず」


 二度目の発情からあまり日は経っていないが、この香水はΩが発するαを虜にする香りらしいから、僕が再び発情したと思ってくれるだろう。


「それに、どうやらαはΩの発情に流される傾向にあるようだしな」


 そうでなければ、二度目の発情でも殿下が相手をしてくれたりはしなかったはず。それなら香水でも間違いなく成功する。

 そうして勘違いした殿下とベッドを共にしようと考えている。僕自身は発情していないから全部覚えていられるはずだ。その思い出があれば、きっとつぎに進める。本心から望んだわけじゃないαとの婚姻を迎えたとしても、思い出があれば耐えられる。


「……そうだ。僕はアールエッティ王国の第一王子で、Ωだ。遅咲きすぎるけど、国のために嫁がなくてはいけないんだ」


 だから、自分の気持ちは二の次でいい。そう思っているのに、今夜もやっぱり目頭が熱くなって香水瓶が滲んで見えた。

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